参謀本部編『日本戦史 山崎役』(1906) が第二篇第一章に掲げる両軍の部隊表の兵数をそのまま採る読み方。同書はこの表で南軍の12日の分を合計1万8500人、13日午後に加わった3隊を含めた前後総計を2万6500人とし、北軍の13日の分を合計1万6000人としている。堀秀政・加藤光泰・羽柴秀長の3隊については同書自身が兵数を未詳としている。本データではこの読み方を既定の表示にしている。
山崎の戦いの布陣図 — 天王山・円明寺川と兵力の読み方
天王山から、戦場全体へ視線を広げる
山崎の戦いは、天正十年六月十三日に羽柴秀吉と明智光秀が戦った出来事として記されます。「天王山」の名で思い浮かべる山上の争奪だけでなく、そのふもとの戦闘を合わせて見ることが、布陣図を読む入口です。このページは参謀本部編『日本戦史 山崎役』を中心に、部隊の配置と経過を整理しています。
まず山崎のインタラクティブ布陣図で山地と平地の関係を見てください。その後で部隊名を選ぶと、天王山方面と円明寺川周辺で、どの隊が動いたと記されているかを追えます。表示する二つの読み方は、兵数の根拠の違いです。互いに独立した新旧二つの布陣説を示しているわけではありません。
円明寺川の両側を読む
大山崎町は、天王山のふもとを流れていた円明寺川、現在の小泉川を挟む一帯を山崎合戦の舞台として紹介しています。『日本戦史』も、山崎と川をめぐる諸隊の戦闘を記します。町の案内は現在の場所を探す手がかりになりますが、現在の河道が当日の河道と同じであることまで保証するものではありません。出典:大山崎町の合戦コース
立体図には現代の標高データを使用しています。当時の水田、道幅、河岸、植生を復元してはいません。山が高く見えることだけから、山を押さえた側の勝利が決まったと説明することも避けています。図の高低差は舞台を理解する情報として使い、戦闘の経過は史料の叙述から別に確かめてください。
正面・南の手・山手の戦闘
『日本戦史』の本編は、北軍の先行する隊が南軍を攻撃し、南軍が援軍を加えながら戦った場面を描きます。天王山方面では、北軍の山之手支隊に対して秀長らの隊が戦ったと記します。円明寺川周辺の戦闘と山手の戦闘は、同じ一場面へまとめず、図と年表を往復して確認してください。出典:日本戦史 山崎役
同書の補伝に収められた秀吉の書状も手がかりになります。そこでは道筋、南の手、山手の各方面と秀吉自身の手勢が並べられ、高山・中川・堀、池田、加藤・木村・中村、秀長・黒田らの働きが記されます。同じ書状は『大日本史料』第十一編之二にも天正十年十月十八日条として翻刻されており、宛名の表記に写しごとの違いがあります。この書状の記述は、天王山だけを勝敗の分かれ目とする説明にはなっていません。どこを強調するかは、読む史料によって変わります。
もちろん、書状を引くことだけで戦場の全容が確定するわけでもありません。書かれた目的や省略があり、地図に必要な位置情報がすべて揃うわけではないためです。部隊の動きは出典の記述と、それを画面へ置くための補間を区別して読む必要があります。
時刻の違いを一つに丸めない
『日本戦史』は秀吉が山崎へ着いた時刻を午後四時頃とし、一方で、淀川右岸の細道から進んだ南軍第三隊(池田隊)が午後二時から一部隊を出したとする一説も割注に記しています。「戦いは何時に始まったのか」と尋ねる際は、主将の到着、部隊の出動、実際の交戦を区別してください。一つの数字だけでは、何を指した時刻かが分からなくなります。
その後、敗れた光秀が勝龍寺城へ入り、秀吉方が城を取り巻いたと同書は記します。光秀が夜に城を脱して移動し、小栗栖で死んだという経過も収めています。表示時刻は収録した叙述に沿ったものとして捉え、原文が時刻を示していない出来事へ正確な分刻みの時間を補わないことが大切です。
兵力の切り替えで、何が変わるか
この図には「部隊表」と「石高からの推計」という、同じ『日本戦史』に含まれる異なる兵数の根拠があります。前者は同書の部隊表に掲げられた隊ごとの数、後者は所領をもとに算出した軍全体の数に着目します。これは数の作られ方を比較するための切り替えです。
総数の推計を各隊の人数に配り直すことはしていません。総兵力が示されていても、そのうち誰が何人を率いたかが書かれているとは限らないためです。部隊別の人数が不詳の表示に変わるときは、兵が消えたのではなく、その読み方で示せる情報の範囲が変わったと考えてください。
