明治26年(1893)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 関原役』の記述と附図に基づく理解。石田三成を笹尾、宇喜多秀家を天満山前、小早川秀秋を松尾山、毛利秀元を南宮山に置き、午前8時頃の開戦、正午近くの小早川秀秋の寝返り、午後2時半の追撃中止という時系列を示す。現在流布している関ヶ原の布陣図の多くはこの附図を踏襲したものとされる。
関ヶ原の戦いの布陣図を読む — 地形・時系列・新説の違い
この合戦を一言で
関ヶ原の戦いの布陣図を読むときは、まず「どの史料や研究に基づく図か」を確認してください。このページでは、慶長五年九月十五日の関ヶ原本戦について、参謀本部編『日本戦史 関原役』をもとにした通説と、白峰旬による史料の再検討を切り替えて比較できます。同じ部隊名でも、置かれる場所や出来事の順序は一致しません。立体的な図は位置関係を考える手がかりですが、当日の戦場をそのまま記録した映像ではありません。
先に関ヶ原のインタラクティブ布陣図で全体を見てから、以下の解説と出典一覧を往復すると、表示の違いを確かめられます。見たい部隊を一つ選び、説を切り替えたときに位置・時刻・注記がどう変わるかを比べる読み方もできます。
地形を読む
『日本戦史 関原役』は、関ヶ原を山に囲まれた谷地として説明し、中山道・北国街道・牧田路が集まる場所として記述しています。図では、まず山と低地の位置関係をつかみ、そのあとに各隊の表示を重ねてください。道路や地名の記述と、現在の標高から見える地形は、確認の方法が異なる情報です。出典:日本戦史 関原役
このサイトの立体地形は、産総研地質調査総合センターの現代の標高データを使っています。当時の河道・池・堀・植生・街道を復元したものではありません。白峰の研究も、史料に現れる池や堀を現在の場所へ当てはめる際には検討が必要だとしています。画面上に流路や尾根が見えることだけから、そこで進路が塞がれた、そこが敗因だった、と結び付けることはできません。
布陣 — 地点と推定範囲を分ける
通説の表示では、石田三成を笹尾山、宇喜多秀家を天満山の前、小早川秀秋を松尾山に置く理解を採っています。これらは『日本戦史 関原役』の記述や附図に基づく表示です。地図上のマーカーが一点に置かれていても、全ての隊について当日の緯度経度が史料から分かるという意味ではありません。出典:附図・附表
白峰説では、石田三成方の主力を山中エリアの推定範囲で扱い、大谷吉継の隊はそこから東方へ離れた位置に出ていたと解釈します。小早川秀秋についても、開戦時には松尾山の山上ではなく、その前の岡にいた可能性を論じています。ここで重要なのは、通説のマーカーを別の一点へ動かすことだけではなく、具体的な場所を確定できない情報を、そのまま不確定なものとして読むことです。出典:白峰旬の新解釈
図や部隊表に「推定範囲」「位置不詳」「順序のみ」が出る場合は、その注記も位置情報の一部です。兵力についても、表示がないことを人数ゼロと読み替えないでください。白峰の論文が部隊ごとの具体的な兵数を示していない箇所には、別の説の数値を補っていません。
時系列 — 説を固定して順序を追う
通説では、午前八時頃の開戦、正午近くの小早川秀秋の寝返り、その後の西軍諸隊の崩れ、午後二時半頃の追撃中止という流れが描かれます。これは同書の記述を並べた時間軸です。時刻を一点で表示する場面でも、異なる史料に共通する確定時刻と扱わず、いま選択している説の記述として読んでください。
白峰は、早朝の関ヶ原エリアでの戦闘と、その後の山中エリアでの戦闘という段階を分けて考察しています。比較するときは、まず通説のまま年表を最後まで追い、次に白峰説へ切り替えて同じ部隊の動きを確認すると、異なる説の出来事を一つの時間軸に混ぜずに済みます。別の説の開始時刻と終了時刻を組み合わせて、戦闘時間を算出することも避けてください。
