| 石田三成隊 石田三成 | 西軍(石田三成方) | 約5,820人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜5,820人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 地点特定 / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(陣地を小関村に占めて北国街道を扼し、三成はその北方の笹尾にあった)と、国土地理院の注記「石田三成陣地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 範囲のみ(半径約600m) / 研究者の解釈白峰説 白峰説では石田三成方の主力本隊は山中エリアに密集して布陣したと解釈される。中心は国土地理院の関ケ原町大字山中の代表点、半径は同エリアのおおよその広がりを示す制作上の値であり、個々の部隊の地点は論文でも特定されていない。前後関係は c_shira_order_main を参照。 |
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| 島津義弘(惟新)隊 島津義弘 | 西軍(石田三成方) | 800〜1,500人 / 通説・史料記載典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。石高換算によらない概数として記されている。実額欄は「凡八百人」、汎称欄は「一千五百」。石高欄は空欄で換算によらない概数のため範囲で表す。 0〜1,500人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約300m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(島津惟新の隊は午前4時に到着し、三成の陣地を距ること僅か一町半の右にあたる小池村を選んで東南に向かって陣地を占めた)と、国土地理院の注記「池寺池」(小池村の西にあたるとされる)と「石田三成陣地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 範囲のみ(半径約600m) / 研究者の解釈白峰説 白峰説では石田三成方の主力本隊は山中エリアに密集して布陣したと解釈される。中心は国土地理院の関ケ原町大字山中の代表点、半径は同エリアのおおよその広がりを示す制作上の値であり、個々の部隊の地点は論文でも特定されていない。前後関係は c_shira_order_main を参照。 |
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| 島津豊久隊 島津豊久 | 西軍(石田三成方) | 約858人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜858人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約250m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(島津豊久の隊は島津惟新の隊の前方にあった)と、国土地理院の注記「池寺池」と「石田三成陣地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 範囲のみ(半径約600m) / 研究者の解釈白峰説 白峰説では石田三成方の主力本隊は山中エリアに密集して布陣したと解釈される。中心は国土地理院の関ケ原町大字山中の代表点、半径は同エリアのおおよその広がりを示す制作上の値であり、個々の部隊の地点は論文でも特定されていない。前後関係は c_shira_order_main を参照。 |
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| 小西行長隊 小西行長 | 西軍(石田三成方) | 約6,000人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜6,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約250m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(小西行長の隊は島津隊の右に接し、寺谷川に面して天満山北方の岡阜を負って位置した)と、国土地理院の注記「天満山」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 範囲のみ(半径約600m) / 研究者の解釈白峰説 白峰説では石田三成方の主力本隊は山中エリアに密集して布陣したと解釈される。中心は国土地理院の関ケ原町大字山中の代表点、半径は同エリアのおおよその広がりを示す制作上の値であり、個々の部隊の地点は論文でも特定されていない。前後関係は c_shira_order_main を参照。 |
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| 宇喜多秀家隊 宇喜多秀家 | 西軍(石田三成方) | 約17,220人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜17,220人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約300m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(宇喜多秀家の隊は最後に到着し天満山の前を選び、兵を前隊と本隊に分けて東南に向けて配備した)と、国土地理院の注記「天満山」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 範囲のみ(半径約600m) / 研究者の解釈白峰説 白峰説では石田三成方の主力本隊は山中エリアに密集して布陣したと解釈される。中心は国土地理院の関ケ原町大字山中の代表点、半径は同エリアのおおよその広がりを示す制作上の値であり、個々の部隊の地点は論文でも特定されていない。前後関係は c_shira_order_main を参照。 |
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| 大谷吉継隊 大谷吉継 | 西軍(石田三成方) | 600〜1,500人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。附記「兵数」の実額は1,500人。一方で本編は大谷吉継の本隊を「精兵六百」と記すため、本隊のみの600人を下限、隊全体の1,500人を上限として範囲で表す。 0〜1,500人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約250m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(大谷吉継の隊は初め山中村の高地にあり、関之藤川を前にして配備し、本隊は精兵600をもって本道を距ること僅か八町の後方にあった)と、国土地理院の注記「大谷吉隆墓」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 範囲のみ(半径約900m) / 研究者の解釈白峰説 白峰説では大谷吉継隊は主力本隊から離れ、関ヶ原エリアの最前線に突出して布陣したと解釈される。中心は国土地理院の関ケ原町大字関ケ原の代表点、半径は同エリアのおおよその広がりを示す制作上の値。 |
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| 毛利秀元隊 毛利秀元 | 西軍(石田三成方) | 約16,000人 / 通説・史料記載典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。石高換算によらない概数として記されている。実額欄は「凡一万六千人」。備考に「毛利秀元ノ兵ハ其父輝元及吉川広家ノ兵ヲ合ス」とあり、毛利輝元・吉川広家の兵を合算した数である。石高欄は空欄。この値と吉川広家隊の上限を単純加算すると二重計上になる(c_unit_sum_caveat 参照)。 0〜16,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約600m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(南宮山には毛利秀元があった)と、国土地理院の注記「南宮山」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 吉川広家隊 吉川広家 | 西軍(石田三成方) | 0〜16,000人 / 通説・不詳推定典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」は吉川広家の兵を毛利秀元の兵(凡一万六千人)に合算しており、単独の数値を挙げていない。