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戦国・2説併記武田方 対 織田方 対 徳川方

長篠の戦いの布陣図

  • 天正3年5月21日
  • 愛知県 新城市

図1 インタラクティブ3D布陣図

表示中の説: 通説(銃手三千人)

既定説の要旨 — 通説(参謀本部編『日本戦史 長篠役』1903年) による

明治36年(1903)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 長篠役』の記述に基づく理解。織田・徳川方が連子川に阻んで柵を樹て、全軍の銃手一万から三千人を選抜し、敵が迫るに及んで千挺ずつ代る代る発せしめよと信長が下知したとする。武田方は5月20日に川を渡って右翼・中央・左翼・総予備隊の約一万二千人を設楽原に向け、21日の平明から午後3時まで戦って崩れたとする。現在も流布する三段撃ちの理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

典拠: [1]日本戦史 長篠役 / [8]新城市「長篠・設楽原の戦いの概要」 / [14]愛知県「あいち歴史観光」設楽原古戦場跡

目次
  1. インタラクティブ3D布陣図
  2. 地形と布陣を読む解説
  3. 静止布陣図と説の比較
  4. 章立て
  5. 採用説の切替
  6. 部隊と兵力
  7. 時系列
  8. 凡例と注記 — この図の読み方
  9. 出典一覧
  10. この合戦をもっと読む — 関連書籍

長篠・設楽原の戦いの布陣図 — 鉄砲と馬防柵を史料で読む

長篠城と設楽原を分けて見る

長篠・設楽原の戦いの決戦は、天正三年五月二十一日とされます。鉄砲と騎馬、馬防柵の場面を思い浮かべる前に、長篠城と設楽原が別の場所であることを図で確認してください。城をめぐる攻防と、その西で行われた会戦を合わせて読むと、収録した経過を整理しやすくなります。

長篠・設楽原のインタラクティブ布陣図では、『日本戦史 長篠役』を中心とする通説と、『信長公記』の記述を軸にした読み方を比較できます。大きな論点は、鉄砲の数や運用を各本文がどう伝えているかです。同じ部隊や出来事でも、両方の記述がすべて一致するわけではありません。

現代地形で確かめられること

『日本戦史』は、長篠城を二つの川が合わさる地点に臨む城として説明し、設楽原を長篠城の西の会戦地として記します。また、設楽原には平坦な部分が少ないと述べています。図で谷と高まりを見たあと、城や各部隊の位置へ戻ると、地名を覚える助けになります。出典:日本戦史 長篠役

表示する標高は現代の産総研のデータです。当時の河道、植生、道、城の姿をそのまま再現してはいません。史料に書かれた地形の説明と、現在の地表面が見せる形を分けてください。起伏があることだけから、騎馬の動きや敗因まで確定することはできません。出典:地形データ

川の名前にも表記の違いがあります。『日本戦史』は設楽原の中央を南へ流れて豊川に入る溝渠を連子川と記し、新城市の馬防柵の説明には連吾川の名が現れます。この図では、流れる位置と向きが合うことから両者を同じ流れの別の表記として扱っていますが、これは本作の判断で、『日本戦史』が連吾川の字を使っているわけではありません。出典:日本戦史 長篠役

馬防柵と、現在の再現展示

『信長公記』は家康と滝川一益の陣取りの前に馬防の柵を設けたと記します。『日本戦史』にも柵の設置が記されます。新城市は、連吾川沿いの馬防柵と、地元の人々による現在の再現を紹介しています。現在見られる柵は、合戦当日の柵がそのまま残っているという意味ではありません。出典:新城市の馬防柵解説

観光案内では三段撃ちという言い方も使われています。現地での見学体験を支える説明と、史料本文にどの運用が記されているかを検討する作業は、区別して読むと理解しやすくなります。再現された柵を見たことだけで、人数や射撃の交替方法まで裏付けられるわけではありません。

