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安土桃山・2説併記南軍・羽柴方 対 北軍・明智方

山崎の戦いの布陣図

  • 天正10年6月13日
  • 京都府 乙訓郡大山崎町

図1 インタラクティブ3D布陣図

表示中の説: 部隊表の兵数

既定説の要旨 — 部隊表の兵数に拠る読み方(参謀本部編『日本戦史 山崎役』第二篇第一章) による

参謀本部編『日本戦史 山崎役』(1906) が第二篇第一章に掲げる両軍の部隊表の兵数をそのまま採る読み方。同書はこの表で南軍の12日の分を合計1万8500人、13日午後に加わった3隊を含めた前後総計を2万6500人とし、北軍の13日の分を合計1万6000人としている。堀秀政・加藤光泰・羽柴秀長の3隊については同書自身が兵数を未詳としている。本データではこの読み方を既定の表示にしている。

典拠: [1]日本戦史 山崎役

目次
  1. インタラクティブ3D布陣図
  2. 地形と布陣を読む解説
  3. 静止布陣図と説の比較
  4. 章立て
  5. 採用説の切替
  6. 部隊と兵力
  7. 時系列
  8. 凡例と注記 — この図の読み方
  9. 出典一覧
  10. この合戦をもっと読む — 関連書籍

山崎の戦いの布陣図 — 天王山・円明寺川と兵力の読み方

天王山から、戦場全体へ視線を広げる

山崎の戦いは、天正十年六月十三日に羽柴秀吉と明智光秀が戦った出来事として記されます。「天王山」の名で思い浮かべる山上の争奪だけでなく、そのふもとの戦闘を合わせて見ることが、布陣図を読む入口です。このページは参謀本部編『日本戦史 山崎役』を中心に、部隊の配置と経過を整理しています。

まず山崎のインタラクティブ布陣図で山地と平地の関係を見てください。その後で部隊名を選ぶと、天王山方面と円明寺川周辺で、どの隊が動いたと記されているかを追えます。表示する二つの読み方は、兵数の根拠の違いです。互いに独立した新旧二つの布陣説を示しているわけではありません。

円明寺川の両側を読む

大山崎町は、天王山のふもとを流れていた円明寺川、現在の小泉川を挟む一帯を山崎合戦の舞台として紹介しています。『日本戦史』も、山崎と川をめぐる諸隊の戦闘を記します。町の案内は現在の場所を探す手がかりになりますが、現在の河道が当日の河道と同じであることまで保証するものではありません。出典:大山崎町の合戦コース

立体図には現代の標高データを使用しています。当時の水田、道幅、河岸、植生を復元してはいません。山が高く見えることだけから、山を押さえた側の勝利が決まったと説明することも避けています。図の高低差は舞台を理解する情報として使い、戦闘の経過は史料の叙述から別に確かめてください。

正面・南の手・山手の戦闘

『日本戦史』の本編は、北軍の先行する隊が南軍を攻撃し、南軍が援軍を加えながら戦った場面を描きます。天王山方面では、北軍の山之手支隊に対して秀長らの隊が戦ったと記します。円明寺川周辺の戦闘と山手の戦闘は、同じ一場面へまとめず、図と年表を往復して確認してください。出典:日本戦史 山崎役

同書の補伝に収められた秀吉の書状も手がかりになります。そこでは道筋、南の手、山手の各方面と秀吉自身の手勢が並べられ、高山・中川・堀、池田、加藤・木村・中村、秀長・黒田らの働きが記されます。同じ書状は『大日本史料』第十一編之二にも天正十年十月十八日条として翻刻されており、宛名の表記に写しごとの違いがあります。この書状の記述は、天王山だけを勝敗の分かれ目とする説明にはなっていません。どこを強調するかは、読む史料によって変わります。

もちろん、書状を引くことだけで戦場の全容が確定するわけでもありません。書かれた目的や省略があり、地図に必要な位置情報がすべて揃うわけではないためです。部隊の動きは出典の記述と、それを画面へ置くための補間を区別して読む必要があります。

