本文へ移動

安土桃山・2説併記羽柴方 対 柴田方

賤ヶ岳の戦いの布陣図

  • 天正11年4月21日
  • 滋賀県 長浜市余呉町

図1 インタラクティブ3D布陣図

表示中の説: 通説(軍記)

既定説の要旨 — 軍記・編纂史料に基づく通説(『太閤記』『賤嶽合戰記』『淨信寺文書』ほか) による

江戸時代の軍記と近世の記録を軸に置く理解である。山路将監の勧めを受けた佐久間盛政が四月二十日の丑の刻に行市山を発ち、尾根づたいに余呉の湖畔へ下って大岩山の中川清秀を討ち、柴田勝家の再三の帰陣命令に従わずに現地へ留まったとされる。美濃大垣にいた羽柴秀吉はその報せを受けてその日のうちに木之本へ引き返し、翌二十一日の未明に佐久間勢を攻めて崩したとされる。参謀本部編『日本戦史 柳瀬役』(1907)が広めた理解もこの系統に属すると考えられる。

典拠: [1]大日本史料 第十一編之四 / [12]賤ヶ岳合戦エリア(豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市)

目次
  1. インタラクティブ3D布陣図
  2. 地形と布陣を読む解説
  3. 静止布陣図と説の比較
  4. 章立て
  5. 採用説の切替
  6. 部隊と兵力
  7. 時系列
  8. 凡例と注記 — この図の読み方
  9. 出典一覧
  10. この合戦をもっと読む — 関連書籍

賤ヶ岳の戦いの布陣図 — 山の陣地・秀吉の帰還と七本槍

山の陣地と、出来事を伝えた史料を見る

賤ヶ岳の戦いは、天正十一年四月の羽柴秀吉と柴田勝家の対決として語られます。『大日本史料』は、二十日に佐久間盛政が大岩山の中川清秀を襲い、翌二十一日に秀吉が盛政を撃ったという経過を日付ごとに整理しています。立体図では、余呉周辺の山の陣地と、その間を動く隊の関係を見ることができます。

このページの比較軸は、後世の軍記が描く詳しい場面と、当時の書状などから確かめられる情報の違いです。賤ヶ岳のインタラクティブ布陣図を開き、まず地名をつかんでから、説を固定したまま経過を追ってください。軍記の場面が文書側で示されないとき、それだけで出来事がなかったと断定するものではありません。

余呉・柳瀬と陣地の位置関係

秀吉の書状は戦場を「柳瀬表」と呼び、参謀本部編の戦史の書名も『日本戦史 柳瀬役』です。賤ヶ岳という一つの山の名だけでは、記述の対象となる地域全体を捉えきれません。図では余呉湖の周囲から北方へ視野を広げ、各陣地がどの山の方向にあるかを確認すると、史料の地名を読みやすくなります。出典:日本戦史 柳瀬役

『大日本史料』に収められた『淨信寺文書』は、秀吉方の賤ヶ岳・堂木山・大杉山・岩崎山・大岩山などの陣地を記します。同じ史料は柴田方が柳瀬へ出て、内中尾を本陣としたことや、諸将を山々に置いたことも述べています。陣地名を並べるだけでなく、どの史料がどの配置を伝えるかに注目してください。出典:大日本史料 第十一編之四

地形は現代の標高データによる表示です。当時の道、樹木、水面を復元しているわけではありません。行軍線も、記述と現在の地形をもとに置いた制作上の補間です。線が尾根をなぞって見えても、その道を実際に通ったと測定できたことを意味しません。

大岩山の攻撃から秀吉の帰還へ

『賤嶽合戰記』は盛政が行市山を発って峰伝いに進んだと記し、『淨信寺文書』は余呉の湖辺から大岩山の陣所に取り掛かったと述べます。攻撃の順序を考える際には、それぞれの記述が違う史料に由来することを意識してください。複数の文章をつないだ年表が、一人の目撃記録になるわけではありません。

中川清秀の最期についても、『淨信寺文書』と『太閤記』には異なる叙述があります。この解説は、どちらか一方を無条件で採用して、人物の最期を詳細に再現することはしません。図では攻撃対象と戦線の変化を確認し、細部は出典の注記へ戻る読み方を勧めます。

秀吉の帰還は、よく知られた場面である一方、到着時刻が一致していません。『新撰豐臣實錄』は木之本への到着を亥の時、『秀吉事記』と『豐鑑』は戌の刻、『賤嶽合戰記』は酉の刻と記します。大垣の出発時刻を一つの史料から、到着時刻を別の史料から選んで、行軍の所要時間を確定することは避けてください。

翌日の反撃と、前田勢をめぐる読み方

『一柳家記』は翌二十一日の寅の刻に秀吉が盛政の陣所へ取り掛かったとし、『太閤記』は佐久間勢が退くところを追われた場面を述べます。『大日本史料』の綱文には、勝家が支えきれず越前北庄へ逃れたとあります。これらの経過を確認したあとで部隊の動きを見ると、どこまでが史料の記述で、どこからが図示の補間かを分けやすくなります。

前田勢については、収録した『太閤記』の記述が、ある位置で軍勢を備えていたことを述べる一方、その箇所で戦ったとも退いたとも書いていない点に注意が必要です。図に隊があることから、参加・離脱・裏切りのいずれかへ自動的に分類することはできません。記述されていない動機を台詞や矢印で補うことも避けています。