鉄砲の数と「三段撃ち」

『日本戦史』は、全軍の銃手から三千人を選び、千挺ずつ交替して発射させたという筋立てを記します。一方、このページが参照した『信長公記』我自刊我本の巻之中には、鉄砲は千挺ばかりとあり、鉄砲隊を三隊に分けて交互に撃たせたという記述はありません。出典:信長公記

ここで比較しているのは、特定の本文同士の違いです。『信長公記』という書名だけで、すべての伝本や版本の文字・数字が同じと扱ってはいません。実際、岡山大学図書館が画像を公開する池田家本『信長記』では、この場面の「千」の右肩に小さく「三」が書き添えられています。誰がいつ書き加えたかは、画像からは分かりません。出典:池田家本 信長記また、ある版に三段撃ちの記述がないことと、当日の射撃運用の全容が判明したことも別です。未確認の研究本文から新しい戦術を補って説明することはしません。

同書が数える一番から五番までの攻撃も、鉄砲隊の交替数と混同しないでください。武田方の攻撃を順に記した部分と、織田方の射撃の編成を記した部分では、数が何を対象としているかが違います。数字だけを抜き出すより、誰が何をした記述かを合わせて読むことが重要です。

包囲と別動隊の経過

長篠城の包囲開始についても、『日本戦史』が五月八日と記すのに対し、新城市の概要は五月一日としています。城の包囲、援軍の移動、設楽原の会戦を一本の年表に整理するときは、どの情報を採ったかを残す必要があります。異なる出典の月日を混ぜて、包囲期間を確定することは避けてください。出典:新城市の合戦概要

『信長公記』には信長方の岡崎・牛久保・野田原・設楽への移動が記され、別動隊が山を回って鳶ヶ巣方面へ向かった経過もあります。『日本戦史』と『信長公記』では、この攻撃の時刻の記し方にも違いがあります。図を読む際は、別動隊の行動を本戦の一場面へ押し込めず、城との位置関係を保って追ってください。

戦闘の終わりも、『日本戦史』は午後三時、『信長公記』は未の刻までの戦いとして記します。こうした記述を現在の分刻みの時計へ変換した表示には幅があると考えてください。最終局面では鳳来寺方面への敗走が語られ、長篠城周辺の兵が退く経過も収録されています。

現地の追悼と、次に読むもの

新城市は、戦死者を弔ったと伝わる信玄塚を紹介しています。こうした場所は、合戦のあとに地域でどのように記憶されてきたかを知る入口です。戦死者数について異なる記述があることと、追悼の場が現在も伝えられていることを、それぞれの情報として読んでください。

新城市設楽原歴史資料館の案内では、古式銃などの展示も紹介されています。現地の展示と史料本文を往復すると、鉄砲の実物への理解と、戦いの記録への理解を分けて深められます。出典:設楽原歴史資料館

関連書籍を読むときは、著者がどの版の史料を使い、どの議論へ答えているかにも注目してください。この布陣図は、異なる本文の記述を並べて考えるための道具です。表示が精細であることより、根拠を辿り直せることを重視しています。

静止布陣図と説の比較

3Dを表示できない環境向け。3Dが動く環境では畳んで表示します。

図2 静止布陣図(平面)と説の比較を開く/閉じる
長篠の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。
図2 長篠の戦い 布陣位置の概略(既定説)。地形の起伏は描いていない

天正3年5月21日、愛知県新城市の長篠城跡から設楽原にかけて(三河国南設楽郡)。明治36年(1903)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 長篠役』の記述に基づく理解。織田・徳川方が連子川に阻んで柵を樹て、全軍の銃手一万から三千人を選抜し、敵が迫るに及んで千挺ずつ代る代る発せしめよと信長が下知したとする。武田方は5月20日に川を渡って右翼・中央・左翼・総予備隊の約一万二千人を設楽原に向け、21日の平明から午後3時まで戦って崩れたとする。現在も流布する三段撃ちの理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

