桶狭間の戦いの布陣図|実際の地形で読む
永禄3年5月19日、愛知県名古屋市緑区桶狭間から豊明市栄町にかけて(尾張国愛知郡・知多郡)。明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。
- 日付
- 永禄3年5月19日(グレゴリオ暦 1560-06-22)
- 場所
- 愛知県名古屋市緑区桶狭間から豊明市栄町にかけて(尾張国愛知郡・知多郡)
- 陣営
- 今川方(今川義元の軍勢) 対 織田方(織田信長の軍勢)
インタラクティブ3D布陣図
静止布陣図と説の比較(3Dを表示できない環境向け)
永禄3年5月19日、愛知県名古屋市緑区桶狭間から豊明市栄町にかけて(尾張国愛知郡・知多郡)。明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。
説の比較
| 説 | 要旨 | よりどころ |
|---|---|---|
| 通説(参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』1899年)既定表示 | 明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。 | 日本戦史 桶狭間役 |
| 正面攻撃説(『信長公記』首巻に基づく理解) | 太田牛一『信長公記』首巻の記述を軸に置く理解。同書は義元がおけはざま山で人馬を休息させていたと記し、信長は善照寺砦から中島砦へ移り、中島からさらに軍勢を出したと記すのみで、迂回に関する記述を含まない。この読み方では、義元の本陣は窪地ではなく丘陵の上にあり、織田勢は正面から向かったと解釈される。藤本正行はこの立場から迂回奇襲の理解を問い直す論を発表しており、名古屋市はおけはざま山を、この「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が指摘する処として紹介している。 | 信長公記 巻之上(我自刊我本)/桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった/桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算/名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」 |
書籍リンク
章立て
大高・鳴海と五つの砦
尾張の東南で今川方の大高城と鳴海城が織田方の領内に食い込み、織田方はその周囲に丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根の五つの砦を築いていたとされる。『日本戦史桶狭間役』は鷲津と丸根の二砦が大高城と鼎足の形をなすと記している。義元は前日18日に沓掛で軍隊区分を定めたと記されており、19日は沓掛から大高へ向かったとされる。信長が清須を発したのは同書によれば午前2時前後で、この章はその後の夜明けの時間帯を映している。清須出陣そのものは時間の外にあたるため、章の見出しではなく画面上部の直近の出来事として示す。
城と砦の位置は国土地理院の注記と小字代表点からの推定表示です
丸根・鷲津の攻防
5月19日の黎明、今川方は丸根砦と鷲津砦に攻めかかったとされる。『日本戦史桶狭間役』は丸根の守将 佐久間盛重が弾丸に当たって倒れたと記し、鷲津の陥落を午前10時頃と記している。
砦の位置は国土地理院の注記と小字代表点からの推定表示です
信長の出陣
信長は午前2時前後に清須を発し、熱田で兵を集め、丹下を過ぎて善照寺砦に至ったとされる。『日本戦史桶狭間役』は善照寺砦の東で凡三千許人を点検したと記している。清須と熱田は本データの地形範囲の外にあるため、3D上には配置していない。
行軍の経路は史料の記述からの推定表示です
義元、桶狭間に憩う
義元は丸根・鷲津の勝報を聞いて桶狭間で休息したとされる。本陣の位置は通説では低地の田楽狭間、正面攻撃説では丘陵のおけはざま山と解釈されており、説を切り替えると本陣の位置と地形が変わる。
本陣の位置には説があり、切り替えて表示しています
雷雨と急襲
正午前後に黒雲が広がり、暴風雨が西北から今川方に向かって注いだとされる。『日本戦史桶狭間役』は今川方が風雨のために敵騎の接近を知らなかったと記しており、通説では太子ヶ根を下って、正面攻撃説では中島から正面へ、織田方が動いたと理解される。
接近の経路は説によって異なります。雨と霧は制作上の演出です
義元討死と退却
『日本戦史桶狭間役』は毛利秀高が義元と相搏って之を斃したと記し、松井宗信と井伊直盛らが戦声を聞いて引き返し、奮闘して戦死したと記している。『信長公記』は松井一門一党が枕を並べて討死したと記す。東軍が崩れて走ったのち、信長は追撃せず午後4時に間米山で軍を収めたとされる。画は田楽狭間の周りにとどめ、薄暮に敗報が届いた大高と、守備を固めた鳴海のその後は文で述べる。松平元康が月の出を待って大高を退き三河へ還ったのは夜半で、engine の太陽が午前5時から午後7時までしか動かないため、夜の場面は3Dに割り当てずtimeline のデータとしてだけ残している。
討死の地点は史料に緯度経度が無く、比定地からの推定表示です
迂回か、正面か