時刻の違いを一つに丸めない

『日本戦史』は秀吉が山崎へ着いた時刻を午後四時頃とし、一方で、淀川右岸の細道から進んだ南軍第三隊(池田隊)が午後二時から一部隊を出したとする一説も割注に記しています。「戦いは何時に始まったのか」と尋ねる際は、主将の到着、部隊の出動、実際の交戦を区別してください。一つの数字だけでは、何を指した時刻かが分からなくなります。

その後、敗れた光秀が勝龍寺城へ入り、秀吉方が城を取り巻いたと同書は記します。光秀が夜に城を脱して移動し、小栗栖で死んだという経過も収めています。表示時刻は収録した叙述に沿ったものとして捉え、原文が時刻を示していない出来事へ正確な分刻みの時間を補わないことが大切です。

兵力の切り替えで、何が変わるか

この図には「部隊表」と「石高からの推計」という、同じ『日本戦史』に含まれる異なる兵数の根拠があります。前者は同書の部隊表に掲げられた隊ごとの数、後者は所領をもとに算出した軍全体の数に着目します。これは数の作られ方を比較するための切り替えです。

総数の推計を各隊の人数に配り直すことはしていません。総兵力が示されていても、そのうち誰が何人を率いたかが書かれているとは限らないためです。部隊別の人数が不詳の表示に変わるときは、兵が消えたのではなく、その読み方で示せる情報の範囲が変わったと考えてください。

部隊表にも、出動や合流の時点が異なる記載と、人数が分からない隊があります。すべての表示を同時刻の在場兵力として合算すると、異なる集計を混ぜてしまいます。また、同書にある所領からの算出法を、ほかの合戦にも適用できる一般則として紹介することはしません。

天王山をめぐる複数の語り

同書の補伝には「天王山ニ関スル諸説」があり、『太閤記』『明智軍記』などの編纂物・軍記から異なる記述を集めています。山へ先に登った人物として、堀尾、堀、中川の手勢、池田家の伊木といった違う名が現れます。天王山が語られているという共通点だけで、各記述が一致しているとは判断できません。

比較する際は、本編の戦闘叙述、補伝に集められた軍記、収録された秀吉の書状を分けて読んでください。同じ一冊に載っていることと、同じ時期・性格の史料であることは別です。「天下分け目」の有名な言葉から逆に地形の役割を決めるより、何がどの文章に記されているかを辿ると論点が明確になります。

さらに調べる入口

大山崎町歴史資料館は山崎合戦を常設展示の一つとして案内しています。現地へ視線を戻す際も、現在の案内、史跡の位置、合戦当日の記述を同じ確度で扱わないことが大切です。出典:大山崎町歴史資料館

関連書籍とページ末尾の出典一覧から、関心のある論点を選んでください。兵数が気になるなら部隊表と本文の集計、天王山が気になるなら補伝と書状というように読み分けると、布陣図が採った情報と、まだ確定できない情報を確認できます。

静止布陣図と説の比較

3Dを表示できない環境向け。3Dが動く環境では畳んで表示します。

図2 静止布陣図(平面)と説の比較を開く/閉じる
山崎の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。
図2 山崎の戦い 布陣位置の概略(既定説)。地形の起伏は描いていない

天正10年6月13日、京都府乙訓郡大山崎町から長岡京市にかけて(山城国乙訓郡)。参謀本部編『日本戦史 山崎役』(1906) が第二篇第一章に掲げる両軍の部隊表の兵数をそのまま採る読み方。同書はこの表で南軍の12日の分を合計1万8500人、13日午後に加わった3隊を含めた前後総計を2万6500人とし、北軍の13日の分を合計1万6000人としている。堀秀政・加藤光泰・羽柴秀長の3隊については同書自身が兵数を未詳としている。本データではこの読み方を既定の表示にしている。