説の比較

説要旨よりどころ
通説(参謀本部編『日本戦史 長篠役』1903年)既定表示
1903年提示
明治36年(1903)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 長篠役』の記述に基づく理解。織田・徳川方が連子川に阻んで柵を樹て、全軍の銃手一万から三千人を選抜し、敵が迫るに及んで千挺ずつ代る代る発せしめよと信長が下知したとする。武田方は5月20日に川を渡って右翼・中央・左翼・総予備隊の約一万二千人を設楽原に向け、21日の平明から午後3時まで戦って崩れたとする。現在も流布する三段撃ちの理解は、この記述に負うところが大きいとされる。日本戦史 長篠役/新城市「長篠・設楽原の戦いの概要」/愛知県「あいち歴史観光」設楽原古戦場跡
再検討説(『信長公記』の記述に基づく理解)
2015年提示
太田牛一『信長公記』の記述を軸に置く理解。国立国会図書館デジタルコレクションが公開する我自刊我本の巻之中は、この場面の鉄砲を千挺ばかりと記し、武田方の攻撃を一番から五番まで数えるだけで、鉄砲隊を三隊に分けて交互に撃たせたという記述を含んでいない。設楽の郷が地形の窪い所であったため敵から見えないように段々に人数三万ばかりを立て置いたとも記す。この読み方からは、三段撃ちを史料に書かれていない後世の理解として問い直す論が導かれるとされ、藤本正行と平山優がそれぞれの立場から著書を刊行している。信長公記 巻之中(我自刊我本)/再検証 長篠の戦い 「合戦論争」の批判に答える/信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学/検証 長篠合戦/長篠合戦と武田勝頼

書籍リンク

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章立て

長篠城を囲む十三日

参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、天正3年5月8日に武田勝頼が長篠城を囲んだと記し、新城市は5月1日と説明している。同書は城中の兵を五百余人と記している。城を出て援軍を求めた鳥居勝商が捕らえられ、篠場野で磔にされたと同書は記している。

注この章の出来事は5月8日から20日にかけてのもので、画面の時計は決戦当日の時間軸です

設楽原へ ― 柵と川

織田・徳川勢は5月18日に設楽原の西へ到り、家康と滝川の陣取りの前に馬防のため柵を付けさせたと『信長公記』は記している。新城市は、その柵が設楽原の中央を流れる連吾川沿いに全長2キロメートル・三重で置かれていたと説明している。武田方では兵を収めるべきだという諫めが退けられ、5月20日に勝頼が川を渡ったと参謀本部編『日本戦史 長篠役』は記す。

注(前章と同じ注記)

注この章の出来事は5月8日から20日にかけてのもので、画面の時計は決戦当日の時間軸です

鳶ヶ巣山の火

酒井忠次の別動隊が間道を廻って鳶ヶ巣山の砦を襲い、守将武田信実が力戦して死んだと参謀本部編『日本戦史 長篠役』は記している。同書はこれを5月21日の払暁とし、『信長公記』は辰の刻とする。長篠の方角の喊声と山の煙を見た武田方が危ぶんだと同書は記している。

注鳶ヶ巣山の位置は地形データから選んだ推定表示です

柵の前の五度

『信長公記』我自刊我本版は、武田方の攻撃を一番から五番まで数え、いずれも鉄砲に打ち立てられて引き退いたと記している。参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、山県隊が柵のない処から回り込もうとしたが流れが広く深く両岸が切り立っていて越えられなかったと記し、中央隊も銃火のために撃破されたと記す。

注柵の線と各隊の位置は史料の記述からの推定表示です

崩れと殿

参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、佐々成政の言を容れた信長が総攻撃を命じ、武田方が鳳来寺山の方向へ走ったと記している。同書は、馬場信春が勝頼を落としたのち出沢の岡阜に留まって追撃を支え、ついに首を授けたと記し、内藤昌豊も宮脇附近で戦死したと記す。戦いは午前5時頃に始まり午後3時に終わったと同書は記している。