迂回奇襲の理解は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の記述に負うところが大きいとされる。『信長公記』は中島からさらに軍勢を出したと記すのみで迂回に触れておらず、この読み方からは正面攻撃という理解が導かれる。二つの読み方を切り替えて比べる。
通説と正面攻撃説の二つを切り替えて表示しています
採用説の切替
切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。
通説(参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』1899年)既定表示
明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。
正面攻撃説(『信長公記』首巻に基づく理解)
太田牛一『信長公記』首巻の記述を軸に置く理解。同書は義元がおけはざま山で人馬を休息させていたと記し、信長は善照寺砦から中島砦へ移り、中島からさらに軍勢を出したと記すのみで、迂回に関する記述を含まない。この読み方では、義元の本陣は窪地ではなく丘陵の上にあり、織田勢は正面から向かったと解釈される。藤本正行はこの立場から迂回奇襲の理解を問い直す論を発表しており、名古屋市はおけはざま山を、この「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が指摘する処として紹介している。
部隊と兵力
| 部隊 | 陣営 | 兵力(説別) | 布陣位置の確度 |
|---|---|---|---|
| 今川義元本隊 | 今川方(今川義元の軍勢) | 5,000〜6,000人 | 範囲のみ(半径約250m)推定 範囲のみ(半径約550m) |
| 松井宗信隊 | 今川方(今川義元の軍勢) | 約200人 | 範囲のみ(半径約400m)推定 範囲のみ(半径約400m)推定 |
| 井伊直盛隊 | 今川方(今川義元の軍勢) | 0〜2,000人推定 | 範囲のみ(半径約400m)推定 不詳 |
| 朝比奈隊(鷲津砦攻撃) | 今川方(今川義元の軍勢) | 2,000〜3,000人 | 範囲のみ(半径約350m)推定 |
| 松平元康隊 | 今川方(今川義元の軍勢) | 約2,500人 | 範囲のみ(半径約350m)推定 |
| 鵜殿長照隊(大高城) | 今川方(今川義元の軍勢) | 0〜2,000人推定 | 地点特定推定 |
| 岡部元信隊(鳴海城) | 今川方(今川義元の軍勢) | 約800人 | 範囲のみ(半径約400m)推定 |
| 三浦備後守隊(援隊) | 今川方(今川義元の軍勢) | 3,000〜4,000人 | 不詳 |
| 葛山信貞隊(清須方面前進兵) | 今川方(今川義元の軍勢) | 5,000〜6,000人 | 不詳 |
| 浅井政敏隊(沓掛城) | 今川方(今川義元の軍勢) | 1,500〜2,000人 | 範囲のみ(半径約500m)推定 |
| 瀬名氏俊隊(先発) | 今川方(今川義元の軍勢) | 約200人 | 範囲のみ(半径約500m)推定 |
| 織田信長本隊 | 織田方(織田信長の軍勢) | 2,000〜3,000人 | 範囲のみ(半径約300m)推定 |
| 佐々政次・千秋季忠の先手 | 織田方(織田信長の軍勢) | 300〜400人 | 範囲のみ(半径約400m)推定 範囲のみ(半径約400m)推定 |
| 丸根砦守兵 | 織田方(織田信長の軍勢) | 400〜700人 | 地点特定推定 |
| 鷲津砦守兵 | 織田方(織田信長の軍勢) | 400〜500人 | 地点特定推定 |
| 善照寺砦守兵 | 織田方(織田信長の軍勢) | 0〜700人推定 | 範囲のみ(半径約400m)推定 |
| 丹下砦守兵 | 織田方(織田信長の軍勢) | 0〜700人推定 | 範囲のみ(半径約400m)推定 |
| 中島砦守兵 | 織田方(織田信長の軍勢) | 0〜700人推定 | 範囲のみ(半径約400m)推定 |
時系列
- 午前2時前後信長、清須を発し熱田へ向かう
清須城と熱田はいずれも本データの地形範囲の外にあるため、3D上には配置していない。この出来事は章の時間範囲の外にもある。engine の太陽は時刻を午前5時から午後7時に丸めるため、夜明け前の場面を3Dに置くと昼の光で描かれる。HUD の直近イベントとしてだけ残す。
- 黎明(午前4時30分頃)松平元康、丸根砦を攻める
- 黎明朝比奈隊、鷲津砦を攻める
- 開始から約60分義元、沓掛を発ち大高へ向かう
前日18日に沓掛で定めた軍隊区分は claim c_ev_kutsukake_orders を参照。出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 開始から約240分丸根砦の守将 佐久間盛重が討たれる
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 午前8時頃信長、熱田に至り兵を集める
- 開始から約250分松平元康、鵜殿長照に代わって大高城に入る
『日本戦史桶狭間役』は、丸根砦が陥ちたのち義元が元康の功を賞し、鵜殿長照に代わって大高城に入り兵馬を休養するよう命じ、長照には笠寺の前軍に合するよう命じたと記している。『信長公記』も家康が大高で人馬の休息をとり居陣したと記す。出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 午前10時頃鷲津砦が陥ちる