説の比較

説要旨よりどころ
部隊表の兵数に拠る読み方(参謀本部編『日本戦史 山崎役』第二篇第一章)既定表示
1906年提示
参謀本部編『日本戦史 山崎役』(1906) が第二篇第一章に掲げる両軍の部隊表の兵数をそのまま採る読み方。同書はこの表で南軍の12日の分を合計1万8500人、13日午後に加わった3隊を含めた前後総計を2万6500人とし、北軍の13日の分を合計1万6000人としている。堀秀政・加藤光泰・羽柴秀長の3隊については同書自身が兵数を未詳としている。本データではこの読み方を既定の表示にしている。日本戦史 山崎役
石高からの換算に拠る読み方(同書 第一篇第二章・第三章)
1906年提示
同じ『日本戦史 山崎役』が第一篇第二章・第三章で示す「一万石につき兵二百五十人を出す比例」による総数に拠る読み方。同書は南軍七家の所領を合計129万石として3万2250人、北軍の勢力圏を通計およそ75万石として1万8750人を得るはずだと算出している。同書の本文はこれとは別に北軍を「兵数僅ニ一万八千」とも記す。これらはいずれも軍全体の数であって、部隊ごとの兵数は示されていない。したがってこの読み方では各隊の兵数は未確定として扱い、名札に数値を出さない。日本戦史 山崎役

書籍リンク

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章立て

天王山と円明寺川

大山崎町は、秀吉と光秀が戦った舞台を、天王山のふもとに流れていた円明寺川(現在の小泉川)を挟んだ一帯と紹介している。参謀本部編『日本戦史 山崎役』は、南軍の第一・第二両隊が12日の夜すでに山崎駅に宿営し、北軍も13日の朝にその第一・第二両隊が駅の東方の円明寺川附近に来て屯したと記している。この章は、両軍が向き合った13日の朝の時間帯を映している。

注位置は国土地理院の地名・注記の代表点からの推定表示です

対峙の半日

同書は、両軍の先頭の距離は遠くなかったものの、午後に至るまで対峙して戦を開かなかったと記している。南軍が秀吉の到着を待っていたのだろうと同書は推している。北軍の部隊表は、第一隊を斎藤利三、第二隊を阿閉貞秀と明智茂朝ら、予備隊の右翼を藤田行政と伊勢貞興ら、中央を光秀、左翼を津田信春と村上清国ら、山之手支隊を並河易家と松田政近らとしている。

注部隊の左右の並びは史料の記述からの推定表示です

秀吉、山崎に至る

同書は、秀吉が13日の正午頃に信孝を迎えてともに東へ進み、午後4時頃に山崎に到着して諸隊を指揮し進撃させたと記している。秀吉は加藤光泰の隊を右翼に、堀秀政の隊を中央に加え、みずから予備隊を率いてこれに継いだと記されている。

注行軍の経路は史料の記述からの推定表示です

山之手の争い

同書は、これより先に北軍の山之手支隊が天王山に向かって挺進し、これを占領して山崎を瞰制しようとしたと記している。南軍の秀長らの隊がこれを迎えて激戦し、松田政近以下数百人を斃したと記されている。この山の争奪をめぐる記述は、同書の補伝第三十九に「天王山ニ関スル諸説」として軍記類から集められており、誰が先に山を占めたかで互いに食い違っている。

注天王山の記述は軍記類ごとに食い違います

円明寺川の正面

同書は、北軍の第一・第二の隊が直ちに前進して南軍の第一隊を攻撃したと記している。南軍は第二隊が左方に展開して第一隊を援け堀隊も協力し、さらに第三隊が来て左側を衝いたため北軍は退却したと記されている。秀吉が10月に書いた書簡も、道筋・南の手・山手の3方面をいずれも切り崩したと記している。

注各隊の位置は史料の記述からの推定表示です

勝龍寺の夜

同書は、光秀が予備隊の残部を率いて前進したものの、その中途で従士 比田則家の諫めを受けて遂に馬首を東北に向けたと記している。勝龍寺城に入った時、光秀に従う者はわずかに700余人であったとされ、在城の兵と敗れて帰った者を合算しても1000余人に過ぎなかったと記されている。長岡京市は、この城が元亀2年に細川藤孝によって改修されたと紹介している。

注勝龍寺城の位置は国土地理院の代表点からの推定表示です

御坊塚はどこか

同書は、光秀ははじめから御坊塚に陣していたと記している。その御坊塚が現在のどの地点にあたるかは確定していない。大山崎町は境野古墳群のなかの境野1号墳と推定し、長岡京市は境野1号墳とともに恵解山古墳であった可能性が指摘されていると紹介している。本作は光秀本隊を、両方の候補を含む半径320mの推定範囲として描いている。

