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桶狭間の戦いの布陣図|実際の地形で読む

永禄3年5月19日、愛知県名古屋市緑区桶狭間から豊明市栄町にかけて(尾張国愛知郡・知多郡)。明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

日付
永禄3年5月19日(グレゴリオ暦 1560-06-22)
場所
愛知県名古屋市緑区桶狭間から豊明市栄町にかけて(尾張国愛知郡・知多郡)
陣営
今川方(今川義元の軍勢) 対 織田方(織田信長の軍勢)

インタラクティブ3D布陣図

実際の地形の上に布陣を再現した3Dマップを表示します(通信量が増えます)。

本文は全説を併記しています。3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、既定説「通説(迂回)」の配置を表示します。

静止布陣図と説の比較(3Dを表示できない環境向け)

桶狭間の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。

永禄3年5月19日、愛知県名古屋市緑区桶狭間から豊明市栄町にかけて(尾張国愛知郡・知多郡)。明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

説の比較

要旨よりどころ
通説(参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』1899年)既定表示
1899年提示
明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。日本戦史 桶狭間役
正面攻撃説(『信長公記』首巻に基づく理解)
2008年提示
太田牛一『信長公記』首巻の記述を軸に置く理解。同書は義元がおけはざま山で人馬を休息させていたと記し、信長は善照寺砦から中島砦へ移り、中島からさらに軍勢を出したと記すのみで、迂回に関する記述を含まない。この読み方では、義元の本陣は窪地ではなく丘陵の上にあり、織田勢は正面から向かったと解釈される。藤本正行はこの立場から迂回奇襲の理解を問い直す論を発表しており、名古屋市はおけはざま山を、この「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が指摘する処として紹介している。信長公記 巻之上(我自刊我本)/桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった/桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算/名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」

書籍リンク

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章立て

大高・鳴海と五つの砦

尾張の東南で今川方の大高城と鳴海城が織田方の領内に食い込み、織田方はその周囲に丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根の五つの砦を築いていたとされる。『日本戦史桶狭間役』は鷲津と丸根の二砦が大高城と鼎足の形をなすと記している。義元は前日18日に沓掛で軍隊区分を定めたと記されており、19日は沓掛から大高へ向かったとされる。信長が清須を発したのは同書によれば午前2時前後で、この章はその後の夜明けの時間帯を映している。清須出陣そのものは時間の外にあたるため、章の見出しではなく画面上部の直近の出来事として示す。

城と砦の位置は国土地理院の注記と小字代表点からの推定表示です

丸根・鷲津の攻防

5月19日の黎明、今川方は丸根砦と鷲津砦に攻めかかったとされる。『日本戦史桶狭間役』は丸根の守将 佐久間盛重が弾丸に当たって倒れたと記し、鷲津の陥落を午前10時頃と記している。

砦の位置は国土地理院の注記と小字代表点からの推定表示です

信長の出陣

信長は午前2時前後に清須を発し、熱田で兵を集め、丹下を過ぎて善照寺砦に至ったとされる。『日本戦史桶狭間役』は善照寺砦の東で凡三千許人を点検したと記している。清須と熱田は本データの地形範囲の外にあるため、3D上には配置していない。

行軍の経路は史料の記述からの推定表示です

義元、桶狭間に憩う

義元は丸根・鷲津の勝報を聞いて桶狭間で休息したとされる。本陣の位置は通説では低地の田楽狭間、正面攻撃説では丘陵のおけはざま山と解釈されており、説を切り替えると本陣の位置と地形が変わる。

本陣の位置には説があり、切り替えて表示しています

雷雨と急襲

正午前後に黒雲が広がり、暴風雨が西北から今川方に向かって注いだとされる。『日本戦史桶狭間役』は今川方が風雨のために敵騎の接近を知らなかったと記しており、通説では太子ヶ根を下って、正面攻撃説では中島から正面へ、織田方が動いたと理解される。

接近の経路は説によって異なります。雨と霧は制作上の演出です

義元討死と退却

『日本戦史桶狭間役』は毛利秀高が義元と相搏って之を斃したと記し、松井宗信と井伊直盛らが戦声を聞いて引き返し、奮闘して戦死したと記している。『信長公記』は松井一門一党が枕を並べて討死したと記す。東軍が崩れて走ったのち、信長は追撃せず午後4時に間米山で軍を収めたとされる。画は田楽狭間の周りにとどめ、薄暮に敗報が届いた大高と、守備を固めた鳴海のその後は文で述べる。松平元康が月の出を待って大高を退き三河へ還ったのは夜半で、engine の太陽が午前5時から午後7時までしか動かないため、夜の場面は3Dに割り当てずtimeline のデータとしてだけ残している。