通説と新説 — 問鉄砲はどう扱うか
家康が小早川の動向を促すために鉄砲を撃たせたとする、いわゆる「問鉄砲」は、通説の筋立てに現れます。一方で白峰は、江戸時代の編纂史料を検討し、この話を後世の創作と論じています。このページでは、よく知られた逸話であることと、歴史的事実として確かめられることを分け、両方の説明を出典とともに示しています。出典:問鉄砲の研究
「新説」という表示だけで正しさが決まるわけでもありません。通説がどの書物や附図を用い、再検討がどの史料を根拠にしているかを比較してください。布陣図に疑問を呈する研究があることは、表示中の全ての位置を直ちに別の位置へ確定できることと同じではありません。出典:布陣図に関する考察
その後を調べる前に — 現在の陣跡との距離
合戦のあとに整えられた陣跡の案内も、当日の記録とは区別して扱う必要があります。白峰は、現在知られる陣跡の位置を考える際に、その成立事情へ注意を促しています。現地の表示とこの布陣図が一致する場合も、位置の一致だけで史料の裏付けが増えたとは判断できません。ここでは戦後処理の全体像までを説明せず、収録した戦闘経過と布陣の根拠を確認できる範囲を示しています。
もっと知る
まず下の出典一覧で、参謀本部の編纂書と白峰の研究論文を別々に確認してください。原文のページや図を確かめると、本文に書かれた情報と、このサイトが表示のために補間した情報を見分けやすくなります。さらに読む本は関連書籍にまとめています。書名だけで説を判断せず、対象としている史料・論点・刊行時期も確認しながら読んでください。
盆地の地形と街道
伊吹山地の南端で中山道・北国街道・牧田路が交わる関ヶ原の盆地を、現代の標高データで俯瞰する。『日本戦史 関原役』は、この平原を東西およそ2000メートル・南北およそ1800メートルのほぼ四辺形の谷地と記している。
注現代地形を使用しています(当時の河道・池・堀・植生・街道は異なる場合があります)
布陣(通説)
通説では、西軍の陣地は北の相川山の麓に起こり、南に延びて天満山・山中村を過ぎ松尾山に至り、さらに南宮山上から岡ケ鼻に及んだとされる。東軍は午前3時から中山道を西上し、黎明に先鋒が関ヶ原駅に達したが濃霧のためほとんど視界がなかったとされる。
注布陣は通説(参謀本部編『日本戦史 関原役』1893)に基づく推定表示です
開戦
通説では、午前7時を過ぎても戦闘は始まらず、松平忠吉と井伊直政が騎士30人を率いて進み、午前8時頃に宇喜多隊へ向けて戦端を開いたとされる。
注通説では午前8時頃に戦端が開かれたとされます
小早川の裏切り
通説では、正午が近づいても勝敗が決しないため、家康が松尾山へ「誘導の銃」を撃たせ、小早川秀秋が山を下って大谷隊を襲い、脇坂・朽木・小川・赤座の四隊も離反したとされる。白峰旬はこの「問鉄砲」を江戸時代の創作と論じている。
注「問鉄砲」は江戸時代の創作とする研究があります
西軍崩壊
通説では、小西隊がまず敗退し、次いで宇喜多隊が崩れ、午後に至って石田隊も潰え、三成は西北の山間に逃れたとされる。南宮山の諸隊は最後まで動かなかったとされる。
注崩壊の順序は通説の記述に基づく推定です
島津の退き口
通説では、西軍が崩壊したのち止まって戦うのは島津の一隊のみとなり、島津惟新は全隊を一団として記章を去り馬標を折り、東南に向けて敵中を突破したとされる。午後2時半に家康の追撃中止の令があったとされる。
注退路は通説の記述から補間した推定経路です
通説と新説
白峰旬は島津家家臣史料から、石田三成方の主力本隊が山中エリアに密集して布陣し、大谷吉継隊だけが関ヶ原エリアに突出して早朝に挟撃され壊滅した、と解釈する。戦場は「関ヶ原」と「山中」の二か所であり、どちらの位置比定も正しいことになる、とも述べている。
注布陣図には諸説があります。位置が確定できない部隊は「位置不詳」と表示します