本文へ移動

戦国・2説併記今川方 対 織田方

桶狭間の戦いの布陣図

  • 永禄3年5月19日
  • 愛知県 名古屋市緑区桶狭間

図1 インタラクティブ3D布陣図

表示中の説: 通説(迂回)

既定説の要旨 — 通説(参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』1899年) による

明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

目次
  1. インタラクティブ3D布陣図
  2. 地形と布陣を読む解説
  3. 静止布陣図と説の比較
  4. 章立て
  5. 採用説の切替
  6. 部隊と兵力
  7. 時系列
  8. 凡例と注記 — この図の読み方
  9. 出典一覧
  10. この合戦をもっと読む — 関連書籍

桶狭間の戦いの布陣図 — 迂回説と正面攻撃説を地形で比較

桶狭間の布陣図で、最初に比べたい場所

桶狭間の戦いは、永禄三年五月十九日に起きたとされます。このページで比較するのは、織田信長が迂路を取って今川義元へ近づいたとする理解と、『信長公記』の記述を軸に正面から向かったと考える理解です。両者では進軍線だけでなく、義元がいた場所の見方も変わります。まず桶狭間のインタラクティブ布陣図で義元と信長を探し、説を切り替えてみてください。

通説の表示は参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』、正面攻撃説は『信長公記』を中心に組み立てています。「奇襲」という一語で経過をまとめる前に、どの記述が図の根拠になっているかを確かめると、違いを追いやすくなります。ここでは、原文の叙述と現代の解釈を分けて紹介します。

砦の配置から周辺を見る

戦場の範囲は、現在の名古屋市緑区桶狭間から豊明市にかけての丘陵地として捉えられます。『日本戦史』は、桶狭間を鳴海・大高から三河以東へ通じる道に位置付け、周囲の丘陵にも触れています。画面上の標高は現代のデータです。当時の海岸線、深田、入り海、道筋を復元した表示ではありません。出典:日本戦史 桶狭間役

今川方の大高城に対して織田方の丸根・鷲津の砦があり、鳴海城の周辺には丹下・善照寺・中島の砦が置かれていたと記されます。信長と義元だけを見ると見落としやすい、城と砦の関係です。図では、まず城砦の名を確認し、そのあとで信長がどの地点を経たと説明されているかを追うと、進軍の前提が整理できます。

『日本戦史』は、信長が丹下を経て善照寺砦の東に至ったと記します。図の初期位置は、この記述をもとに砦の位置から補間しています。

『信長公記』は鳴海城の周囲について入り海、谷、深田を記します。ただし、その記述を現在の水路へそのまま重ねることはできません。現代地形の起伏が見えることと、当日の通行条件を確定できることは別です。地形だけを見て、軍が通れなかった場所や勝敗の原因まで決めないようにしてください。出典:信長公記

義元は窪地か、丘の上か

『日本戦史』をもとにした表示では、義元の本陣を田楽狭間に置きます。現在の地図に示す座標は、豊明市の桶狭間古戦場伝説地を手がかりにした制作上の補間です。同時代の記録に緯度経度が残されているわけではありません。

これに対して『信長公記』は、義元がおけはざま山で人馬を休ませていたと記します。名古屋市も、この記述をおけはざま山の紹介に用い、昼の休息陣地として説明しています。この情報から丘陵上の位置を考える理解と、田楽狭間に置く理解を比較できます。ただし、市の「休息陣地」という案内を、そこが確定した本陣跡であるという表現へ置き換えてはいません。出典:名古屋市の史跡解説

部隊を示す円や点の細かさにも注意してください。砦の一部は、現在の小字の代表点を中心とした範囲で示しています。マーカーを精細な地形に重ねても、位置の確度が上がるわけではありません。部隊名と合わせて、推定範囲や補間の注記を読むことが大切です。

信長の移動は、どの記述から描いたか

『日本戦史』は、信長が善照寺砦から中島砦へ移ろうとした場面を記し、その後に一部の兵を残し、ひそかに兵を率いて迂路を取ったと述べます。この記述が、迂回して義元を衝いたとする理解の根拠になります。図の線は、その説明を位置関係として見せるためのものです。当日の足跡を連続して記録した経路ではありません。