討死の地点は史料に緯度経度が無く、比定地からの推定表示です

迂回か、正面か

迂回奇襲の理解は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の記述に負うところが大きいとされる。『信長公記』は中島からさらに軍勢を出したと記すのみで迂回に触れておらず、この読み方からは正面攻撃という理解が導かれる。二つの読み方を切り替えて比べる。

通説と正面攻撃説の二つを切り替えて表示しています

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

通説(参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』1899年)既定表示

明治32年(1899)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史桶狭間役』の記述に基づく理解。義元の本陣を桶狭間の北の田楽狭間に置き、信長が善照寺砦から中島砦へ移ったのち、二千ばかりを率いてひそかに迂路をとって丘陵に隠れ、正午前後の暴風雨がやんだ午後2時ごろに太子ヶ根を下って本陣を衝いた、という経過を示す。現在も流布する迂回奇襲の理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

よりどころ: 日本戦史 桶狭間役/1899年提示

編纂から120年以上を経た二次史料であり、近年は史料批判の対象になっている。断定ではなく「通説では」という枠で紹介する。なお同書の本文が使う語は原本画像では「迂路」であって「迂回」ではない。「迂回奇襲」は後に広まった呼び方として扱い、同書の語としては引かない。全文テキストがこの箇所を判読できなかった経緯は c_theory_conventional の note_ja にある。

正面攻撃説(『信長公記』首巻に基づく理解)

太田牛一『信長公記』首巻の記述を軸に置く理解。同書は義元がおけはざま山で人馬を休息させていたと記し、信長は善照寺砦から中島砦へ移り、中島からさらに軍勢を出したと記すのみで、迂回に関する記述を含まない。この読み方では、義元の本陣は窪地ではなく丘陵の上にあり、織田勢は正面から向かったと解釈される。藤本正行はこの立場から迂回奇襲の理解を問い直す論を発表しており、名古屋市はおけはざま山を、この「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が指摘する処として紹介している。

よりどころ: 信長公記 巻之上(我自刊我本)/桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった/桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算/名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」/2008年提示