そのため上限を合算値、下限を不明として範囲で表す。この範囲は合算値を上限とする不明値であり、推計値ではない。毛利秀元隊の値と単純に加算すると同じ16,000人を二重に数えることになる。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 0〜16,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約600m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(南宮山の毛利勢の前隊の長が吉川広家・福原広俊であった)と、国土地理院の注記「南宮山」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 安国寺恵瓊隊 安国寺恵瓊 | 西軍(石田三成方) | 約1,800人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜1,800人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約450m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(南宮山の岡ケ鼻に長束正家・安国寺恵瓊の諸隊があった)と、国土地理院の注記「南宮山」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 長束正家隊 長束正家 | 西軍(石田三成方) | 約1,500人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜1,500人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約450m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(南宮山の岡ケ鼻に長束正家・安国寺恵瓊の諸隊があった)と、国土地理院の注記「南宮山」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 長宗我部盛親隊 長宗我部盛親 | 西軍(石田三成方) | 約6,660人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜6,660人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約600m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(南宮山の東南端の果原山に長宗我部盛親があった)と、国土地理院の注記「南宮山」と「岐阜県垂井町栗原」の代表点の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 小早川秀秋隊 小早川秀秋 | 西軍として布陣し戦闘中に東軍へ寝返ったとされる部隊 | 約15,675人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜15,675人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約300m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(松尾山には小早川秀秋の隊があった)と、国土地理院の注記「松尾山」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 範囲のみ(半径約400m) / 研究者の解釈白峰説 白峰説では小早川秀秋は松尾山の山上ではなく、その前面の小高い岡(現・関ケ原町藤下)まで移動して布陣した可能性が高いとされる。中心は国土地理院の関ケ原町大字藤下の代表点。 |
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| 脇坂安治隊 脇坂安治 | 西軍として布陣し戦闘中に東軍へ寝返ったとされる部隊 | 約990人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜990人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約350m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四将は各その兵を率いて平野にあり、中山道を隔てて大谷の隊に連なった)と、国土地理院の関ケ原町大字藤下の代表点の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 小川祐忠隊 小川祐忠 | 西軍として布陣し戦闘中に東軍へ寝返ったとされる部隊 | 約2,100人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜2,100人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約350m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四将は各その兵を率いて平野にあり、中山道を隔てて大谷の隊に連なった)と、国土地理院の関ケ原町大字藤下の代表点の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 朽木元綱隊 朽木元綱 | 西軍として布陣し戦闘中に東軍へ寝返ったとされる部隊 | 約600人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜600人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約350m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四将は各その兵を率いて平野にあり、中山道を隔てて大谷の隊に連なった)と、国土地理院の関ケ原町大字藤下の代表点の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 赤座直保隊 赤座直保 | 西軍として布陣し戦闘中に東軍へ寝返ったとされる部隊 | 約600人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。石高欄はOCRで先頭の桁が読み取れなかった。実額600人は禄100石につき3人の法数から二万石に相当する。 0〜600人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約350m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四将は各その兵を率いて平野にあり、中山道を隔てて大谷の隊に連なった)と、国土地理院の関ケ原町大字藤下の代表点の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 徳川家康本隊 徳川家康 | 東軍(徳川家康方) | 約30,000人 / 通説・史料記載典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。石高換算によらない概数として記されている。実額欄は「凡三万」。石高欄は空欄で、換算によらない概数として記されている。 0〜30,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 地点特定 / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(家康は関ヶ原に近づくにおよび、馬を桃配山に駐めた)と、国土地理院の注記「徳川家康最初陣地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 福島正則隊 福島正則 | 東軍(徳川家康方) | 約6,000人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。石高欄はOCRで文字が重複しており確定できなかった。実額6,000人は法数から二十万石に相当する。 0〜6,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約350m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(東軍の先頭は二縦隊となり左は福島正則、右は黒田長政の隊であり、福島は銃卒800を指揮して中山道の左に進み宇喜多隊を射撃した)と、国土地理院の注記「開戦地」と「関ヶ原駅」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 順序のみ・位置不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰説では家康方の先手として順序のみが示され、布陣地点は示されていない。 |