『信長公記』は中島からさらに軍勢を出したことを記す一方、背後へ迂回したとは述べていません。正面攻撃説は、この叙述を重く見た読み方です。「迂回の記載がない」ことと、「実際に通った細かな道がすべて分かる」ことは同じではありません。比較画面では、両説の説明範囲を意識しながら進軍線を見てください。

出来事の順序を追う際は、途中で説を変えずに一方の説明を最後まで見ると理解しやすくなります。別の史料から取った開始時刻と到着時刻をつなぎ、正確な行軍時間を計算することは避けてください。時刻を持たない出来事も、前後関係を示すために並べています。

兵力の数字を単純に足さない

今川方の総勢について、『日本戦史』は約二万五千という数と、四万と称した数を区別します。『信長公記』には四万五千という記述があり、中島砦へ移った時点の信長の手勢には二千に満たないという記述があります。数字が違うときは、対象とする集団や場面も一緒に確認する必要があります。

部隊表の人数を足しても、軍全体の兵力にはなりません。守備兵、後続、人数不詳の隊が含まれ、別の場面の集計もあるためです。また、『信長公記』に個々の隊の人数がない箇所へ、別の史料の数をそのまま補って正面攻撃説の兵力と呼ぶこともしません。人数が表示されない隊は、不在を意味しません。

現地の案内と出典を往復する

豊明市の古戦場伝説地には後世に建てられた石碑があり、市はその由来も案内しています。現地の顕彰と合戦当日の記録を区別すると、同じ地域に複数の説明が残ることを理解しやすくなります。出典:桶狭間古戦場伝説地

さらに読むときは、下の出典一覧から『日本戦史』と『信長公記』を別々に開き、図で気になった場所の記述を探してください。関連書籍は論点を深める入口です。書名や紹介文の確認と、研究本文の精読は区別し、この解説では本文未確認の著書から新たな布陣や数値を採っていません。

静止布陣図と説の比較

3Dを表示できない環境向け。3Dが動く環境では畳んで表示します。

図2 静止布陣図(平面)と説の比較を開く/閉じる
桶狭間の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。
図2 桶狭間の戦い 布陣位置の概略(既定説)。地形の起伏は描いていない

永禄3年5月19日、愛知県名古屋市緑区桶狭間から豊明市栄町にかけて(尾張国愛知郡・知多郡)。明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

説の比較

説要旨よりどころ
通説(参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』1899年)既定表示
1899年提示
明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。日本戦史 桶狭間役
正面攻撃説(『信長公記』首巻に基づく理解)
2008年提示
太田牛一『信長公記』首巻の記述を軸に置く理解。同書は義元がおけはざま山で人馬を休息させていたと記し、信長は善照寺砦から中島砦へ移り、中島からさらに軍勢を出したと記すのみで、迂回に関する記述を含まない。この読み方では、義元の本陣は窪地ではなく丘陵の上にあり、織田勢は正面から向かったと解釈される。藤本正行の2008年の著書は書名で奇襲を「神話」と呼び、迂回奇襲の理解を問い直す立場の著作と理解される(本データは本文を確認していない)。また名古屋市はおけはざま山を、この「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が指摘する処として紹介している。信長公記 巻之上(我自刊我本)/桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった/桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算/名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」

書籍リンク

国立国会図書館サーチで「桶狭間の戦い」の関連書籍・論文を探す

章立て

大高・鳴海と五つの砦

尾張の東南で今川方の大高城と鳴海城が織田方の領内に食い込み、織田方はその周囲に丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根の五つの砦を築いていたとされる。『日本戦史桶狭間役』は鷲津と丸根の二砦が大高城と鼎足の形をなすと記している。義元は前日18日に沓掛で軍隊区分を定めたと記されており、19日は沓掛から大高へ向かったとされる。信長が清須を発したのは同書によれば午前2時前後で、この章はその後の夜明けの時間帯を映している。清須出陣そのものは時間の外にあたるため、章の見出しではなく画面上部の直近の出来事として示す。