現存する研究者を含む学説であり、敬意ある中立的なトーンで紹介する。本データでは藤本正行の著書の現物を確認していないため、説の骨格は『信長公記』の記述と名古屋市の史跡解説から組み立てている。名古屋市の解説はおけはざま山を「昼の休息陣地」と記しており「本陣跡」とは書いていないので、市の記述を本陣の比定として引かないこと。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。ここでは説ごとに範囲または複数の値をそのまま併記しています。
部隊陣営兵力(説別)布陣位置の確度
今川義元本隊
今川義元
今川方(今川義元の軍勢)
5,000〜6,000人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分が本軍に付した「兵凡五千餘人」による。「凡」「餘」を伴う概数なので、他の「餘」付きの数と同じく上限6000として範囲で表す。石高換算によるものではない。この数値は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分によるもので、説による差ではない。正面攻撃説の論者がこの数値を否定していることは本データでは確認していないため、両説に同じ値を置いている。
範囲のみ(半径約250m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)
通説では義元の本陣は田楽狭間にあったとされる。座標は国土地理院の注記「桶狭間古戦場伝説地」の位置による制作上の補間で、半径は低地のおおよその広がりを示すために置いた値である。
範囲のみ(半径約550m) / 研究者の解釈
正面攻撃説
正面攻撃説ではおけはざま山という丘陵の上に本陣があったと解釈される。中心は国土地理院の緑区桶狭間北の大字代表点で、半径は丘陵のおおよその広がりを示す制作上の値である。
松井宗信隊
松井宗信
今川方(今川義元の軍勢)
約200人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・近年の推計
典拠: 名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」
名古屋市の史跡解説が示すおよそ200人という数による。『日本戦史桶狭間役』は松井宗信隊の兵数を挙げていない。石高換算によるものではない。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)
『日本戦史桶狭間役』の「牙旗ノ前方凡十町許」という記述と田楽狭間の座標から制作上補間した。十町はおよそ1.1kmにあたる。方位は史料に記されていない。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
正面攻撃説
名古屋市が高根山を松井宗信の軍勢の着陣地として紹介していることによる制作上の補間である。座標は国土地理院 地名検索APIに「愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間」で問い合わせて返る代表点(北緯35.062878/東経136.969650)である。同APIが小字データとして返す「有松町大字桶狭間」(北緯35.063113/東経136.971193)とは別の点である。また同APIには緑区高根山(北緯35.046181/東経136.946121)という住所があるが、これは約2.5km南西の別の地名で、名古屋市が史跡として紹介する高根山ではない。
井伊直盛隊
井伊直盛
今川方(今川義元の軍勢)
0〜2,000人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・不詳推定
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』は井伊直盛隊の兵数を記していない。この項目は「その説では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた他説または同書の他の砦の値である。消費側(engine・台本・記事)は数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)
『日本戦史桶狭間役』の「牙旗ノ前方凡十町許」という記述と田楽狭間の座標から制作上補間した。松井宗信隊と重ならないよう別の点に置いた補間である。
不詳 / 史料の記載
正面攻撃説
朝比奈隊(鷲津砦攻撃)
朝比奈泰能
今川方(今川義元の軍勢)
2,000〜3,000人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分が付した「兵凡二千餘人」による。「餘」の幅を上限3000として範囲で表す。石高換算によるものではない。この数値は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分によるもので、説による差ではない。正面攻撃説の論者がこの数値を否定していることは本データでは確認していないため、両説に同じ値を置いている。
範囲のみ(半径約350m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
鷲津砦の座標の東側に置いた制作上の補間である。『日本戦史桶狭間役』は攻撃側の陣所の地点を示していない。なお同書は将名を朝比奈泰能と記すが、この人物の没年との整合は人の確認事項とする。
松平元康隊
松平元康
今川方(今川義元の軍勢)
約2,500人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分が付した「兵凡二千五百人」による。石高換算によるものではない。この数値は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分によるもので、説による差ではない。正面攻撃説の論者がこの数値を否定していることは本データでは確認していないため、両説に同じ値を置いている。
範囲のみ(半径約350m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
丸根砦の座標の東側に置いた制作上の補間である。『日本戦史桶狭間役』は攻撃側の陣所の地点を示していない。
鵜殿長照隊(大高城)
鵜殿長照
今川方(今川義元の軍勢)
0〜2,000人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・不詳推定
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』は大高城の守兵の数を記していない。この項目は「その説では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた他説または同書の他の砦の値である。消費側(engine・台本・記事)は数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。
地点特定 / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の地名検索APIが返す注記「大高城跡」の位置による制作上の補間である。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は補間である。
岡部元信隊(鳴海城)
岡部元信
今川方(今川義元の軍勢)
約800人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』が「岡部元信兵數未詳…八百人」と、未詳と断ったうえで「盖シ」を付して記した推定による。原文が「餘」を伴わないことを原本画像(pid 771063 コマ13)で確かめたため、朝比奈の「二千餘人」のように範囲にはせず単一値で持つ。石高換算によるものではない。この数値は説による差ではないため、両説に同じ値を置いている。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の名古屋市緑区鳴海町城の小字代表点そのままで、標高による寄せ処理は行っていない。代表点は区域の代表点であって遺構の中心点ではないため、precision を area とし、小字のおおよその広がりにあたる半径400mの円で示す。砦の実際の位置はこの円の内側にあり、円の中心ではない。『日本戦史桶狭間役』は丹下・善照寺と鳴海城の高低が相均しく中島は低いと記しているが、小字の区域は丘陵と低地の両方にまたがるため、代表点の標高はその関係をそのままには表さない。3D上の配置は制作上の補間である。
三浦備後守隊(援隊)
三浦備後守
今川方(今川義元の軍勢)
3,000〜4,000人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分が付した「兵凡三千餘人」による。「餘」の幅を上限4000として範囲で表す。石高換算によるものではない。この数値は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分によるもので、説による差ではない。正面攻撃説の論者がこの数値を否定していることは本データでは確認していないため、両説に同じ値を置いている。
不詳 / 史料の記載
通説(迂回)・正面攻撃説
葛山信貞隊(清須方面前進兵)
葛山信貞
今川方(今川義元の軍勢)
5,000〜6,000人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分が付した「兵凡五千餘人」による。「餘」の幅を上限6000として範囲で表す。石高換算によるものではない。この数値は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分によるもので、説による差ではない。正面攻撃説の論者がこの数値を否定していることは本データでは確認していないため、両説に同じ値を置いている。