部隊表にも、出動や合流の時点が異なる記載と、人数が分からない隊があります。すべての表示を同時刻の在場兵力として合算すると、異なる集計を混ぜてしまいます。また、同書にある所領からの算出法を、ほかの合戦にも適用できる一般則として紹介することはしません。
天王山をめぐる複数の語り
同書の補伝には「天王山ニ関スル諸説」があり、『太閤記』『明智軍記』などの編纂物・軍記から異なる記述を集めています。山へ先に登った人物として、堀尾、堀、中川の手勢、池田家の伊木といった違う名が現れます。天王山が語られているという共通点だけで、各記述が一致しているとは判断できません。
比較する際は、本編の戦闘叙述、補伝に集められた軍記、収録された秀吉の書状を分けて読んでください。同じ一冊に載っていることと、同じ時期・性格の史料であることは別です。「天下分け目」の有名な言葉から逆に地形の役割を決めるより、何がどの文章に記されているかを辿ると論点が明確になります。
さらに調べる入口
大山崎町歴史資料館は山崎合戦を常設展示の一つとして案内しています。現地へ視線を戻す際も、現在の案内、史跡の位置、合戦当日の記述を同じ確度で扱わないことが大切です。出典:大山崎町歴史資料館
関連書籍とページ末尾の出典一覧から、関心のある論点を選んでください。兵数が気になるなら部隊表と本文の集計、天王山が気になるなら補伝と書状というように読み分けると、布陣図が採った情報と、まだ確定できない情報を確認できます。
天王山と円明寺川
大山崎町は、秀吉と光秀が戦った舞台を、天王山のふもとに流れていた円明寺川(現在の小泉川)を挟んだ一帯と紹介している。参謀本部編『日本戦史 山崎役』は、南軍の第一・第二両隊が12日の夜すでに山崎駅に宿営し、北軍も13日の朝にその第一・第二両隊が駅の東方の円明寺川附近に来て屯したと記している。この章は、両軍が向き合った13日の朝の時間帯を映している。
注位置は国土地理院の地名・注記の代表点からの推定表示です
対峙の半日
同書は、両軍の先頭の距離は遠くなかったものの、午後に至るまで対峙して戦を開かなかったと記している。南軍が秀吉の到着を待っていたのだろうと同書は推している。北軍の部隊表は、第一隊を斎藤利三、第二隊を阿閉貞秀と明智茂朝ら、予備隊の右翼を藤田行政と伊勢貞興ら、中央を光秀、左翼を津田信春と村上清国ら、山之手支隊を並河易家と松田政近らとしている。
注部隊の左右の並びは史料の記述からの推定表示です
秀吉、山崎に至る
同書は、秀吉が13日の正午頃に信孝を迎えてともに東へ進み、午後4時頃に山崎に到着して諸隊を指揮し進撃させたと記している。秀吉は加藤光泰の隊を右翼に、堀秀政の隊を中央に加え、みずから予備隊を率いてこれに継いだと記されている。
注行軍の経路は史料の記述からの推定表示です
山之手の争い
同書は、これより先に北軍の山之手支隊が天王山に向かって挺進し、これを占領して山崎を瞰制しようとしたと記している。南軍の秀長らの隊がこれを迎えて激戦し、松田政近以下数百人を斃したと記されている。この山の争奪をめぐる記述は、同書の補伝第三十九に「天王山ニ関スル諸説」として軍記類から集められており、誰が先に山を占めたかで互いに食い違っている。
注天王山の記述は軍記類ごとに食い違います
円明寺川の正面
同書は、北軍の第一・第二の隊が直ちに前進して南軍の第一隊を攻撃したと記している。南軍は第二隊が左方に展開して第一隊を援け堀隊も協力し、さらに第三隊が来て左側を衝いたため北軍は退却したと記されている。秀吉が10月に書いた書簡も、道筋・南の手・山手の3方面をいずれも切り崩したと記している。
注各隊の位置は史料の記述からの推定表示です
勝龍寺の夜
同書は、光秀が予備隊の残部を率いて前進したものの、その中途で従士 比田則家の諫めを受けて遂に馬首を東北に向けたと記している。勝龍寺城に入った時、光秀に従う者はわずかに700余人であったとされ、在城の兵と敗れて帰った者を合算しても1000余人に過ぎなかったと記されている。長岡京市は、この城が元亀2年に細川藤孝によって改修されたと紹介している。
注勝龍寺城の位置は国土地理院の代表点からの推定表示です
御坊塚はどこか
同書は、光秀ははじめから御坊塚に陣していたと記している。その御坊塚が現在のどの地点にあたるかは確定していない。大山崎町は境野古墳群のなかの境野1号墳と推定し、長岡京市は境野1号墳とともに恵解山古墳であった可能性が指摘されていると紹介している。本作は光秀本隊を、両方の候補を含む半径320mの推定範囲として描いている。
注光秀本隊の位置は御坊塚の2つの候補を含む推定範囲です