注討死の地点は史料に緯度経度が無く、地名の代表点からの推定表示です

三千人か、千挺か

題の三千人は銃手の数、千挺は鉄砲の数で、数える単位が違う。三段撃ちという理解は、参謀本部編『日本戦史 長篠役』が「其既ニ逼ルニ及ヒ千挺ツヽ代ル々々發セシメヨ」と記す一節に負うところが大きいとされる。同書は全軍の銃手一万から三千人を選抜したと記す。これに対し国立国会図書館デジタルコレクションが公開する『信長公記』我自刊我本版は、この場面の鉄砲を千挺ばかりと記し、鉄砲隊を三隊に分けて交互に撃たせたという記述を含んでいない。二つの読み方を切り替えて比べる。

注鉄砲の数と時刻は説によって異なります(画面の時計は決戦当日の時間軸です)

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

通説(参謀本部編『日本戦史 長篠役』1903年)既定表示

要旨(冒頭の「既定説の要旨」と同文)

明治36年(1903)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 長篠役』の記述に基づく理解。織田・徳川方が連子川に阻んで柵を樹て、全軍の銃手一万から三千人を選抜し、敵が迫るに及んで千挺ずつ代る代る発せしめよと信長が下知したとする。武田方は5月20日に川を渡って右翼・中央・左翼・総予備隊の約一万二千人を設楽原に向け、21日の平明から午後3時まで戦って崩れたとする。現在も流布する三段撃ちの理解は、この記述に負うところが大きいとされる。

よりどころ
[1]日本戦史 長篠役 / [8]新城市「長篠・設楽原の戦いの概要」 / [14]愛知県「あいち歴史観光」設楽原古戦場跡
提示
1903年
注記(この説の扱い)

編纂から120年以上を経た二次史料であり、近年は史料批判の対象になっている。断定ではなく「通説では」という枠で紹介する。なお同書の本文は「三段」「三隊」という語をこの箇所で使っておらず、「千挺ツヽ代ル々々」と書いている。三段撃ちは後に広まった呼び方として扱う。label_short_ja は同書の本文が数える単位に合わせている。同書がこの箇所で三千に付す語は「銃手…人」であり「挺」ではない。同書が千挺ずつ代る代る発せしめよと記す千の方が「挺」である。

再検討説(『信長公記』の記述に基づく理解)

太田牛一『信長公記』の記述を軸に置く理解。国立国会図書館デジタルコレクションが公開する我自刊我本の巻之中は、この場面の鉄砲を千挺ばかりと記し、武田方の攻撃を一番から五番まで数えるだけで、鉄砲隊を三隊に分けて交互に撃たせたという記述を含んでいない。設楽の郷が地形の窪い所であったため敵から見えないように段々に人数三万ばかりを立て置いたとも記す。この読み方からは、三段撃ちを史料に書かれていない後世の理解として問い直す論が導かれるとされ、藤本正行と平山優がそれぞれの立場から著書を刊行している。

よりどころ
[2]信長公記 巻之中(我自刊我本) / [4]再検証 長篠の戦い 「合戦論争」の批判に答える / [5]信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 / [6]検証 長篠合戦 / [7]長篠合戦と武田勝頼
提示
2015年
注記(この説の扱い)

現存する研究者を含む学説であり、敬意ある中立的なトーンで紹介する。本データは藤本正行・平山優の著書の現物を確認していないため、説の骨格は『信長公記』我自刊我本版の本文と参謀本部編『日本戦史 長篠役』の本文の差から組み立てている。両者は論点ごとに立場が異なるとされるので、二人を同じ主張の持ち主として並べないこと。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。各行は表示中の説(通説(銃手三千人))の値で、 他の説の値は行内に畳んでいます(切替は採用説の切替から)。凡例:史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

時系列

時刻の記載がない出来事は時刻欄を空け、史料の記す前後関係の順に並べています。章を開くと出来事と説明が読めます。

  1. 第一章長篠城を囲む十三日出来事 4 件
    1. 武田勝頼、長篠城を囲む

      通説(銃手三千人)・再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役(以下 3 件も同じ)