不詳 / 史料の記載
通説(迂回)・正面攻撃説
浅井政敏隊(沓掛城)
浅井政敏
今川方(今川義元の軍勢)
1,500〜2,000人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』が「兵數未詳 盖シ千五百餘人」と、未詳と断ったうえで付した推定による。「餘」の幅を上限2000として範囲で表す。石高換算によるものではない。この数値は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分によるもので、説による差ではない。正面攻撃説の論者がこの数値を否定していることは本データでは確認していないため、両説に同じ値を置いている。
範囲のみ(半径約500m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の地名検索APIが返す豊明市沓掛町の代表点による制作上の補間である。代表点は区域の代表点であって遺構の中心点ではない。
瀬名氏俊隊(先発)
瀬名氏俊
今川方(今川義元の軍勢)
約200人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・近年の推計
典拠: 名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」
名古屋市の史跡解説が示すおよそ200人という数による。石高換算によるものではない。
範囲のみ(半径約500m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の地名検索APIが返す名古屋市緑区桶狭間の代表点による制作上の補間である。代表点は区域の代表点であって遺構の中心点ではない。
織田信長本隊
織田信長
織田方(織田信長の軍勢)
2,000〜3,000人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』は善照寺砦の東で凡三千許人を点検したとし、そのうち二千許人を率いたと記している。『信長公記』も中島砦へ移った時点を「二千に不足」と記しており、二つの史料は同じ規模を指している。この二つの数を下限と上限として範囲で表す。石高換算によるものではない。兵力は説による差ではないので、両説に同じ範囲を置いている。
範囲のみ(半径約300m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
3D上の初期位置は丹下砦と善照寺砦に置いた小字代表点の中点で、制作上の補間である。『日本戦史桶狭間役』は信長が丹下を過ぎて善照寺砦の東に至ったと記すのみで、地点の緯度経度を示していない。
佐々政次・千秋季忠の先手
佐々政次
織田方(織田信長の軍勢)
300〜400人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』の「三百餘人ヲ率井」による。「餘」は概数の下限を示すため、朝比奈の「二千餘人」や鷲津砦の「四百餘人」と同じく範囲で持つ。『信長公記』も人数三百ばかりと記す。石高換算によるものではない。この数値は説による差ではないため、両説に同じ値を置いている。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)
座標は善照寺砦と鳴海城の位置から補間した推定範囲である。『日本戦史桶狭間役』は「鳴海方面ノ敵ニ向ヒ」と記すのみで地点を示していない。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
正面攻撃説
『信長公記』は義元に向かって足軽に罷り出たと記し、名古屋市は高根山で佐々・千秋の軍と激戦が行われたと紹介している。座標は国土地理院の有松町大字桶狭間の大字代表点による制作上の補間である。
丸根砦守兵
佐久間盛重
織田方(織田信長の軍勢)
400〜700人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』が「七百餘人 又云フ四百ト」と二つの伝えを併記していることによる。石高換算によるものではない。この数値は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分によるもので、説による差ではない。正面攻撃説の論者がこの数値を否定していることは本データでは確認していないため、両説に同じ値を置いている。
地点特定 / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の地名検索APIが返す注記「丸根砦跡」の位置による制作上の補間である。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は補間である。
鷲津砦守兵
織田信平
織田方(織田信長の軍勢)
400〜500人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・史料記載
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』が「兵數未詳 四百餘人 ニ云フ」と一説として付した概数による。「餘」の幅を上限500として範囲で表す。石高換算によるものではない。この数値は参謀本部編『日本戦史桶狭間役』の軍隊区分によるもので、説による差ではない。正面攻撃説の論者がこの数値を否定していることは本データでは確認していないため、両説に同じ値を置いている。
地点特定 / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の地名検索APIが返す注記「鷲津砦跡」の位置による制作上の補間である。史料は地点の緯度経度を示していないため、3D上の配置は補間である。
善照寺砦守兵
佐久間信辰
織田方(織田信長の軍勢)
0〜700人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・不詳推定
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』は善照寺砦の守兵の数を記していない。この項目は「その説では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた他説または同書の他の砦の値である。消費側(engine・台本・記事)は数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の名古屋市緑区鳴海町砦の小字代表点そのままで、標高による寄せ処理は行っていない。代表点は区域の代表点であって遺構の中心点ではないため、precision を area とし、小字のおおよその広がりにあたる半径400mの円で示す。砦の実際の位置はこの円の内側にあり、円の中心ではない。『日本戦史桶狭間役』は丹下・善照寺と鳴海城の高低が相均しく中島は低いと記しているが、小字の区域は丘陵と低地の両方にまたがるため、代表点の標高はその関係をそのままには表さない。3D上の配置は制作上の補間である。
丹下砦守兵
水野忠光
織田方(織田信長の軍勢)
0〜700人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・不詳推定
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』は丹下砦の守兵の数を記していない。この項目は「その説では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた他説または同書の他の砦の値である。消費側(engine・台本・記事)は数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の名古屋市緑区鳴海町丹下の小字代表点そのままで、標高による寄せ処理は行っていない。代表点は区域の代表点であって遺構の中心点ではないため、precision を area とし、小字のおおよその広がりにあたる半径400mの円で示す。砦の実際の位置はこの円の内側にあり、円の中心ではない。『日本戦史桶狭間役』は丹下・善照寺と鳴海城の高低が相均しく中島は低いと記しているが、小字の区域は丘陵と低地の両方にまたがるため、代表点の標高はその関係をそのままには表さない。3D上の配置は制作上の補間である。
中島砦守兵
梶川一秀
織田方(織田信長の軍勢)
0〜700人 / 通説(迂回)・正面攻撃説・不詳推定
典拠: 日本戦史 桶狭間役
『日本戦史桶狭間役』は中島砦の守兵の数を記していない。この項目は「その説では兵力が未確定」であることを表す枠であり、推計値ではない。下限0は不明を意味し、上限は比較対象として置いた他説または同書の他の砦の値である。消費側(engine・台本・記事)は数値として表示せず「兵力不詳」として扱うこと。
範囲のみ(半径約400m) / 制作上の補間(推定)推定
通説(迂回)・正面攻撃説
座標は国土地理院の名古屋市緑区鳴海町下中の小字代表点そのままで、標高による寄せ処理は行っていない。代表点は区域の代表点であって遺構の中心点ではないため、precision を area とし、小字のおおよその広がりにあたる半径400mの円で示す。砦の実際の位置はこの円の内側にあり、円の中心ではない。『日本戦史桶狭間役』は丹下・善照寺と鳴海城の高低が相均しく中島は低いと記しているが、小字の区域は丘陵と低地の両方にまたがるため、代表点の標高はその関係をそのままには表さない。3D上の配置は制作上の補間である。