七本槍は、史料によって顔ぶれが違う

七本槍として語られる顔ぶれも一様ではありません。『淨信寺文書』に挙がる名と、『豐鑑』や『太閤記』が挙げる名には違いがあります。現在の観光案内で紹介される福島正則・加藤清正らの顔ぶれが、すべての古い記述にそのまま並ぶわけではありません。出典:北近江の合戦案内

ここで比べたいのは、誰の働きが大きかったかを新たに順位付けすることではなく、後世に伝わる合戦像がどのような記述から成るかです。人物名が異なる理由を断定するには、本文の成立や伝来まで確認する必要があります。書誌だけを確認した研究の内容を補って、結論を作ることはしていません。

戦果の数字と兵力を区別する

秀吉の書状にも、伝える時期による数字の違いがあります。四月二十七日付の毛利輝元宛書状と五月十五日付の書状は五千余、九月四日付の結城晴朝宛書状は七千余を討った趣旨を記します。七月二日付の遠藤基信宛書状も七千余と書きますが、『大日本史料』はこの書状を天正十三年の条に収めています。こうした数字をそのまま確定した死者数や、開戦時の相手の兵力へ置き換えることはできません。何を、誰へ、いつ伝えた数なのかを合わせて読む必要があります。

部隊の兵力は出典の幅を残して示しています。幅の中央を採って「実数」としたり、人数不詳の隊へ軍全体の数字を均等に配分したりはしません。図で人数が少なく見えるという印象だけから、戦況を説明し切らないようにしてください。

さらに読むときの順序

最初に当日の結果を伝える書状、次に詳しい場面を語る軍記という順に読むと、どの情報が加わったかを比較できます。逆に、有名な場面から読み始める場合も、その記述がどの史料にあり、同時代の文書で何が確かめられるかを辿ってください。

関連書籍と下の出典一覧は、そのための入口です。『大日本史料』には性格の異なる史料が収められているため、書名だけで一律に扱わず、各項目が引く原史料名まで確認すると、賤ヶ岳の布陣図をより慎重に読むことができます。

静止布陣図と説の比較

3Dを表示できない環境向け。3Dが動く環境では畳んで表示します。

図2 静止布陣図(平面)と説の比較を開く/閉じる
賤ヶ岳の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。
図2 賤ヶ岳の戦い 布陣位置の概略(既定説)。地形の起伏は描いていない

天正11年4月21日、滋賀県長浜市余呉町から木之本町、福井県敦賀市との県境にかけて(近江国伊香郡・越前国敦賀郡)。江戸時代の軍記と近世の記録を軸に置く理解である。山路将監の勧めを受けた佐久間盛政が四月二十日の丑の刻に行市山を発ち、尾根づたいに余呉の湖畔へ下って大岩山の中川清秀を討ち、柴田勝家の再三の帰陣命令に従わずに現地へ留まったとされる。美濃大垣にいた羽柴秀吉はその報せを受けてその日のうちに木之本へ引き返し、翌二十一日の未明に佐久間勢を攻めて崩したとされる。参謀本部編『日本戦史 柳瀬役』(1907)が広めた理解もこの系統に属すると考えられる。

説の比較

説要旨よりどころ
軍記・編纂史料に基づく通説(『太閤記』『賤嶽合戰記』『淨信寺文書』ほか)既定表示
1907年提示
江戸時代の軍記と近世の記録を軸に置く理解である。山路将監の勧めを受けた佐久間盛政が四月二十日の丑の刻に行市山を発ち、尾根づたいに余呉の湖畔へ下って大岩山の中川清秀を討ち、柴田勝家の再三の帰陣命令に従わずに現地へ留まったとされる。美濃大垣にいた羽柴秀吉はその報せを受けてその日のうちに木之本へ引き返し、翌二十一日の未明に佐久間勢を攻めて崩したとされる。参謀本部編『日本戦史 柳瀬役』(1907)が広めた理解もこの系統に属すると考えられる。大日本史料 第十一編之四/賤ヶ岳合戦エリア(豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市)
同時代文書を基準に置いて軍記を読み直す立場(秀吉自身の書状と公家・僧侶の日記)
2005年提示
合戦の当日から数か月のあいだに書かれた文書と日記を基準に置き、後代の軍記・編纂史料が伝える場面をそれと突き合わせて確かめ直す立場である。秀吉自身の書状は戦場を「柳瀬表」と呼び、討ち取った数を四月二十七日付と五月十五日付では「五千餘」、九月四日付の書状では「七千餘」と書いており、数が書状ごとに動くことが読み取れる。『兼見卿記』や『多聞院日記』は日付と結果だけを短く記し、行軍の所要時間や七本槍のような場面を伝えていない。この立場に属する claim のなかには『淨信寺文書』『太閤記』のような編纂物の記述を引くものがあるが、それは編纂物を根拠として採るためではなく、同時代文書との食い違いを示すために引いている。七本槍の顔ぶれも『淨信寺文書』と後代の通行の七人では一致せず、近世軍記が情報をどう形にしたかは阿部一彦の論題が扱う主題である。大日本史料 第十一編之四