注光秀本隊の位置は御坊塚の2つの候補を含む推定範囲です

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

部隊表の兵数に拠る読み方(参謀本部編『日本戦史 山崎役』第二篇第一章)既定表示

要旨(冒頭の「既定説の要旨」と同文)

参謀本部編『日本戦史 山崎役』(1906) が第二篇第一章に掲げる両軍の部隊表の兵数をそのまま採る読み方。同書はこの表で南軍の12日の分を合計1万8500人、13日午後に加わった3隊を含めた前後総計を2万6500人とし、北軍の13日の分を合計1万6000人としている。堀秀政・加藤光泰・羽柴秀長の3隊については同書自身が兵数を未詳としている。本データではこの読み方を既定の表示にしている。

よりどころ
[1]日本戦史 山崎役
提示
1906年
注記(この説の扱い)

部隊表は明治39年の編纂物が示す数であって、部隊ごとの兵数を記した同時代の文書を本データでは確認していない。北軍の表には同書自身が「概略左ノ如シ」という断りを置いている。断定ではなく「同書の部隊表では」という枠で紹介する。

石高からの換算に拠る読み方(同書 第一篇第二章・第三章)

同じ『日本戦史 山崎役』が第一篇第二章・第三章で示す「一万石につき兵二百五十人を出す比例」による総数に拠る読み方。同書は南軍七家の所領を合計129万石として3万2250人、北軍の勢力圏を通計およそ75万石として1万8750人を得るはずだと算出している。同書の本文はこれとは別に北軍を「兵数僅ニ一万八千」とも記す。これらはいずれも軍全体の数であって、部隊ごとの兵数は示されていない。したがってこの読み方では各隊の兵数は未確定として扱い、名札に数値を出さない。

よりどころ
[1]日本戦史 山崎役
提示
1906年
注記(この説の扱い)

同書は部隊表と石高換算の両方を載せながら、両者の合計が食い違うことについて説明を置いていない。どちらが正しいかを本データは決めない。この読み方は同書の本文に基づく整理であって、特定の研究者の学説ではない。高柳光寿・谷口克広・藤田達生・福島克彦らの著作は現物を確認していないため、読み方の根拠には置かず、書誌のみを sources と claims に残している。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。各行は表示中の説(部隊表の兵数)の値で、 他の説の値は行内に畳んでいます(切替は採用説の切替から)。凡例:史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

時系列

時刻の記載がない出来事は時刻欄を空け、史料の記す前後関係の順に並べています。章を開くと出来事と説明が読めます。

  1. 第一章天王山と円明寺川出来事 5 件朝
    1. 〔前日12日〕秀吉、富田に次し翌日の決戦を告げる

      部隊表の兵数・石高換算の兵数/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 山崎役(以下 4 件も同じ)