- 開始から約375分信長、丹下を過ぎて善照寺砦の東に至る
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 午前中義元、桶狭間の北の田楽狭間で休息する
- 午前中義元、おけはざま山で人馬を休息させる
- 開始から約400分佐々政次・千秋季忠の先手が敗れる
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 開始から約420分信長、諫めを振り切って中島砦へ移る
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 開始から約440分梁田政綱の間者、義元の所在を報じる
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 開始から約460分信長、二千ばかりを率いて丘陵に隠れ太子ヶ根へ向かう
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 開始から約460分信長、中島からさらに軍勢を出す
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 正午前後黒雲が広がり暴風雨が西北から至る
- 午後2時頃織田方、太子ヶ根を下って本陣を衝く
- 未の刻(午後2時頃)織田方、正面から今川方に懸かる
- 未の刻(午後2時頃)今川義元が討たれる
- 開始から約620分松井宗信・井伊直盛らが引き返して戦死する
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 開始から約620分松井一門一党が枕を並べて討死する
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 開始から約630分今川方が崩れて走る
出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。
- 午後4時信長、追撃せず兵を集めて軍を収める
- 開始から約870分岡部元信、鳴海城の守備を厳にする
『日本戦史桶狭間役』は岡部元信が敗報に接した時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。同書が敗報の大高への到達を薄暮とすることに合わせ、章の終わり近くに置いている。
- 夜半松平元康、月の出を待って大高を退き三河へ向かう
『日本戦史桶狭間役』は薄暮に敗報が大高へ届き、元康が月の出を待って兵を収め、浅井道忠に郷導を命じて三河へ向かって還ったと記している。元康は e_motoyasu_into_odaka で大高城に入っており、この移動はそこから東へ去るものである。到達点は史料が示す「參河ニ向テ還ル」という方角を表すための表示域の東端であって、地点の主張ではない(precision=order_only)。この出来事は章の時間範囲の外にある。engine の太陽は時刻を午前5時から午後7時に丸めるため、夜の場面を3Dに置くと真昼の光で描かれる。
諸説あり — この図の読み方
諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。
地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)
現代地形を使用しています(当時の河道・入り海・池・植生・街道は異なる場合があります)
当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。
布陣・兵力: 参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』(1899) / 正面攻撃説: 太田牛一『信長公記』首巻ほか / 史跡解説: 名古屋市・豊明市
布陣・兵力・時系列には諸説があります。本作は通説と正面攻撃説を切り替えて表示し、位置が確定できない部隊は推定範囲または「位置不詳」として扱っています。地形データの出典表記は knowledge/battles/okehazama/terrain/terrain.json の credit_ja に揃えています。
出典一覧
- 参謀本部 編 『日本戦史 桶狭間役』 原典ページを見る
- 太田牛一 著 『信長公記 巻之上(我自刊我本)』 原典ページを見る
- 藤本 正行 『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』
- 藤本 正行 『桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算』
- 黒田 日出男 『桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』-『甲陽軍鑑』の史料論(2)-』 原典ページを見る
- 『名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」』 原典ページを見る
- 『豊明市「桶狭間古戦場伝説地」』 原典ページを見る
- 『国土地理院 地名検索API(地理院地図)』 原典ページを見る
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