書籍リンク

国立国会図書館サーチで「賤ヶ岳の戦い」の関連書籍・論文を探す

章立て

余呉をはさむ砦の列

『淨信寺文書』は、秀吉が三月十一日に伊香郡余呉庄まで進んで賤ケ嶽に本城をこしらえ、木之本・東野山・堂木山・大杉山・岩崎山・大岩山と合わせて七か所に付城を構えたと記す。柴田勝家は三月十九日に柳瀬へ出て内中尾を本陣とし、行市山や小谷山などに諸将を配したとされる。両軍は余呉の谷をはさんで一か月あまり動かなかったと読める。砦の位置は史料が緯度経度を示していないため、山の注記か大字の代表点からの推定表示である。

注砦の位置は山の注記と大字代表点からの推定表示です

岐阜の挙兵と献策

四月十六日、神戸信孝が岐阜城で兵を挙げ、秀吉は信孝を攻めるために大垣城へ入ったとされる。『新撰豐臣實錄』は、山路将監がこの機を捉えて佐久間盛政に、中川清秀の陣所は他の要害から離れていて普請が堅くないという趣旨を説いたと記す。勝家は一戦ののち必ず本陣へ帰ることを条件に許したと『淨信寺文書』は記している。

注大垣城と岐阜城は本データの地形範囲の外にあります

丑の刻の中入り

『賤嶽合戰記』は、盛政が二十日の明け方の丑の刻に行市山を発ち、道筋を通らずに峰づたいに忍んで余呉の湖畔へ回ったと記す。賤ヶ岳の押えに佐久間三左衛門尉、堂木山の押えに前田又左衛門尉父子を立て置いたとも記す。夜の行軍の経路を緯度経度で示す史料は無く、3D上の線は制作上の補間である。

注夜間の行軍経路は史料に記されておらず推定表示です

大岩山の攻防

『淨信寺文書』は、余呉の海辺へ下って大岩山の中川瀬兵衛の陣所に取り懸かり、朝の巳の時から午・未の刻まで戦い、申の下刻に瀬兵衛が切腹したと記す。岩崎山の高山右近は退いて羽柴秀長の田上山の陣に入ったと『新撰豐臣實錄』は記す。賤ヶ岳の桑山重晴も城を捨てて退こうとしたが、丹羽長秀が湖上から入って持ちこたえたとされる。

注兵力には諸説があり範囲で示しています

大垣から木之本へ

『新撰豐臣實錄』は、秀吉が四月二十日の未の時に大柿を出て、その夕の亥の時に木本の駅に着いたとし、大柿から木本までを十三里、一里を三十六町とすると註している。着いた時刻は『秀吉事記』と『豐鑑』が戌の刻、『賤嶽合戰記』が酉の刻と記して揃わない。『淨信寺文書』は木之本に着いたときの供が十騎ばかりで、のちに二千余騎が追い着いたと記す。大垣は本データの地形範囲の外にあるため、この章は到着側だけを映している。

注到着時刻は酉・戌・亥と史料により異なります

寅の刻の鑓合わせ

『一柳家記』は、二十一日の寅の刻に秀吉が玄蕃の陣所の山上へ取り懸かったと記す。『太閤記』は佐久間勢が志津嵩の北の山へ引き上げるところを追われたと記し、『淨信寺文書』は各所で突き崩した七人を七本槍と呼ぶと記す。その顔ぶれは史料によって揃わない。

注七本槍の顔ぶれは史料により一致しません

北庄への道

『大日本史料』の四月二十一日の綱文は、勝家が支えることができず越前北庄へ逃れたと記す。『淨信寺文書』は毛受庄介が馬印を受けて残ったと記し、『豐鑑』はその討死を伝える。秀吉自身は同じ日のうちに戦況を書き送っている。北庄は本データの地形範囲の外にあたる。

注討ち取った数は同じ差出人の書状のなかでも動きます

五千餘と七千餘

秀吉自身の書状は、四月二十七日付と五月十五日付では討ち取った数を「五千餘」と書き、九月四日付の結城晴朝宛では「七千餘」と書いている。同じ人が同じ戦いについて書いた数が、戦いのあとの数か月のあいだに動いている。七月二日付の遠藤基信宛も「七千餘」と書くが、『大日本史料』はこの書状を天正十三年のものとして収めている。この章は戦場の画をそのままに、日付だけが離れていく区間である。

注(前章と同じ注記)

注討ち取った数は同じ差出人の書状のなかでも動きます

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

軍記・編纂史料に基づく通説(『太閤記』『賤嶽合戰記』『淨信寺文書』ほか)既定表示

要旨(冒頭の「既定説の要旨」と同文)

江戸時代の軍記と近世の記録を軸に置く理解である。山路将監の勧めを受けた佐久間盛政が四月二十日の丑の刻に行市山を発ち、尾根づたいに余呉の湖畔へ下って大岩山の中川清秀を討ち、柴田勝家の再三の帰陣命令に従わずに現地へ留まったとされる。美濃大垣にいた羽柴秀吉はその報せを受けてその日のうちに木之本へ引き返し、翌二十一日の未明に佐久間勢を攻めて崩したとされる。参謀本部編『日本戦史 柳瀬役』(1907)が広めた理解もこの系統に属すると考えられる。

よりどころ
[1]大日本史料 第十一編之四 / [12]賤ヶ岳合戦エリア(豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市)
提示
1907年
注記(この説の扱い)