時系列

  1. 午前2時前後
    信長、清須を発し熱田へ向かう

    清須城と熱田はいずれも本データの地形範囲の外にあるため、3D上には配置していない。この出来事は章の時間範囲の外にもある。engine の太陽は時刻を午前5時から午後7時に丸めるため、夜明け前の場面を3Dに置くと昼の光で描かれる。HUD の直近イベントとしてだけ残す。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  2. 黎明(午前4時30分頃)
    松平元康、丸根砦を攻める

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  3. 黎明
    朝比奈隊、鷲津砦を攻める

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  4. 開始から約60分
    義元、沓掛を発ち大高へ向かう

    前日18日に沓掛で定めた軍隊区分は claim c_ev_kutsukake_orders を参照。出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  5. 開始から約240分
    丸根砦の守将 佐久間盛重が討たれる

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  6. 午前8時頃
    信長、熱田に至り兵を集める

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  7. 開始から約250分
    松平元康、鵜殿長照に代わって大高城に入る

    『日本戦史桶狭間役』は、丸根砦が陥ちたのち義元が元康の功を賞し、鵜殿長照に代わって大高城に入り兵馬を休養するよう命じ、長照には笠寺の前軍に合するよう命じたと記している。『信長公記』も家康が大高で人馬の休息をとり居陣したと記す。出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  8. 午前10時頃
    鷲津砦が陥ちる

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  9. 開始から約375分
    信長、丹下を過ぎて善照寺砦の東に至る

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  10. 午前中
    義元、桶狭間の北の田楽狭間で休息する