    2. 〔前日12日〕高山ら3隊の斥候、勝龍寺城の西に至り銃を放つ
    3. 〔前日12日〕光秀、桂川を渡り御坊塚に営す
    4. 〔前日12日〕光秀、明日払暁に山崎へ集まるよう命じる
    5. 朝北軍第一・第二隊、円明寺川附近に屯す
    この章の出来事の説明(4 件)
    〔前日12日〕秀吉、富田に次し翌日の決戦を告げる
    富田は本データの地形範囲の外にあるため3D上には配置していない。この出来事は前日12日のことである。engine の時計は日をまたぐ補正をしないため、t_min は前後関係だけを表す値として章の時間範囲の外の負値に置き、時刻の主張をしないよう time_ja は置いていない。 画面右上の日付・時計は13日を指すため、ラベルの先頭に「〔前日12日〕」と付けて前日の出来事であることを示している。章の時間範囲は13日の午前7時以降にとってあり、この出来事が章の直近の出来事として出ることはない。
    〔前日12日〕高山ら3隊の斥候、勝龍寺城の西に至り銃を放つ
    同書は、高山ら3隊が山崎の方位に前進し、その斥候が勝龍寺城の西で銃を放ち附近の村落を焼いたとし、高山・中川の両隊は山崎に屯し、池田以下は天神馬場・芥川にかけて宿営したと記している。この出来事は前日12日のことである。engine の時計は日をまたぐ補正をしないため、t_min は前後関係だけを表す値として章の時間範囲の外の負値に置き、時刻の主張をしないよう time_ja は置いていない。 画面右上の日付・時計は13日を指すため、ラベルの先頭に「〔前日12日〕」と付けて前日の出来事であることを示している。章の時間範囲は13日の午前7時以降にとってあり、この出来事が章の直近の出来事として出ることはない。
    〔前日12日〕光秀、桂川を渡り御坊塚に営す
    同書は雨を衝いて桂川を渡ったと記している。この出来事は前日12日のことである。engine の時計は日をまたぐ補正をしないため、t_min は前後関係だけを表す値として章の時間範囲の外の負値に置き、時刻の主張をしないよう time_ja は置いていない。 画面右上の日付・時計は13日を指すため、ラベルの先頭に「〔前日12日〕」と付けて前日の出来事であることを示している。章の時間範囲は13日の午前7時以降にとってあり、この出来事が章の直近の出来事として出ることはない。
    〔前日12日〕光秀、明日払暁に山崎へ集まるよう命じる
    斎藤利三は坂本へ退くよう諫めたが容れられなかったと記されている。この出来事は前日12日のことである。engine の時計は日をまたぐ補正をしないため、t_min は前後関係だけを表す値として章の時間範囲の外の負値に置き、時刻の主張をしないよう time_ja は置いていない。 画面右上の日付・時計は13日を指すため、ラベルの先頭に「〔前日12日〕」と付けて前日の出来事であることを示している。章の時間範囲は13日の午前7時以降にとってあり、この出来事が章の直近の出来事として出ることはない。
  2. 第二章対峙の半日出来事 1 件
    1. 両軍、午後まで対峙して戦を開かず

      部隊表の兵数・石高換算の兵数/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 山崎役

    この章の出来事の説明(1 件)
    両軍、午後まで対峙して戦を開かず
    同書は両軍の先頭の距離は遠くなかったとし、南軍が秀吉の到着を待っていたのだろうと推している。
  3. 第三章秀吉、山崎に至る出来事 3 件正午頃〜午後4時頃
    1. 正午頃秀吉、信孝を迎えともに東へ進む

      部隊表の兵数・石高換算の兵数/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 山崎役(以下 2 件も同じ)

    2. 午後2時頃一説に、南軍第三隊(池田)が一部隊を前へ出す
    3. 午後4時頃秀吉、山崎に到着し諸隊を指揮する
    この章の出来事の説明(1 件)
    一説に、南軍第三隊(池田)が一部隊を前へ出す
    同書は第三隊(池田)が淀川右岸の細径から前進したとする本文に割注を付け、この隊が午後2時から一部隊をこの地点に出したとする一説を記している。
  4. 第四章山之手の争い出来事 2 件
    1. 北軍山之手支隊、天王山へ挺進する

      部隊表の兵数・石高換算の兵数/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 山崎役(以下 1 件も同じ)

    2. 山之手支隊、敗れる
    この章の出来事の説明(1 件)
    北軍山之手支隊、天王山へ挺進する
    同書は南軍の秀長らの隊がこれを迎えて激戦し、松田政近以下数百人を斃したと記している。
  5. 第五章円明寺川の正面出来事 3 件
    1. 戦闘第一時期 — 北軍第一・第二隊の攻撃と退却

      部隊表の兵数・石高換算の兵数/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 山崎役(以下 2 件も同じ)

    2. 戦闘第二時期 — 北軍予備隊の両翼が接戦する
    3. 戦闘第三時期 — 加藤隊、久我縄手の方位から背後を衝く
  6. 第六章勝龍寺の夜出来事 6 件午後7時頃
    1. 御牧兼顕、退却を勧め残兵を集めて戦死する

      部隊表の兵数・石高換算の兵数/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 山崎役(以下 5 件も同じ)

    2. 光秀、前進の途中で馬首を東北に転じる
    3. 午後7時頃光秀、勝龍寺城に入る(従う者700余人)
    4. 北軍、近江および丹波へ潰走する
    5. 秀吉、堀隊を山科・粟田口に派し勝龍寺城を囲む
    6. 北軍の死者3000余人と記される
    この章の出来事の説明(2 件)
    北軍、近江および丹波へ潰走する
    同書は久我縄手と老ノ坂の附近で死ぬ者も多かったと記している。老ノ坂は地形範囲の外にある。
    北軍の死者3000余人と記される
    同書は南軍の死者を未詳としている。
  7. 第七章御坊塚はどこか出来事 2 件
    1. 光秀、深更に囲みを脱す