軍記は合戦から数十年から百年以上のちに成った編纂物であり、『大日本史料』も同じ日付の下に食い違う記述を並べて示している。断定ではなく「通説では」という枠で紹介する。なお参謀本部の巻名は「賤岳役」ではなく「柳瀬役」で、本データはその本文を確認していない。basis_source_ids には本データが本文を読んだ史料だけを挙げる。参謀本部編『日本戦史 柳瀬役』(1907) と長浜城歴史博物館の図録は関連文献として sources に登録しているが、本文を入手していないためこの説の根拠には数えない。

同時代文書を基準に置いて軍記を読み直す立場(秀吉自身の書状と公家・僧侶の日記)

合戦の当日から数か月のあいだに書かれた文書と日記を基準に置き、後代の軍記・編纂史料が伝える場面をそれと突き合わせて確かめ直す立場である。秀吉自身の書状は戦場を「柳瀬表」と呼び、討ち取った数を四月二十七日付と五月十五日付では「五千餘」、九月四日付の書状では「七千餘」と書いており、数が書状ごとに動くことが読み取れる。『兼見卿記』や『多聞院日記』は日付と結果だけを短く記し、行軍の所要時間や七本槍のような場面を伝えていない。この立場に属する claim のなかには『淨信寺文書』『太閤記』のような編纂物の記述を引くものがあるが、それは編纂物を根拠として採るためではなく、同時代文書との食い違いを示すために引いている。七本槍の顔ぶれも『淨信寺文書』と後代の通行の七人では一致せず、近世軍記が情報をどう形にしたかは阿部一彦の論題が扱う主題である。

よりどころ
[1]大日本史料 第十一編之四
提示
2005年
注記(この説の扱い)

現存する研究者を含む立場であり、敬意ある中立的なトーンで紹介する。本データは阿部一彦・坂井尚登の論考の本文を入手していないため、この説の骨格は『大日本史料』が収める文書そのものの読み比べから組み立てている。研究者個人の結論として紹介してはならない。basis_source_ids には本データが本文を読んだ史料だけを挙げ、阿部一彦(2005)・坂井尚登(2022) は関連する研究として sources に登録するにとどめる。この説に切り替えても部隊の位置は動かない。前田利家・利長隊の中谷山と茂山は説の対立ではなく、同じ合戦のなかの布陣の場面と追撃の場面という別の時点の記述として扱っている。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。各行は表示中の説(通説(軍記))の値で、 他の説の値は行内に畳んでいます(切替は採用説の切替から)。凡例:史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

時系列

時刻の記載がない出来事は時刻欄を空け、史料の記す前後関係の順に並べています。章を開くと出来事と説明が読めます。

  1. 第一章余呉をはさむ砦の列出来事 3 件
    1. 秀吉、余呉庄に入り賤ヶ岳ほか七か所に付城を構える

      通説(軍記)・同時代文書説/ 史料の記載/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四(以下 1 件も同じ)

    2. 柴田勝家、柳瀬に出て内中尾に本陣を置く
    3. 山路将監、羽柴方から柴田方へ移る

      通説(軍記)・同時代文書説/ 研究者の解釈/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四

    この章の出来事の説明(3 件)
    秀吉、余呉庄に入り賤ヶ岳ほか七か所に付城を構える
    『淨信寺文書』は三月十一日のこととして記す。t_min は四月二十日の丑の刻を0とした経過分で、その日付から機械的に置いた値である。
    柴田勝家、柳瀬に出て内中尾に本陣を置く
    『淨信寺文書』は三月十九日のこととして記し、行市山に佐久間玄蕃、山ノ寺山に原隠岐守、池原山に浅見対馬、中谷山に前田又左衛門尉、小谷山に不破彦三、栃谷山に徳山五兵衛を置いたと続ける。
    山路将監、羽柴方から柴田方へ移る
    『大日本史料』が引く記述は、長浜城の受け取りのときに物頭であった山路将監が羽柴方となり、のちに再び柴田方となったと記す。日付を示す記述は確認していないため、t_min は柴田方の布陣と信孝の挙兵のあいだに置いた制作上の値である。
  2. 第二章岐阜の挙兵と献策出来事 3 件十九日の早朝〜十九日の午の刻
    1. 神戸信孝、岐阜城で兵を挙げ、秀吉は大垣城に入る

      通説(軍記)・同時代文書説/ 史料の記載/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四(以下 2 件も同じ)

    2. 十九日の早朝山路将監、佐久間盛政に大岩山への攻撃を勧める
    3. 十九日の午の刻勝家、一戦ののち本陣へ引くことを条件に同意する
    この章の出来事の説明(3 件)
    神戸信孝、岐阜城で兵を挙げ、秀吉は大垣城に入る
    『大日本史料』の四月十六日の綱文による。大垣城は本データの地形範囲の外にあり、3D上には配置していない。
    山路将監、佐久間盛政に大岩山への攻撃を勧める
    『太閤記』は四月十九日の早朝の相談とし、『新撰豐臣實錄』も同日のこととして中川清秀の仮の陣所が他の要害から離れて普請が堅くないという趣旨の進言を記す。
    勝家、一戦ののち本陣へ引くことを条件に同意する
    『淨信寺文書』は勝家が浅見道西を使者に立て、一つの城を攻めたら早々に本陣へ帰れと伝えたと記す。『太閤記』は同日の午の刻に玄蕃らが勝家の陣所へ参じて相談したと記す。
  3. 第三章丑の刻の中入り出来事 1 件丑の刻(午前2時頃)
    1. 丑の刻(午前2時頃)佐久間盛政、行市山を発つ