    2. 武田方、長篠城に総攻撃をかける
    3. 鳥居勝商、囲みを抜けて岡崎へ走る
    4. 鳥居勝商、篠場野で磔にされる
    この章の出来事の説明(4 件)
    武田勝頼、長篠城を囲む
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は天正3年5月8日とし、新城市は5月1日とする。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    武田方、長篠城に総攻撃をかける
    5月13日の夜から14日にかけての攻防にあたる。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    鳥居勝商、囲みを抜けて岡崎へ走る
    5月15日払暁に雁峰山で煙を揚げたとされる。雁峰山は本データの地形範囲の北にあり3D上には置いていない。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    鳥居勝商、篠場野で磔にされる
    5月16日のことと記されている。篠場野の位置を示す公的な地名データが無いため3D上には置いていない。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
  2. 第二章設楽原へ ― 柵と川出来事 9 件
    1. 織田・徳川勢、設楽原の西に着く

      通説(銃手三千人)・再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之中(我自刊我本)(以下 1 件も同じ)

    2. 連吾川の西に馬防柵を樹てる
    3. 信長、鉄砲の撃ち方を下知する

      通説(銃手三千人)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役

    4. 武田方の軍議、進撃に決す

      通説(銃手三千人)・再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役

    5. 勝頼、川を渡って設楽原へ布陣する

      通説(銃手三千人)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役

    6. 武田方、連吾川の東に西向きに備える

      再検討説(千挺)/ 制作上の補間(推定)/ 典拠: [2]信長公記 巻之中(我自刊我本)

    7. 酒井忠次、鳶ヶ巣山の奇襲を建議する

      通説(銃手三千人)・再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役

    8. 信長、本陣を茶臼山へ進める

      通説(銃手三千人)・再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [13]愛知県「あいち歴史観光」織田信長本陣跡

    9. 酒井忠次の別動隊、設楽原を発つ

      通説(銃手三千人)・再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之中(我自刊我本)

    この章の出来事の説明(9 件)
    織田・徳川勢、設楽原の西に着く
    5月13日に岐阜を発し、18日に設楽原へ到ったと記されている。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    連吾川の西に馬防柵を樹てる
    5月18日から20日にかけての普請にあたる。柵の位置と長さを示す座標は史料にも自治体の解説にも無い。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    信長、鉄砲の撃ち方を下知する
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』が「千挺ツヽ代ル々々發セシメヨ」と記す箇所にあたる。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    武田方の軍議、進撃に決す
    5月19日の軍議とされる。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    勝頼、川を渡って設楽原へ布陣する
    5月20日の移動にあたる。到達点は参謀本部編『日本戦史 長篠役』の部署(右翼=浅木附近、中央=清井田附近、左翼=清井田の南方高地、総予備隊=有海の西方)を、国土地理院の注記「連吾川」の東側の台地上に置き直した制作上の補間である。国土地理院の注記「清井田」(北緯34.919759/東経137.536233)は中央隊の到達点の東およそ570メートルにあり、中央隊の半径はこれを含む600メートルとしている。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    武田方、連吾川の東に西向きに備える
    『信長公記』我自刊我本版は、長篠城へは攻め衆七首を差し向け、滝沢川を越えてあるみ原へ踏み出した一万五千ばかりを十三所に西向きに備え、両陣の間を二十町ばかりとしたと記している。同書は隊ごとの布陣地を挙げていないため、到達点の座標は通説の側と同じく、国土地理院の注記「連吾川」の東側の台地上に置いた制作上の補間である。再検討説にこの移動を欠いていると、engine が武田方を長篠城下の初期位置に置いたまま設楽原の画角を見ることになり、説を切り替えた閲覧者の画面から武田方が消える。
    酒井忠次、鳶ヶ巣山の奇襲を建議する
    5月20日の軍議での建議とされる。信長は席上では退けたと記されている。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    信長、本陣を茶臼山へ進める
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は5月20日の夜に信長がその営を茶磨山に進めたと記す。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
    酒井忠次の別動隊、設楽原を発つ
    『信長公記』我自刊我本版は5月20日の戌の刻に川を打ち越えたと記す。参謀本部編『日本戦史 長篠役』は夜のうちに発したと記す。t_min は決戦当日(天正3年5月21日)の午前5時を0とする経過分である。5月8日から20日までの出来事は、engine の太陽が午前4時から午後8時までしか動かないため、負の値を置いて夜明け前の薄明として描いている。これらの出来事に time_ja は置いておらず、画面右上の時計は決戦当日の時間軸を示すもので、これらの場面の時刻ではない。
  3. 第三章鳶ヶ巣山の火出来事 3 件払暁(午前5時頃)〜辰の刻(午前8時頃)
    1. 払暁(午前5時頃)別動隊、鳶ヶ巣山の砦を襲う