注城と砦の位置は国土地理院の注記と小字代表点からの推定表示です

丸根・鷲津の攻防

5月19日の黎明、今川方は丸根砦と鷲津砦に攻めかかったとされる。『日本戦史桶狭間役』は丸根の守将 佐久間盛重が弾丸に当たって倒れたと記し、鷲津の陥落を午前10時頃と記している。

注砦の位置は国土地理院の注記と小字代表点からの推定表示です

信長の出陣

信長は午前2時前後に清須を発し、熱田で兵を集め、丹下を過ぎて善照寺砦に至ったとされる。『日本戦史桶狭間役』は善照寺砦の東で凡三千許人を点検したと記している。清須と熱田は本データの地形範囲の外にあるため、3D上には配置していない。

注行軍の経路は史料の記述からの推定表示です

義元、桶狭間に憩う

義元は丸根・鷲津の勝報を聞いて桶狭間で休息したとされる。本陣の位置は通説では低地の田楽狭間、正面攻撃説では丘陵のおけはざま山と解釈されており、説を切り替えると本陣の位置と地形が変わる。

注本陣の位置には説があり、切り替えて表示しています

雷雨と急襲

正午前後に黒雲が広がり、暴風雨が西北から今川方に向かって注いだとされる。『日本戦史桶狭間役』は今川方が風雨のために敵騎の接近を知らなかったと記しており、通説では太子ヶ根を下って、正面攻撃説では中島から正面へ、織田方が動いたと理解される。

注接近の経路は説によって異なります。雨と霧は制作上の演出です

義元討死と退却

『日本戦史桶狭間役』は毛利秀高が義元と相搏ってその首を取ったと記し、松井宗信と井伊直盛らが戦声を聞いて引き返し、奮闘して戦死したと記している。『信長公記』は松井一門一党が枕を並べて討死したと記す。東軍が崩れて走ったのち、信長は追撃せず午後4時に間米山で軍を収めたとされる。画は田楽狭間の周りにとどめ、薄暮に敗報が届いた大高と、守備を固めた鳴海のその後は文で述べる。松平元康が月の出を待って大高を退き三河へ還ったのは夜半で、engine の太陽が午前5時から午後7時までしか動かないため、夜の場面は3Dに割り当てずtimeline のデータとしてだけ残している。

注討死の地点は史料に緯度経度が無く、比定地からの推定表示です

迂回か、正面か

迂回奇襲の理解は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の記述に負うところが大きいとされる。『信長公記』は中島からさらに軍勢を出したと記すのみで迂回に触れておらず、この読み方からは正面攻撃という理解が導かれる。二つの読み方を切り替えて比べる。

注通説と正面攻撃説の二つを切り替えて表示しています

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

通説(参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』1899年)既定表示

要旨(冒頭の「既定説の要旨」と同文)

明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

よりどころ
[1]日本戦史 桶狭間役
提示
1899年
注記(この説の扱い)

編纂から120年以上を経た二次史料であり、近年は史料批判の対象になっている。断定ではなく「通説では」という枠で紹介する。なお同書の本文が使う語は原本画像では「迂路」であって「迂回」ではない。「迂回奇襲」は後に広まった呼び方として扱い、同書の語としては引かない。全文テキストがこの箇所を判読できなかった経緯は c_theory_conventional の note_ja にある。

正面攻撃説(『信長公記』首巻に基づく理解)

太田牛一『信長公記』首巻の記述を軸に置く理解。同書は義元がおけはざま山で人馬を休息させていたと記し、信長は善照寺砦から中島砦へ移り、中島からさらに軍勢を出したと記すのみで、迂回に関する記述を含まない。この読み方では、義元の本陣は窪地ではなく丘陵の上にあり、織田勢は正面から向かったと解釈される。藤本正行の2008年の著書は書名で奇襲を「神話」と呼び、迂回奇襲の理解を問い直す立場の著作と理解される(本データは本文を確認していない)。また名古屋市はおけはざま山を、この「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が指摘する処として紹介している。