      通説(軍記)・同時代文書説/ 史料の記載/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四

    この章の出来事の説明(1 件)
    佐久間盛政、行市山を発つ
    『賤嶽合戰記』は二十日の明け方の丑の刻に行市山を発ち、道筋を通らず峰づたいに進んだと記す。本データはこの時刻を時系列の起点(t_min=0)に置いている。
  4. 第四章大岩山の攻防出来事 5 件巳の刻(午前10時頃)〜申の下刻(午後5時前後)
    1. 巳の刻(午前10時頃)大岩山への攻撃が始まる

      通説(軍記)・同時代文書説/ 史料の記載/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四(以下 4 件も同じ)

    2. 高山右近、岩崎山を退いて田上山へ向かう
    3. 申の下刻(午後5時前後)中川清秀、討死
    4. 桑山重晴、賤ヶ岳を退こうとする
    5. 丹羽長秀、湖上から賤ヶ岳に入る
    この章の出来事の説明(5 件)
    大岩山への攻撃が始まる
    『淨信寺文書』は余呉の海辺へ下って大岩山の中川瀬兵衛の陣所へ取り懸かり、朝の巳の時から午・未の刻まで戦ったと記す。
    高山右近、岩崎山を退いて田上山へ向かう
    『新撰豐臣實錄』は、後軍が敗れて高山がやむなく羽柴秀長の田上山の陣に逃れたと記す。
    中川清秀、討死
    『淨信寺文書』は申の下刻に切腹したと記し、城も焼き払われたと続ける。『太閤記』は玄蕃允の内の近藤無一が首を取ったと記す。
    桑山重晴、賤ヶ岳を退こうとする
    『新撰豐臣實錄』は、両塁が抜かれるのを見た賤ヶ岳の桑山修理亮が城を捨てて走り、すでに日が西山に沈んだと記す。
    丹羽長秀、湖上から賤ヶ岳に入る
    『武家事紀』は長秀が小船で針の浦に上がり、鉄炮の音を聞いて賤ヶ岳の城に軍使と玉薬を送ったと記す。『新撰豐臣實錄』は長秀自身が賤ヶ岳に移り、退いた桑山を呼び戻したと記す。
  5. 第五章大垣から木之本へ出来事 3 件未の刻(午後2時頃)〜戌の刻(午後8時頃)
    1. 未の刻(午後2時頃)秀吉、大垣を発つ

      通説(軍記)・同時代文書説/ 史料の記載/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四(以下 2 件も同じ)

    2. 戌の刻(午後8時頃)秀吉、木之本に着く
    3. 盛政、帰陣の命に従わず野陣を張る
    この章の出来事の説明(3 件)
    秀吉、大垣を発つ
    『新撰豐臣實錄』は四月二十日の未の時に一万五千の兵を率いて濃州大柿を出たと記す。大垣は本データの地形範囲の外にあたるため、3D上の位置は木之本のままとしている。
    秀吉、木之本に着く
    着いた時刻は史料ごとに違い、『秀吉事記』と『豐鑑』は戌の刻、『新撰豐臣實錄』は亥の時、『賤嶽合戰記』は酉の刻と記す。t_min は中ほどの戌の刻に置いた。
    盛政、帰陣の命に従わず野陣を張る
    『淨信寺文書』は、明後二十二日には都へ上って天下の主となるという趣旨を述べ、大岩山・蜂ヶ峯・庭戸浜・大原山に野陣を取り、二十日の夜は山々谷々に篝火を焚いたと記す。
  6. 第六章寅の刻の鑓合わせ出来事 4 件寅の刻(午前4時頃)
    1. 寅の刻(午前4時頃)秀吉、佐久間勢の陣所へ攻めかかる

      通説(軍記)・同時代文書説/ 史料の記載/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四(以下 3 件も同じ)

    2. 佐久間勢、退却を始める
    3. 賤ヶ岳の鑓合わせ
    4. 前田利家父子、茂山の麓に備えを置く
    この章の出来事の説明(4 件)
    秀吉、佐久間勢の陣所へ攻めかかる
    『一柳家記』は明くる二十一日の寅の刻に玄蕃の陣所の山上へ取り懸かったと記す。『淨信寺文書』は二十一日に黒田村の観音坂から登ったと記す。
    佐久間勢、退却を始める
    『太閤記』は玄蕃允が志津嵩の北の山へ引き上げ、原彦次郎が殿を務めたと記す。
    賤ヶ岳の鑓合わせ
    『淨信寺文書』は、おれら山・庭戸浜・清水谷口・飯浦山の各所で羽柴方の若い将が突き崩したと記し、その七人を七本槍と呼ぶと記す。『太閤記』も同じ場面に別の顔ぶれを挙げる。
    前田利家父子、茂山の麓に備えを置く
    『太閤記』は敗走を追う場面で、前田又左衛門尉が茂山の麓の高い所に二千余の勢を二段に備えていたと記す。同書はこの備えが戦ったとも退いたとも書いていない。
  7. 第七章北庄への道出来事 4 件
    1. 勝家、林谷口で討死を決める

      通説(軍記)・同時代文書説/ 史料の記載/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四(以下 3 件も同じ)