      部隊表の兵数・石高換算の兵数/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 山崎役(以下 1 件も同じ)

    2. 光秀、小栗栖で要撃に遭い死す
    この章の出来事の説明(2 件)
    光秀、深更に囲みを脱す
    同書は13日の夜深更としている。t_min は前後関係を表すための値で、時刻の主張ではない。この出来事は章の時間範囲の外にある。engine の太陽は時刻を午前5時から午後7時に丸めるため、夜の場面を3Dに置くと昼の光で描かれる。画面上部の直近の出来事としてだけ残す。
    光秀、小栗栖で要撃に遭い死す
    小栗栖は本データの地形範囲の外にあるため3D上には配置していない。t_min は前後関係を表すための値で、時刻の主張ではない。この出来事は章の時間範囲の外にある。

凡例と注記 — この図の読み方

読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

本文中の典拠番号 [n] は、下の「出典一覧」の同じ番号の文献を指します。 3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、切替をしない限り既定説の配置を表示します。

陣営
  • 南軍・羽柴方南軍(羽柴秀吉らの連合軍)
  • 北軍・明智方北軍(惟任光秀の軍勢)
日付・場所・地形データ・利用条件・データ出典(この図の注記)
日付について

天正10年6月13日(グレゴリオ暦 1582-07-12)

グレゴリオ暦の1582-07-12は、参謀本部編『日本戦史 山崎役』がコマ11(第二篇第二章)の割注に「陽暦七月十二日」と記す日付と一致する(全文テキストはこの割注を「陽曆比月」と誤読している。2026-09-24 に Claude(AI照合、D-015)が原本画像で確認)。ユリウス暦の1582-07-02は制作上の換算であり、同書の記載ではない。本能寺の変(天正10年6月2日)をユリウス暦1582年6月21日とする一般的な対応を起点に11日を加えて求めた。

場所

京都府 乙訓郡大山崎町から長岡京市にかけて(山城国乙訓郡)

地形

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

現代地形を使用しています(当時の河道・堤・池・植生・街道は異なる場合があります)

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

利用条件

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

タイルセットの詳細

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。2026-09-11の国土地理院回答により、本プロジェクトが照会した統合DEMの複製保存・動画掲載・Web表示について測量法の手続きは不要と確認した。回答の適用範囲と産総研側の利用条件は docs/external_evidence/gsi_reply_20260911.md を参照する。

データ

布陣・兵力・時系列: 参謀本部編『日本戦史 山崎役』(1906) / 秀吉書状: 同書 補伝第五十六 / 史跡解説: 大山崎町・長岡京市 / 座標: 国土地理院 地名検索API

布陣・兵力・時系列には諸説があります。本作は兵力について、参謀本部編『日本戦史 山崎役』の部隊表に拠る読み方と、同書の石高換算に拠る読み方(部隊ごとの数は示されないため兵力不詳と表示)を切り替えて表示し、位置が確定できない部隊は推定範囲として扱っています。光秀本陣とされる御坊塚は比定が定まらないため、境野1号墳と恵解山古墳の両方を含む範囲で示しています。地形データの出典表記は knowledge/battles/yamazaki/terrain/terrain.json の credit_ja に揃えています。

出典一覧

出典一覧(全 12 件)を開く本文の典拠番号 [n] はこの一覧の番号です
  1. 参謀本部 編 『日本戦史 山崎役』

    元真社/1906年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 771064)は IIIF manifest が「日本戦史.山崎役」/著者 参謀本部 編/出版者 元真社/出版年 明39(1906)/書誌ID 000000430552/請求記号 77-30/全132コマ と示す。本編は第一篇(起因及戦役前ノ形勢)・第二篇(作戦)・第三篇(結果)から成り、第一篇第二章に南軍ノ兵力、第三章に北軍ノ兵力、第二篇第一章に両軍ノ計画及措置、第二篇第二章に戦闘を収める。コマ16以降に補伝、コマ110以降に両軍将士姓名表、コマ116以降に地名箋を付す。