    通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  11. 午前中
    義元、おけはざま山で人馬を休息させる

    正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 信長公記 巻之上(我自刊我本)

  12. 開始から約400分
    佐々政次・千秋季忠の先手が敗れる

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  13. 開始から約420分
    信長、諫めを振り切って中島砦へ移る

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  14. 開始から約440分
    梁田政綱の間者、義元の所在を報じる

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  15. 開始から約460分
    信長、二千ばかりを率いて丘陵に隠れ太子ヶ根へ向かう

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  16. 開始から約460分
    信長、中島からさらに軍勢を出す

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 信長公記 巻之上(我自刊我本)

  17. 正午前後
    黒雲が広がり暴風雨が西北から至る

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  18. 午後2時頃
    織田方、太子ヶ根を下って本陣を衝く

    通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  19. 未の刻(午後2時頃)
    織田方、正面から今川方に懸かる

    正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 信長公記 巻之上(我自刊我本)

  20. 未の刻(午後2時頃)
    今川義元が討たれる

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  21. 開始から約620分
    松井宗信・井伊直盛らが引き返して戦死する

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  22. 開始から約620分
    松井一門一党が枕を並べて討死する

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 信長公記 巻之上(我自刊我本)

  23. 開始から約630分
    今川方が崩れて走る

    出典はこの出来事の時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  24. 午後4時
    信長、追撃せず兵を集めて軍を収める

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  25. 開始から約870分
    岡部元信、鳴海城の守備を厳にする

    『日本戦史桶狭間役』は岡部元信が敗報に接した時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない(time_ja を置かないことで HUD にも時刻を出さない)。同書が敗報の大高への到達を薄暮とすることに合わせ、章の終わり近くに置いている。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

  26. 夜半
    松平元康、月の出を待って大高を退き三河へ向かう

    『日本戦史桶狭間役』は薄暮に敗報が大高へ届き、元康が月の出を待って兵を収め、浅井道忠に郷導を命じて三河へ向かって還ったと記している。元康は e_motoyasu_into_odaka で大高城に入っており、この移動はそこから東へ去るものである。到達点は史料が示す「參河ニ向テ還ル」という方角を表すための表示域の東端であって、地点の主張ではない(precision=order_only)。この出来事は章の時間範囲の外にある。engine の太陽は時刻を午前5時から午後7時に丸めるため、夜の場面を3Dに置くと真昼の光で描かれる。

    通説(迂回)・正面攻撃説/ 史料の記載/ 典拠: 日本戦史 桶狭間役

諸説あり — この図の読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。基本測量成果の複製・使用にあたる利用形態は測量法に基づく手続の要否を別途確認すること。

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

現代地形を使用しています(当時の河道・入り海・池・植生・街道は異なる場合があります)

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

布陣・兵力: 参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』(1899) / 正面攻撃説: 太田牛一『信長公記』首巻ほか / 史跡解説: 名古屋市・豊明市

布陣・兵力・時系列には諸説があります。本作は通説と正面攻撃説を切り替えて表示し、位置が確定できない部隊は推定範囲または「位置不詳」として扱っています。地形データの出典表記は knowledge/battles/okehazama/terrain/terrain.json の credit_ja に揃えています。