    2. 毛受勝助、勝家の馬印を掲げて討死
    3. 勝家、越前北庄へ走る
    4. 秀吉、同じ日のうちに戦況を書き送る
    この章の出来事の説明(4 件)
    勝家、林谷口で討死を決める
    『淨信寺文書』は、勝家が討死しようとしたところへ毛受庄介が進み出て馬印を受け取り、その間に国へ入られよと申し上げたと記す。
    毛受勝助、勝家の馬印を掲げて討死
    『豐鑑』は勝介が柴田の金箔押しの御幣を我が後ろに押し立て、勝家と名のって戦い、討たれたと記す。
    勝家、越前北庄へ走る
    『大日本史料』の四月二十一日の綱文は、勝家が支えることができず越前北庄へ逃れたと記す。北庄は本データの地形範囲の外にあたるため、退路の向きだけを示す。
    秀吉、同じ日のうちに戦況を書き送る
    『高木文書』の卯月廿一日付の秀吉書状で、その日に一戦して切り崩したという趣旨を伝えている。
  8. 第八章五千餘と七千餘出来事 2 件
    1. 四月二十七日付の書状は「五千餘」と書く

      同時代文書説/ 史料の記載/ 典拠: [1]大日本史料 第十一編之四(以下 1 件も同じ)

    2. 九月の書状は「七千餘」と書く
    この章の出来事の説明(2 件)
    四月二十七日付の書状は「五千餘」と書く
    『毛利家文書』の四月二十七日付・毛利輝元宛の秀吉書状による。t_min は四月二十七日として機械的に置いた値である。
    九月の書状は「七千餘」と書く
    『佐竹文書』所収の九月四日付・結城晴朝宛書状による。t_min は天正十一年九月四日(グレゴリオ暦1583年10月19日)の午前0時として機械的に置いた値である。『遊佐落合覺書』所収の七月二日付・遠藤基信宛書状も七千餘と記すが、『大日本史料』は全文を天正十三年七月二日の条に収めるため、この年の時系列には置いていない。

凡例と注記 — この図の読み方

読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

本文中の典拠番号 [n] は、下の「出典一覧」の同じ番号の文献を指します。 3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、切替をしない限り既定説の配置を表示します。

陣営
  • 羽柴方羽柴方(羽柴秀吉の軍勢)
  • 柴田方柴田方(柴田勝家の軍勢)
日付・場所・地形データ・利用条件・データ出典(この図の注記)
日付について

天正11年4月21日(グレゴリオ暦 1583-06-11)

『大日本史料』第十一編之四は四月二十日の綱文に大岩山の襲撃を、四月二十一日の綱文に賤嶽の決戦を置く。天正11年4月21日は宣明暦の日付で、国立天文台「日本の暦日データベース」によればグレゴリオ暦1583年6月11日、ユリウス暦6月1日にあたる(2026-09-24 確認)。

場所

滋賀県 長浜市余呉町から木之本町、福井県敦賀市との県境にかけて(近江国伊香郡・越前国敦賀郡)

地形

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

現代地形を使用しています(当時の湖岸・河道・池・街道・植生は異なる場合があります)

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

利用条件

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

タイルセットの詳細

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。2026-09-11の国土地理院回答により、本プロジェクトが照会した統合DEMの複製保存・動画掲載・Web表示について測量法の手続きは不要と確認した。回答の適用範囲と産総研側の利用条件は docs/external_evidence/gsi_reply_20260911.md を参照する。

データ

布陣・兵力・時系列: 東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十一編之四 (1932) が収める『淨信寺文書』『太閤記』『賤嶽合戰記』『新撰豐臣實錄』『一柳家記』『毛利家文書』ほか / 史跡解説: 敦賀市・滋賀県・長浜米原観光協会

布陣・兵力・時刻には諸説があります。本作は軍記に基づく通説と同時代文書に立ち返る見直しを切り替えて表示し、位置が確定できない部隊は推定範囲として扱っています。参謀本部編『日本戦史 柳瀬役』(1907) は書誌のみ確認し、本文は参照していません。地形データの出典表記は、地形メッシュ(knowledge/battles/shizugatake/terrain/terrain.json)の credit_ja と同じ文言に揃えてあります。

出典一覧

出典一覧(全 12 件)を開く本文の典拠番号 [n] はこの一覧の番号です
  1. 東京大学史料編纂所 編 『大日本史料 第十一編之四』

    東京大学/1932年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 3450627)は全546コマ。正親町天皇 天正十一年の四月がコマ22から、五月がコマ244から始まる。賤ヶ岳に関わる綱文は四月二十日(コマ53)「柴田勝家ノ將佐久間盛政、羽柴秀吉ノ將中川清秀ヲ近江大岩山ニ襲フ」と、四月二十一日(コマ88)「羽柴秀吉、柴田勝家ノ將佐久間盛政ヲ、近江賤嶽ニ擊チテ、大ニ之ヲ破リ」で、各綱文の下に『兼見卿記』『多聞院日記』『毛利家文書』『高木文書』『淨信寺文書』『太閤記』『豐鑑』『賤嶽合戰記』『新撰豐臣實錄』『一柳家記』『武家事紀』などの本文を引く。 出版者はNDL書誌・IIIF manifest の表記(東京大学、昭和7年)に合わせた。標題紙(コマ3)は「東京帝國大學文學部史料編纂所編纂」。目次はコマ5-21、四月十六日の条の本文はコマ22から。