    明治39年に旧陸軍参謀本部が編纂した戦史。本文は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPIで取得したOCRテキストにより機械的に確認し、2026-09-24 に Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が引用・数値・人名・地名箋・附図を原本画像(IIIF)と照合した(記録は knowledge/battles/yamazaki/source_review_2026-09-24.md)。引用文(quote_ja)は全文テキストのままなので、OCRが読めなかった文字(〓)と誤読を含む(例: 原本の「阿閉貞秀」が「阿問貞秀」「阿開貞秀」、「洞ヶ嶺」が「洞〓嶺」「洞"嶺」と出る)。

  2. 東京帝国大学文学部史料編纂掛 編 『大日本史料 第十一編之二』

    東京帝国大学/1928年 / 編纂史料/ 一次史料 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション pid 3450625(IIIF manifest のタイトル「大日本史料.第11編之2」、公開区分 PDM、全557コマ)。天正10年10月18日条 775頁(コマ431)〜782頁(コマ435)。

    東京大学史料編纂所の前身が編纂した編年史料集で、文書を翻刻して収める。本データでは天正10年10月18日付の秀吉書状の翻刻として参照した。2026-09-24 に Claude(AI照合、D-015)が IIIF 画像(コマ431・434・435)で本文・宛名・所蔵注記を読んだ。全文テキスト(OCR)は崩れが大きいため quote_ja には用いていない。

  3. 大山崎町 『山崎合戦の地を歩くコース(大山崎町 観光モデルコース)』

    2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「山崎合戦古戦場」「明智光秀本陣跡」「旗立松展望広場」「宝積寺」の各節。

    京都府乙訓郡大山崎町の公式サイト。2026-09-06 に取得した本文を要約して claim に書いた。画像・地図は転載していない。

  4. 大山崎町 『大山崎町歴史資料館』

    2026年 / 博物館/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    常設展示の構成と所在地(京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字竜光3番地)の記載。

    大山崎町歴史資料館の公式案内ページ。2026-09-06 に取得した。

  5. 長岡京市 『明智光秀・細川ガラシャ 長岡京市ゆかりの地』

    2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「恵解山古墳」「勝竜寺城」の各節。

    京都府長岡京市の公式サイト。御坊塚の比定について、大山崎町の記述と食い違う(大山崎町は境野1号墳と推定し、長岡京市は境野1号墳とともに恵解山古墳であった可能性が指摘されていると紹介する)。本データは両方を claim として登録している。

  6. 長岡京市 『勝竜寺城公園 — 明智光秀“最期の城”/細川ガラシャ“輿入れの城”』

    2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「勝龍寺城をめぐる物語」のうち「「山崎の戦い」に敗れた明智光秀が最期の夜を過ごした」「安土城より早く「瓦・石垣・天主」を備えた最先端の城づくり」の各節(見出しは 2026-09-25 に取り直したページで確認。ページの更新日表示は 2026年8月21日)。

    長岡京市の公式サイト。2026-09-06 に取得した。

  7. 福島 克彦 『山崎合戦陣形図ついて』

    大山崎町歴史資料館/2008年 / 論文/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    『大山崎町歴史資料館館報』第14号 16〜18頁(2008年3月28日発行)。

    書誌は CiNii Research と全国遺跡報告総覧(奈良文化財研究所)の登録情報で確認した。本文は本データでは入手していないため、内容の要約は claim に書いていない。山崎合戦の陣形図そのものを扱う数少ない学術記事であり、人が現物を確認する価値が高い。

  8. 福島 克彦 『明智光秀 : 織田政権の司令塔』

    中央公論新社/2020年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    中公新書。2020年12月刊。書誌はNDLサーチで確認した。

    書名・著者・出版者・刊行年をNDLサーチの書誌で確認した。現物は確認していない。

  9. 谷口 克広 『検証本能寺の変』

    吉川弘文館/2007年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2007年5月刊。書誌はNDLサーチで確認した。

    書名・著者・出版者・刊行年をNDLサーチの書誌で確認した。現物は確認していない。

  10. 藤田 達生 『証言本能寺の変 : 史料で読む戦国史』

    八木書店/2010年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2010年6月刊。書誌はNDLサーチで確認した。