よりどころ
[2]信長公記 巻之上(我自刊我本) / [3]桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった / [4]桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算 / [6]名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」
提示
2008年
注記(この説の扱い)

現存する研究者を含む学説であり、敬意ある中立的なトーンで紹介する。本データでは藤本正行の著書の現物を確認していないため、説の骨格は『信長公記』の記述と名古屋市の史跡解説から組み立てている。名古屋市の解説はおけはざま山を「昼の休息陣地」と記しており「本陣跡」とは書いていないので、市の記述を本陣の比定として引かないこと。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。各行は表示中の説(通説(迂回))の値で、 他の説の値は行内に畳んでいます(切替は採用説の切替から)。凡例:史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

時系列

時刻の記載がない出来事は時刻欄を空け、史料の記す前後関係の順に並べています。章を開くと出来事と説明が読めます。

  1. 第一章大高・鳴海と五つの砦出来事 2 件午前2時前後
    1. 午前2時前後信長、清須を発し熱田へ向かう

      通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役(以下 1 件も同じ)

    2. 義元、沓掛を発ち大高へ向かう
    この章の出来事の説明(2 件)
    信長、清須を発し熱田へ向かう
    清須城と熱田はいずれも本データの地形範囲の外にあるため、3D上には配置していない。この出来事は章の時間範囲の外にもある。engine の太陽は時刻を午前5時から午後7時に丸めるため、夜明け前の場面を3Dに置くと昼の光で描かれる。HUD の直近イベントとしてだけ残す。
    義元、沓掛を発ち大高へ向かう
    前日18日に沓掛で定めた軍隊区分は claim c_ev_kutsukake_orders を参照。出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
  2. 第二章丸根・鷲津の攻防出来事 5 件黎明(午前4時30分頃)〜午前10時頃
    1. 黎明(午前4時30分頃)松平元康、丸根砦を攻める

      通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役(以下 4 件も同じ)

    2. 黎明朝比奈隊、鷲津砦を攻める
    3. 丸根砦の守将 佐久間盛重が討たれる
    4. 松平元康、鵜殿長照に代わって大高城に入る
    5. 午前10時頃鷲津砦が陥ちる
    この章の出来事の説明(2 件)
    丸根砦の守将 佐久間盛重が討たれる
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
    松平元康、鵜殿長照に代わって大高城に入る
    『日本戦史桶狭間役』は、丸根砦が陥ちたのち義元が元康の功を賞し、鵜殿長照に代わって大高城に入り兵馬を休養するよう命じ、長照には笠寺の前軍に合するよう命じたと記している。『信長公記』も家康が大高で人馬の休息をとり居陣したと記す。出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
  3. 第三章信長の出陣出来事 4 件午前8時頃
    1. 午前8時頃信長、熱田に至り兵を集める

      通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役(以下 3 件も同じ)

    2. 信長、丹下を過ぎて善照寺砦の東に至る
    3. 佐々政次・千秋季忠の先手が敗れる
    4. 信長、諫めを振り切って中島砦へ移る
    この章の出来事の説明(3 件)
    信長、丹下を過ぎて善照寺砦の東に至る
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
    佐々政次・千秋季忠の先手が敗れる
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
    信長、諫めを振り切って中島砦へ移る
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
  4. 第四章義元、桶狭間に憩う出来事 3 件午前中
    1. 午前中義元、桶狭間の北の田楽狭間で休息する

      通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

    2. 午前中義元、おけはざま山で人馬を休息させる

      正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    3. 梁田政綱の間者、義元の所在を報じる

      通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

    この章の出来事の説明(1 件)
    梁田政綱の間者、義元の所在を報じる
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
  5. 第五章雷雨と急襲出来事 5 件正午前後〜未の刻(午後2時頃)
    1. 信長、二千ばかりを率いて丘陵に隠れ太子ヶ根へ向かう

      通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

    2. 信長、中島からさらに軍勢を出す

      正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    3. 正午前後黒雲が広がり暴風雨が西北から至る