    東京大学史料編纂所が編纂した史料集で、同時代文書と後代の編纂物を日付ごとに並べて収める。本データの引用は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/3450627)で取得したOCRテキストによる。quote_ja は国立国会図書館デジタルコレクション(pid 3450627)の全文テキストAPIが返す本文をそのまま引いている。『大日本史料』は二段組のため、割注・欄外の傍注・隣接行が本文に混ざる箇所がある。混入で本文が途切れる箇所は「…」で示す。〓はOCRが判読できなかった字で、「に」を「こ」「よ」「ま」、「は」を「い」、「の」を「う」「り」と読むなどの誤読もそのまま残している。原本画像との照合は 2026-09-24 に Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が行い、結果を knowledge/battles/shizugatake/source_review_2026-09-24.md に記録した。

  2. 参謀本部 編/日本戦史編纂委員 撰 『日本戦史 柳瀬役』

    元真社/1907年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    34,135p、22cm。将士表・地名箋・附図は別冊(元真社 1907/偕行社 1935/村田書店 覆刻 1978-79)。

    旧陸軍参謀本部『日本戦史』のうち賤ヶ岳の戦いを扱う巻で、書名は「賤岳役」ではなく「柳瀬役」である。2026-09-07 時点で国立国会図書館デジタルコレクションのインターネット公開分に本巻は無く(同シリーズは pid 771061-771076 と 936354-936357 に大阪役・中国役・桶狭間役・山崎役・小牧役・長篠役・姉川役・関原役・九州役・三方原役・小田原役・朝鮮役が公開されている)、本データは書誌のみをNDLサーチで確認し本文を確認していない。したがって本データの通説側の記述は同書ではなく『大日本史料』が引く軍記・編纂史料に拠っている。 2026-09-24 に国立国会図書館サーチの検索API(SRU)で「日本戦史」「柳瀬」を再検索し、デジタル化資料として返るのが pid 771061-771076 の各巻だけで、柳瀬役(本篇・将士表・地名箋・附図)の pid が無いことを確かめた。

  3. 塙保己一 編 『群書類従 第拾四輯』

    経済雑誌社/1894年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    全388コマ。合戦部 巻第三百九十一(コマ176、頁342)に「柴田退治記」を収める。

    2026-09-24 に原本画像のコマ176(柴田退治記の冒頭、頁342)とコマ178(頁346)を確認した。頁346の到着の記事は『大日本史料』が「秀吉事記」柴田退治の題で引く本文と同文である。本文の通読は行っていない。

  4. 阿部 一彦 『近世軍記と情報-賤ケ岳七本槍をめぐって』

    愛知淑徳大学/2005年 / 論文/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    『愛知淑徳大学国語国文』28号(2005年3月)97-122頁。ISSN 0386-7307。

    書誌事項を CiNii Research と国立国会図書館サーチで確認した(2026-09-24 再確認。出版者の表記は両者とも「愛知淑徳大学」)。本文は入手していないため、本データは論題が示す主題(近世軍記が七本槍の情報をどう伝えたか)に触れるだけで、結論の要約は claim に書いていない。

  5. 坂井 尚登 『地形から読み解く 賤ヶ岳の戦い-なぜ「山岳機動戦」になったのか』

    ワン・パブリッシング/2022年 / 論文/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    『歴史群像』31巻4号(2022年8月)150-159頁。

    書誌事項を CiNii Research で確認した。本文は入手していないため、結論の要約は claim に書いていない。

  6. 長浜市長浜城歴史博物館 編 『賤ヶ岳合戦と七本槍』

    長浜市長浜城歴史博物館/2018年 / 博物館/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2018年10月刊、71p。長浜城歴史博物館の展示図録(NDLサーチの責任表示は「長浜城歴史博物館 (長浜市立), 長浜市長浜城歴史博物館 企画・編集」)。

    書誌事項を国立国会図書館サーチで確認した。本文は入手していない。

  7. 『国指定史跡玄蕃尾城(内中尾山城)跡』

    敦賀市/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    文化・交流推進課のページ。

    取得日 2026-09-07。同ページは玄蕃尾城を「福井県と滋賀県の県境にある柳ケ瀬山の頂上」にあるとし、「賤ヶ岳の合戦時に柴田勝家の本陣となった山城」で「勝家は戦わずに城から撤退したため、山城の構造が良好な状態で残されています」と記す。市の解説であって一次史料ではない。

  8. 『大岩山(中川清秀の墓)』

    公益社団法人長浜米原観光協会/2026年 / ウェブ/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    所在地は長浜市余呉町下余呉。ページの地図が示す座標は北緯35.523739/東経136.204934。

    取得日 2026-09-07。観光協会の史跡紹介で、一次史料ではない。2026-09-07 に同ページを再取得して本文中の団体表記を機械抽出したところ、現れるのは「公益社団法人長浜米原観光協会」のみで、旧称「長浜観光協会」単独の表記は残っていない。本データはこれを確定名として採る。

  9. 『トレッキングの山 賤ヶ岳(滋賀県)』

    滋賀県/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2ページのPDF。賤ヶ岳の標高を421.1m、標高差を288mとし、余呉駅から賤ヶ岳山頂までのコースタイムを示す。元のURL https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/1000130.pdf は2026-09-25に404となったため、Internet Archive が2026-09-02に保存した写しを参照先とする。