      通説(銃手三千人)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役(以下 1 件も同じ)

    2. 平明(午前5時頃)武田方、設楽原へ展開して進撃する
    3. 辰の刻(午前8時頃)『信長公記』は辰の刻に鳶の巣山へ上ったと記す

      再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之中(我自刊我本)

    この章の出来事の説明(3 件)
    別動隊、鳶ヶ巣山の砦を襲う
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は21日払暁とする。守将武田信実が力戦して死んだと記されている。
    武田方、設楽原へ展開して進撃する
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、武田方が長篠の方角の喊声と鳶ヶ巣山の煙を見て危ぶみ、勝頼が全軍に展開進撃を令したと記す。
    『信長公記』は辰の刻に鳶の巣山へ上ったと記す
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』が払暁とするのに対し、『信長公記』我自刊我本版は5月21日の辰の刻とする。
  4. 第四章柵の前の五度出来事 6 件
    1. 山県隊、川を越えられず大久保隊と戦う

      通説(銃手三千人)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役(以下 2 件も同じ)

    2. 中央隊、銃火に阻まれる
    3. 馬場隊、佐久間隊を破り丸山を奪う
    4. 五度にわたる突撃と鉄砲

      再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之中(我自刊我本)

    5. 真田信綱・昌輝、土屋昌次ら討死

      通説(銃手三千人)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役(以下 1 件も同じ)

    6. 山県昌景、飛丸に斃れる
    この章の出来事の説明(3 件)
    山県隊、川を越えられず大久保隊と戦う
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、山県隊が柵のない処から側方へ出ようとしたが流れが広く深く両岸が切り立っていて越えられなかったと記す。
    馬場隊、佐久間隊を破り丸山を奪う
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、佐久間隊が偽って敗れて走り、馬場隊が岡阜を奪ったのち柵の前へは進まなかったと記す。
    五度にわたる突撃と鉄砲
    『信長公記』我自刊我本版は、一番に山県三郎兵衛、二番に正用軒、三番に西上野小幡一党、四番に典厩一党、五番に馬場美濃守が入れ替わり懸り来たと記す。同書は鉄砲を撃つ側が三隊に分かれて交互に撃ったとは記していない。
  5. 第五章崩れと殿出来事 9 件未の刻(午後2時頃)〜午後3時
    1. 織田・徳川方、総攻撃に移る

      通説(銃手三千人)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役(以下 4 件も同じ)

    2. 武田方、鳳来寺山の方向へ崩れる
    3. 内藤昌豊、宮脇附近で戦死する
    4. 馬場信春、出沢に留まって討たれる
    5. 長篠城の囲みが解け、監視兵が退く
    6. 武田方、勝頼の旗元に集まり鳳来寺をさして退く

      再検討説(千挺)/ 制作上の補間(推定)/ 典拠: [2]信長公記 巻之中(我自刊我本)

    7. 未の刻(午後2時頃)『信長公記』は未の刻に戦いが終わったと記す

      再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之中(我自刊我本)