    書名・著者・出版者・刊行年をNDLサーチの書誌で確認した。現物は確認していない。

  11. 高柳 光寿 『明智光秀』

    吉川弘文館/1958年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    人物叢書(日本歴史学会 編)。1958年刊。書誌はNDLサーチで確認した。

    書名・著者・出版者・刊行年をNDLサーチの書誌で確認した。現物は確認していない。

  12. 国土地理院 『国土地理院 地名検索API(地理院地図の地名・注記データ)』

    2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    問い合わせ語と返り値: 「天王山」→ 北緯34.901930/東経135.676425、「京都府乙訓郡大山崎町字大山崎」→ 北緯34.897053/東経135.678284、「京都府乙訓郡大山崎町字円明寺」→ 北緯34.903648/東経135.690689、「京都府乙訓郡大山崎町字下植野」→ 北緯34.903587/東経135.701004、「京都府乙訓郡大山崎町字下植野小字境野」→ 北緯34.910141/東経135.696457、「恵解山古墳」→ 北緯34.914260/東経135.697579、「京都府長岡京市勝竜寺」→ 北緯34.913311/東経135.705917、「京都市伏見区淀本町」→ 北緯34.905556/東経135.717926、「京都市伏見区久我西出町」→ 北緯34.938538/東経135.721359。

    座標化にのみ用いた。返り値は住所や注記の代表点であって遺構の中心点ではない。利用条件の確認は人の確認事項とする。

この合戦をもっと読む — 関連書籍

布陣図の元になった史料・研究にあたるための本です。書影と書誌は楽天ブックス・openBD・国立国会図書館サーチから取得しています。

  • 『明智光秀』書影

    明智光秀 織田政権の司令塔

    福島克彦/中央公論新社/2020-12/ISBN 9784121026224

    山崎合戦の舞台である大山崎町の歴史資料館に長く関わってきた著者による明智光秀の評伝(中公新書)。本データが陣形の突き合わせ先として挙げた「山崎合戦陣形図について」(大山崎町歴史資料館館報14)と同じ著者で、光秀側の布陣を検討するときの第一の参照先にあたる。

  • 『明智光秀』書影

    明智光秀 史料で読む戦国史3

    藤田達生・福島克彦/八木書店/2015-10/ISBN 9784840622103

    藤田達生・福島克彦の両氏が編んだ明智光秀の論集(八木書店)。本データが basis_source_ids に挙げた研究者の論考をまとめて確認できる書目で、参謀本部編『日本戦史 山崎役』に依拠した本データの記述を研究側から検証するために置く。

ほか 4 冊を表示
  • 『明智光秀』書影

    明智光秀

    高柳光寿/吉川弘文館/1986-02/ISBN 9784642050272

    吉川弘文館「人物叢書」の明智光秀。本データが依拠する参謀本部編『日本戦史 山崎役』(1906)以後の光秀研究の基点にあたる評伝で、山崎合戦の経過をどこまで史料から言えるかを確認するための書目。

  • 書影
    なし

    信長軍の司令官 部将たちの出世競争

    谷口克広/中央公論新社/2005-01/ISBN 9784121017826

    織田家の部将たちの立場と序列を扱う新書。本データの部隊表に並ぶ池田信輝・惟住長秀・堀秀政・中川清秀・高山長房らが山崎の時点でどの位置にいたかを、部将の経歴の側から確かめるために置く。

  • 『本能寺の変』書影

    本能寺の変

    藤田達生/講談社/2019-06/ISBN 9784065162774

    本能寺の変を扱う一般向けの書。山崎の戦いは本能寺の変から11日後の戦闘であり、変の理解が光秀方の兵力・味方の集まり方の見方を左右する。合戦の前段を解説記事に置くための書目。

  • 『戦争の日本史(15)』書影

    戦争の日本史(15)

    小和田哲男・関幸彦・森公章/吉川弘文館/2006-10/ISBN 9784642063258

    吉川弘文館「戦争の日本史」の一冊で、山崎の戦いを起点とする秀吉の統一戦争を通してたどる概説。山崎・賤ヶ岳と続く流れの中に本合戦を置くための書目。

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