    取得日 2026-09-07。2026-09-24 に Internet Archive の写し(2026-09-02 保存)で本文を確認した。県の登山ガイドで、史跡の考証を目的とした資料ではない。コースタイムは余呉駅→余呉湖観光館15分→岩崎山登山口10分→中川清秀の墓30分→猿ガ馬場20分→賤ヶ岳山頂40分と記す。本データはこの順序を尾根上の位置関係の裏づけに使っている。

  10. 『国土地理院 地名検索API(地理院地図)』

    国土地理院/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「賤ヶ岳」「余呉湖」「行市山」「玄蕃尾城(内中尾山城)跡」の注記と、長浜市余呉町柳ケ瀬・小谷・池原・国安・東野・中之郷・下余呉・文室・坂口、木之本町木之本・大音・黒田・飯浦・田部、西浅井町集福寺、福井県敦賀市刀根の大字代表点を取得した。

    取得日 2026-09-07。利用条件は knowledge/data_licenses.json の gsi_placenames を参照。

  11. 『国土地理院 標高API(地理院地図)』

    国土地理院/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    緯度経度を与えて標高を返すAPI。本データは尾根上を格子状に走査して極大点を求めるのに使った。

    取得日 2026-09-07。地名検索APIが返す「賤ヶ岳」「行市山」「玄蕃尾城(内中尾山城)跡」の座標でそれぞれ421.0m・659.9m・461.1mを返し、公表されている標高(421m・660m・460m前後)と一致した。本データはこの一致をもって、その3点の座標を山頂・城跡の位置として採っている。

  12. 『賤ヶ岳合戦エリア(豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市)』

    北近江豊臣博覧会実行委員会/2026年 / ウェブ/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    七本槍として福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則の七名を挙げる。

    取得日 2026-09-07。長浜市を含む実行委員会が運営する観光サイトで、一次史料ではない。

この合戦をもっと読む — 関連書籍

布陣図の元になった史料・研究にあたるための本です。書影と書誌は楽天ブックス・openBD・国立国会図書館サーチから取得しています。

  • 『柴田勝家』書影

    柴田勝家 織田軍の「総司令官」

    和田裕弘/中央公論新社/2023-06/ISBN 9784121027580

    本合戦で敗れた柴田勝家そのものを扱う評伝(中公新書)。賤ヶ岳で失われた側の軍事的位置づけ——織田家中で北陸方面軍を率いた家老がなぜ清須会議の後に秀吉と衝突したのか——を追える。battle_data が u_shibata_katsuie・u_sakuma_morimasa・u_maeda_toshiie に置いた柴田方の編成を、読者が人物の側から読み直すための1冊。

  • 『織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15』書影

    織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15

    池上裕子/講談社/2009-09/ISBN 9784062919159

    織田・豊臣政権の成立から江戸幕府までを一続きに扱う通史(講談社学術文庫・日本の歴史15)。賤ヶ岳を単発の合戦ではなく、清須会議から小牧長久手へ続く天下取りの過程の一段として位置づける。battle_data の ch_forts から ch_aftermath までの前後関係を読者が広い時間軸に置き直すための1冊。

ほか 4 冊を表示
  • 『清須会議』書影

    清須会議 秀吉天下取りへの調略戦

    柴裕之/戎光祥出版/2018-10/ISBN 9784864033015

    賤ヶ岳の直接の前史である清須会議を一冊で扱う研究書(戎光祥出版)。織田信長の死後の遺領配分と後継をめぐる合意が、どのようにして秀吉と勝家の対立に転じたのかを追う。battle_data の ch_standoff が「岐阜の挙兵」から始まる理由——なぜ天正11年の春に両者が余呉で対峙していたのか——を補う。

  • 書影
    なし

    信長軍の司令官 部将たちの出世競争

    谷口克広/中央公論新社/2005-01/ISBN 9784121017826

    織田家の部将たちを方面軍の司令官として並べて論じる書(中公新書)。柴田勝家・佐久間盛政・丹羽長秀・前田利家・堀秀政といった賤ヶ岳の両陣営の顔ぶれが、信長の下でどの位置にいたかが分かる。battle_data の units 15 隊が「なぜその人がその場所にいるのか」を読者が辿るための1冊。

  • 『近世への扉を開いた羽柴秀吉』書影

    近世への扉を開いた羽柴秀吉 長浜城主としての偉業を読む

    太田浩司/サンライズ出版/2018-11/ISBN 9784883251902

    長浜城主だった時期の羽柴秀吉を、北近江という土地の側から扱う地域史(サンライズ出版)。木之本・余呉・柳ヶ瀬を含む湖北の地理と在地支配を押さえられる。battle_data と presentation の座標が長浜市域の大字代表点に多く依存していること、大返しの経路が北国街道であることの背景を読者が確かめるための1冊。

  • 『織田信長家臣人名辞典第2版』書影

    織田信長家臣人名辞典第2版

    谷口克広/吉川弘文館/2010-11/ISBN 9784642014571

    織田家臣を一人ずつ立項した人名辞典(吉川弘文館)。桑山重晴・山路将監・浅見対馬・毛受勝助のように軍記の中でしか名を見ない人物を、典拠付きで引き直せる。battle_data が兵数不詳のまま置いた5隊の指揮官について、読者が別の史料の記載に当たるための入口。

当サイトの書籍紹介にはアフィリエイトリンクが含まれ、リンク先での購入により当サイトが紹介料を得ることがあります。

広告の扱いは広告に関する開示にまとめています。