      通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

    4. 午後2時頃織田方、太子ヶ根を下って本陣を衝く

      通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

    5. 未の刻(午後2時頃)織田方、正面から今川方に懸かる

      正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    この章の出来事の説明(2 件)
    信長、二千ばかりを率いて丘陵に隠れ太子ヶ根へ向かう
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
    信長、中島からさらに軍勢を出す
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
  6. 第六章義元討死と退却出来事 6 件未の刻(午後2時頃)〜午後4時
    1. 未の刻(午後2時頃)今川義元が討たれる

      通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

    2. 松井宗信・井伊直盛らが引き返して戦死する

      通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

    3. 松井一門一党が枕を並べて討死する

      正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    4. 今川方が崩れて走る

      通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役(以下 2 件も同じ)

    5. 午後4時信長、追撃せず兵を集めて軍を収める
    6. 岡部元信、鳴海城の守備を厳にする
    この章の出来事の説明(4 件)
    松井宗信・井伊直盛らが引き返して戦死する
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
    松井一門一党が枕を並べて討死する
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
    今川方が崩れて走る
    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
    岡部元信、鳴海城の守備を厳にする
    『日本戦史桶狭間役』は岡部元信が敗報に接した時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。同書が敗報の大高への到達を薄暮とすることに合わせ、章の終わり近くに置いている。
  7. 第七章迂回か、正面か出来事 1 件夜半
    1. 夜半松平元康、月の出を待って大高を退き三河へ向かう

      通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 桶狭間役

    この章の出来事の説明(1 件)
    松平元康、月の出を待って大高を退き三河へ向かう
    『日本戦史桶狭間役』は薄暮に敗報が大高へ届き、元康が月の出を待って兵を収め、浅井道忠に郷導を命じて三河へ向かって還ったと記している。元康は e_motoyasu_into_odaka で大高城に入っており、この移動はそこから東へ去るものである。到達点は史料が示す「參河ニ向テ還ル」という方角を表すための表示域の東端であって、地点の主張ではない(precision=order_only)。この出来事は章の時間範囲の外にある。engine の太陽は時刻を午前5時から午後7時に丸めるため、夜の場面を3Dに置くと真昼の光で描かれる。

凡例と注記 — この図の読み方

読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

本文中の典拠番号 [n] は、下の「出典一覧」の同じ番号の文献を指します。 3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、切替をしない限り既定説の配置を表示します。

陣営
  • 今川方今川方(今川義元の軍勢)
  • 織田方織田方(織田信長の軍勢)
日付・場所・地形データ・利用条件・データ出典(この図の注記)
日付について

永禄3年5月19日(グレゴリオ暦 1560-06-22)

『日本戦史桶狭間役』は五月十九日に「陽暦六月廿二日」と傍注し、当日の日出を午前四時二十七分としている。一般に引かれる1560年6月12日はユリウス暦の日付で、グレゴリオ暦に換算すると6月22日にあたる。同書の割注「陽暦六月廿二日」は原本画像(pid 771063 コマ15)で確認した。本データの gregorian はこの割注と一致し、julian はそこから10日を引いた換算である(2026-09-24 の編集判断、Claude AI、D-015)。

場所

愛知県 名古屋市緑区桶狭間から豊明市栄町にかけて(尾張国愛知郡・知多郡)

地形

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

現代地形を使用しています(当時の河道・入り海・池・植生・街道は異なる場合があります)

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

利用条件

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

タイルセットの詳細

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。2026-09-11の国土地理院回答により、本プロジェクトが照会した統合DEMの複製保存・動画掲載・Web表示について測量法の手続きは不要と確認した。回答の適用範囲と産総研側の利用条件は docs/external_evidence/gsi_reply_20260911.md を参照する。

データ

布陣・兵力: 参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』(1899) / 正面攻撃説: 太田牛一『信長公記』首巻ほか / 史跡解説: 名古屋市・豊明市

布陣・兵力・時系列には諸説があります。本作は通説と正面攻撃説を切り替えて表示し、位置が確定できない部隊は推定範囲または「位置不詳」として扱っています。地形データの出典表記は knowledge/battles/okehazama/terrain/terrain.json の credit_ja に揃えています。