出典一覧

  1. 参謀本部 編 『日本戦史 桶狭間役』元真社/1899年 / 編纂史料/ 学術二次文献/ 国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 771063)は IIIF manifest が「日本戦史.桶狭間役」/出版者 元真社/出版年 明32/書誌ID 000000430552/請求記号 77-30/全166コマ と示す。本編は第一篇(起因及戦役前ノ形勢)・第二篇(作戦)・第三篇(戦後ノ動静及結果)に附記・附図・附表・補伝を加える構成で、第二篇第二章に地理、第二篇第四章其二に桶狭間の戦闘経過を収める。 原典ページを見る
    明治32年に旧陸軍参謀本部が編纂した戦史。本文は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/771063)で取得したOCRテキストにより機械的に確認した。OCRのため人による原本画像との照合が必要で、本データの引用文にはOCRが読めなかった文字(〓)と誤読が含まれる。
  2. 太田牛一 著 『信長公記 巻之上(我自刊我本)』甫喜山景雄/1881年 / 古文書/ 一次史料/ 国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 781192)は IIIF manifest が「信長公記.巻之上」/著者 太田牛一/出版者 甫喜山景雄/出版年 明14/シリーズ 我自刊我本/書誌ID 000000435795/請求記号 128-97/全51コマ と示す。桶狭間の戦いの記事はコマ15からコマ17にある。 原典ページを見る
    太田牛一による同時代の記録を明治14年に翻刻したもの。本文は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/781192)で取得したOCRテキストにより機械的に確認した。この版は桶狭間の記事に「天文廿一年壬子五月十九日」という年次を記しており、永禄3年とは合わない。首巻の年次には誤りがあることが知られているため、年次は『日本戦史桶狭間役』の永禄3年を採る。原本画像および現代の校訂本との照合が必要。
  3. 藤本 正行 『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』洋泉社/2008年 / 書籍/ 一般向け二次文献/ 洋泉社 新書y(2008年12月)。書誌は国立国会図書館サーチで確認した。ISBN は knowledge/battles/okehazama/SOURCES.md 第3節に記載する(未選書の書籍の識別子を公開ページに出さないため、ここには書かない)。
    書名・出版者・刊行年・ISBN を国立国会図書館サーチの書誌で確認した。本データでは現物を確認していないため、内容の要約は claim に書いていない。
  4. 藤本 正行 『桶狭間の戦い 信長の決断・義元の誤算』洋泉社/2010年 / 書籍/ 一般向け二次文献/ 洋泉社(2010年10月)。書誌は国立国会図書館サーチで確認した。ISBN は knowledge/battles/okehazama/SOURCES.md 第3節に記載する(未選書の書籍の識別子を公開ページに出さないため、ここには書かない)。
    書名・出版者・刊行年・ISBN を国立国会図書館サーチの書誌で確認した。本データでは現物を確認していない。
  5. 黒田 日出男 『桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』-『甲陽軍鑑』の史料論(2)-』立正大学史学会/2006年 / 論文/ 学術二次文献/ 『立正史学』100号(2006年)3-42頁。 原典ページを見る
    書誌事項を CiNii Research と国立国会図書館サーチで確認した。本文は入手していないため、結論の紹介は claim に書いていない。
  6. 『名古屋市 緑区「桶狭間周辺のみどころ一覧」』名古屋市/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧/ おけはざま山・桶狭間古戦場公園(田楽坪)・瀬名氏俊陣地跡・高根山・釜ヶ谷・戦評の松・長福寺・七ツ塚・桶狭間神明社の各項。ページID 1024811。 原典ページを見る
    取得日 2026-09-05。市の史跡解説であり、一次史料そのものではない。旧URL https://www.city.nagoya.jp/midori/page/0000052400.html は現URLへ 301 で転送される。ページの更新日は2025年10月17日。2026-09-05 に取得した本文には「本陣」の語が一度も現れない。おけはざま山の項は『信長公記』の「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が指摘する処であるとし、瀬名氏俊陣地跡の項は「昼の休息陣地」と記している。本データはこの表現のとおりに引く。
  7. 『豊明市「桶狭間古戦場伝説地」』豊明市/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧/ 史跡指定と七石表に関する記述。 原典ページを見る
    取得日 2026-09-05。昭和13年4月に豊明村が史跡の管理者に指定された旨を記す。
  8. 『国土地理院 地名検索API(地理院地図)』国土地理院/2026年 / データベース/ 事典・要覧/ 「大高城跡」「鷲津砦跡」「丸根砦跡」「桶狭間古戦場伝説地」「大将ヶ根」「二村山」「有松幕山」「桶狭間巻山」の注記、および名古屋市緑区鳴海町城・砦・丹下・下中、緑区桶狭間・桶狭間北・桶狭間神明、有松町大字桶狭間、豊明市沓掛町・栄町武侍の大字小字代表点を取得した。 原典ページを見る
    取得日 2026-09-05。利用条件は knowledge/data_licenses.json の gsi_placenames を参照。

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    大石泰史/KADOKAWA/2018-05

    ISBN 9784047036338

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    今川義元知られざる実像

    小和田哲男/静岡新聞社/2019-03

    ISBN 9784783810896

    桶狭間で討たれた今川義元そのものを扱う評伝。合戦を義元の側から見る視点と、「東海一の弓取り」と呼ばれた大名像の見直しを、解説記事の背景に使うための書目。

広告の扱いは広告に関する開示にまとめています。