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| 黒田長政隊 黒田長政 | 東軍(徳川家康方) | 約5,400人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜5,400人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 地点特定 / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(黒田長政は竹中重門を嚮導として岩手山の麓に循い相川を経て小栗毛の磧より進み、午前8時頃に石田の前隊の側面に向かった)と、国土地理院の注記「岡山烽火場」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 順序のみ・位置不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰説では家康方の先手として順序のみが示され、布陣地点は示されていない。 |
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| 長岡(細川)忠興隊 細川忠興 | 東軍(徳川家康方) | 約5,100人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜5,100人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(長岡忠興は黒田長政・田中吉政・加藤嘉明・金森父子らとともに石田の隊に向かって戦った)と、国土地理院の注記「岡山烽火場」と「石田三成陣地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 井伊直政隊 井伊直政 | 東軍(徳川家康方) | 約3,600人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。石高欄はOCRで文字が重複しており確定できなかった。実額3,600人は法数から十二万石に相当する。 0〜3,600人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 地点特定 / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(松平忠吉と井伊直政は騎士30人を率いて次を超えて進み福島隊の側に出て、宇喜多の隊に向かって戦端を開いた)と、国土地理院の注記「開戦地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 松平忠吉隊 松平忠吉 | 東軍(徳川家康方) | 約3,000人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜3,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 地点特定 / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(松平忠吉と井伊直政は騎士30人を率いて次を超えて進み福島隊の側に出て、宇喜多の隊に向かって戦端を開いた)と、国土地理院の注記「開戦地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 本多忠勝隊 本多忠勝 | 東軍(徳川家康方) | 約500人 / 通説・史料記載典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。石高換算によらない概数として記されている。実額欄は「五百人」。石高欄は空欄。備考に「本多忠政ハ忠勝ノ長子ニテ三千ノ内五百ハ忠勝之ヲ率イタリ」とある。 0〜500人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約600m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(本多忠勝は牧田路を扼して南宮山の敵に備えた)と、国土地理院の注記「十九女池」(『日本戦史』は牧田路がその南にあると記す)の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 田中吉政隊 田中吉政 | 東軍(徳川家康方) | 約3,000人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜3,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(田中吉政は長岡忠興・加藤嘉明・黒田長政らとともに石田の隊に向かって戦った)と、国土地理院の注記「岡山烽火場」と「石田三成陣地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 藤堂高虎隊 藤堂高虎 | 東軍(徳川家康方) | 約2,490人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜2,490人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(藤堂高虎・京極高知の二隊は進んで大谷の隊を攻撃した)と、国土地理院の注記「開戦地」と「大谷吉隆墓」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 京極高知隊 京極高知 | 東軍(徳川家康方) | 約3,000人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜3,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(藤堂高虎・京極高知の二隊は進んで大谷の隊を攻撃した)と、国土地理院の注記「開戦地」と「大谷吉隆墓」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 加藤嘉明隊 加藤嘉明 | 東軍(徳川家康方) | 約3,000人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜3,000人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(加藤嘉明は戸川達安の隊とともに石田方の島勝猛の隊を撃った)と、国土地理院の注記「岡山烽火場」と「石田三成陣地」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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| 寺沢広高隊 寺沢広高 | 東軍(徳川家康方) | 約2,400人 / 通説・石高換算典拠: 日本戦史 関原役 『日本戦史 関原役』附記「兵数」の実額欄と読み取った値による(列見出し〔秩禄/定員/実額/汎称〕の帰属はOCRでは確定できないため、原本画像での確認が必要)。換算仮定は「禄一百石毎ニ三人」(慶長5年4月27日 島津惟新書状に見える会津出兵の兵賦)、対象時点は慶長5年当時の禄高。同書自身が「東西両軍兵員ノ実額得テ知ル可ラス」と断っている。 0〜2,400人 / 白峰説・不詳推定典拠: 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか- 白峰説は個々の部隊の兵力数値を示していない。この項目は「新説側では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた通説(『日本戦史 関原役』)の値であって、白峰説がこの範囲を主張しているわけではない。消費側(engine・台本・記事)は basis="unknown" かつ value_min=0 の兵力を数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。 | 範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定通説 『日本戦史 関原役』の記述(寺沢広高は大谷隊に向かい、のち戸川らとともに進んで小西の隊を撃った)と、国土地理院の注記「開戦地」と「天満山」の座標から制作上補間した。座標は国土地理院 地名検索API(https://msearch.gsi.go.jp/address-search/AddressSearch)の返り値。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は制作上の補間である。 不詳 / 研究者の解釈白峰説 白峰旬2016論文はこの部隊の布陣位置に言及していないため位置不詳とする。 |
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