出典一覧

出典一覧(全 8 件)を開く本文の典拠番号 [n] はこの一覧の番号です
  1. 参謀本部 編 『日本戦史 桶狭間役』

    元真社/1899年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 771063)は IIIF manifest が「日本戦史.桶狭間役」/出版者 元真社/出版年 明32/書誌ID 000000430552/請求記号 77-30/全166コマ と示す。本編は第一篇(起因及戦役前ノ形勢)・第二篇(作戦)・第三篇(戦後ノ動静及結果)に附記・附図・附表・補伝を加える構成で、第二篇第二章に地理、第二篇第四章其二に桶狭間の戦闘経過を収める。

    明治32年に旧陸軍参謀本部が編纂した戦史。本文は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/771063)で取得したOCRテキストにより機械的に確認した。OCRのため、本データの引用文にはOCRが読めなかった文字(〓)と誤読が含まれる。2026-09-24 に Claude(AI)が NDL の IIIF 画像(コマ1-5・12-19・153)で引用箇所を原本と照合した(DECISIONS D-015。人による照合ではない。記録は knowledge/battles/okehazama/source_review_2026-09-24.md)。原本の字は各 claim の note_ja に書いた。

  2. 太田牛一 著 『信長公記 巻之上(我自刊我本)』

    甫喜山景雄/1881年 / 古文書/ 一次史料 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 781192)は IIIF manifest が「信長公記.巻之上」/著者 太田牛一/出版者 甫喜山景雄/出版年 明14/シリーズ 我自刊我本/書誌ID 000000435795/請求記号 128-97/全51コマ と示す。桶狭間の戦いの記事はコマ15からコマ17にある。

    太田牛一による同時代の記録を明治14年に翻刻したもの。本文は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/781192)で取得したOCRテキストにより機械的に確認した。この版は桶狭間の記事に「天文廿一年壬子五月十九日」という年次を記しており、永禄3年とは合わない。原本画像(コマ16-17)でもこの版は「天文廿一年壬子五月十七日」「天文廿一壬子五月十九日」「天文廿一年壬子五月十九日」と記しており、OCRの誤読ではない。首巻の年次には誤りがあることが知られているため、2026-09-24 の編集判断(Claude AI、D-015)により、合戦の年は『日本戦史桶狭間役』の永禄3年を採り、この版の年次は同書の表記として開示するにとどめる。2026-09-24 に Claude(AI)が IIIF 画像(コマ1・15-17)で引用箇所を原本と照合した(人による照合ではない)。現代の校訂本とは照合していない。

  3. 藤本 正行 『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』

    洋泉社/2008年 / 書籍/ 一般向け二次文献

    注記(所在・確認方法)

    洋泉社 新書y(2008年12月)。書誌は国立国会図書館サーチで確認した。ISBN は knowledge/battles/okehazama/SOURCES.md 第3節に記載する(未選書の書籍の識別子を公開ページに出さないため、ここには書かない)。

    書名・出版者・刊行年・ISBN を国立国会図書館サーチの書誌で確認した。本データでは現物を確認していないため、内容の要約は claim に書いていない。

  4. 藤本 正行 『桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算』

    洋泉社/2010年 / 書籍/ 一般向け二次文献

    注記(所在・確認方法)

    洋泉社 歴史新書y 8(2010年10月)。書誌は国立国会図書館サーチで確認した。ISBN は knowledge/battles/okehazama/SOURCES.md 第3節に記載する(未選書の書籍の識別子を公開ページに出さないため、ここには書かない)。

    書名・出版者・刊行年・ISBN を国立国会図書館サーチの書誌で確認した。本データでは現物を確認していない。

  5. 黒田 日出男 『桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』-『甲陽軍鑑』の史料論(2)-』

    立正大学史学会/2006年 / 論文/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    『立正史学』100号(2006年)3-42頁。

    書誌事項を CiNii Research と国立国会図書館サーチで確認した。本文は入手していないため、結論の紹介は claim に書いていない。

  6. 『名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」』

    名古屋市/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    おけはざま山・桶狭間古戦場公園(田楽坪)・瀬名氏俊陣地跡・高根山・釜ヶ谷・戦評の松・長福寺・七ツ塚・桶狭間神明社の各項。ページID 1024811。

    取得日 2026-09-05。市の史跡解説であり、一次史料そのものではない。旧URL https://www.city.nagoya.jp/midori/page/0000052400.html は現URLへ 301 で転送される。ページの更新日は2025年10月17日。2026-09-05 に取得した本文には「本陣」の語が一度も現れない。おけはざま山の項は『信長公記』の「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が指摘する処であるとし、瀬名氏俊陣地跡の項は「昼の休息陣地」と記している。本データはこの表現のとおりに引く。

  7. 『豊明市「桶狭間古戦場伝説地」』

    豊明市/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    史跡指定と七石表に関する記述。

    取得日 2026-09-05。昭和13年4月に豊明村が史跡の管理者に指定された旨を記す。

  8. 『国土地理院 地名検索API(地理院地図)』

    国土地理院/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「大高城跡」「鷲津砦跡」「丸根砦跡」「桶狭間古戦場伝説地」「大将ヶ根」「二村山」「有松幕山」「桶狭間巻山」の注記、および名古屋市緑区鳴海町城・砦・丹下・下中、緑区桶狭間・桶狭間北・桶狭間神明、有松町大字桶狭間、豊明市沓掛町・栄町武侍の大字小字代表点を取得した。

    取得日 2026-09-05。利用条件は knowledge/data_licenses.json の gsi_placenames を参照。

この合戦をもっと読む — 関連書籍

布陣図の元になった史料・研究にあたるための本です。書影と書誌は楽天ブックス・openBD・国立国会図書館サーチから取得しています。

  • 書影
    なし

    桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった

    藤本正行/洋泉社/2008-12/ISBN 9784862483430

    正面攻撃説の側で中心となる一般向けの提唱書。参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』に由来する迂回奇襲の理解を『信長公記』から問い直す論を扱う。battle_data の theories で正面攻撃説を採る際の参照元。

  • 書影
    なし

    桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算

    藤本正行/洋泉社/2010-10/ISBN 9784862486400

    同じ著者が2年後に刊行した桶狭間の各論。信長の決断と義元の誤算という切り口で合戦を扱っており、通説と新説の差分を claim 単位で作るときの参照元。

ほか 4 冊を表示
  • 『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』書影

    信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学

    藤本正行/講談社/2003-01/ISBN 9784061595781

    『信長公記』の記述から信長の合戦を読み直す論集で、第1章が桶狭間を扱う。迂回奇襲がどの史料に由来するかを追うための書目。

  • 『現代語訳 信長公記』書影

    現代語訳 信長公記

    太田牛一/KADOKAWA/2013-10/ISBN 9784046000019

    太田牛一『信長公記』の現代語訳(角川ソフィア文庫)。本データが典拠とする首巻の桶狭間の条を現代語で確認するための書目で、明治14年の翻刻本から取得したOCRテキストを人が照合するときの手掛かりにもなる。

  • 『今川氏滅亡』書影

    今川氏滅亡

    大石泰史/KADOKAWA/2018-05/ISBN 9784047036338

    桶狭間で当主を失った今川氏がその後どのようにして領国を失っていくかを扱う概説。合戦単体ではなく前後の政治情勢を解説記事の導入に使うための出典。

  • 『今川義元知られざる実像』書影

    今川義元知られざる実像

    小和田哲男/静岡新聞社/2019-03/ISBN 9784783810896

    桶狭間で討たれた今川義元そのものを扱う評伝。合戦を義元の側から見る視点と、「東海一の弓取り」と呼ばれた大名像の見直しを、解説記事の背景に使うための書目。

当サイトの書籍紹介にはアフィリエイトリンクが含まれ、リンク先での購入により当サイトが紹介料を得ることがあります。

広告の扱いは広告に関する開示にまとめています。