    8. 午後3時『日本戦史 長篠役』は午後3時に戦いが終わったと記す

      通説(銃手三千人)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役

    9. 両軍の損害

      通説(銃手三千人)・再検討説(千挺)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 長篠役

    この章の出来事の説明(5 件)
    織田・徳川方、総攻撃に移る
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、佐々成政の言を容れて信長が総攻撃を命じ、織田兵は正面から、徳川兵は敵の左側から一斉に進撃したと記す。
    武田方、鳳来寺山の方向へ崩れる
    鳳来寺山は本データの地形範囲の北東の外にあるため3D上には置いていない。退却の向きだけを示す。
    馬場信春、出沢に留まって討たれる
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、勝頼を落としたのち出沢の岡阜に留まって追撃を支えたと記す。到達点は国土地理院 地名検索APIの「愛知県新城市出沢」の大字代表点による制作上の補間である。
    武田方、勝頼の旗元に集まり鳳来寺をさして退く
    『信長公記』我自刊我本版は、日の出から未の刻まで入れ替わり相戦い、諸卒を打たせて次第に人がいなくなり、いずれも勝頼の旗元へ馳せ集まって鳳来寺をさして敗軍したと記している。同書は隊ごとの退却先を挙げていないため、到達点は鳳来寺山(北緯34.984081/東経137.582754)の方向にあたる北東の地点を置いた制作上の補間である。未の刻はおよそ午後2時前後にあたり、t_min 520 は午後1時40分にあたる。
    両軍の損害
    参謀本部編『日本戦史 長篠役』は首一万余級・織田徳川方の死傷六千以上とし、『信長公記』は宗徒の侍と雑兵およそ一万の討死とし、新城市は武田軍10,000人・連合軍5,000人とする。数は説と資料によって異なる。

凡例と注記 — この図の読み方

読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

本文中の典拠番号 [n] は、下の「出典一覧」の同じ番号の文献を指します。 3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、切替をしない限り既定説の配置を表示します。

陣営
  • 武田方武田方(武田勝頼の軍勢)
  • 織田方織田方(織田信長の軍勢)
  • 徳川方徳川方(徳川家康の軍勢)
日付・場所・地形データ・利用条件・データ出典(この図の注記)
日付について

天正3年5月21日(グレゴリオ暦 1575-07-09)

参謀本部編『日本戦史 長篠役』は天正3年5月8日に長篠城が囲まれ、5月21日の平明に設楽原で決戦があったと記す。同書は5月21日に「陽暦七月九日」と傍注しており(第二篇第四章其二、コマ17)、グレゴリオ暦1575年7月9日と一致する。ユリウス暦ではその10日前の1575年6月29日にあたる。本データはこの対応を採る(2026-09-24 編集判断、DECISIONS D-015)。設楽原の決戦だけを指して設楽原の戦いと呼ぶこともある。

場所

愛知県 新城市の長篠城跡から設楽原にかけて(三河国南設楽郡)

地形

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

現代地形を使用しています(当時の河道・堤防・水田・植生・街道は異なる場合があります)

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

利用条件

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

タイルセットの詳細

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。2026-09-11の国土地理院回答により、本プロジェクトが照会した統合DEMの複製保存・動画掲載・Web表示について測量法の手続きは不要と確認した。回答の適用範囲と産総研側の利用条件は docs/external_evidence/gsi_reply_20260911.md を参照する。

データ

布陣・兵力: 参謀本部編『日本戦史 長篠役』(1903) / 再検討説: 太田牛一『信長公記』巻之八ほか / 史跡解説: 新城市・愛知県

布陣・兵力・時系列・鉄砲の数には諸説があります。本作は通説と再検討説を切り替えて表示し、位置が確定できない部隊は推定範囲または「位置不詳」として扱っています。地形データの出典表記は knowledge/battles/nagashino/terrain/terrain.json の credit_ja に揃えています。

出典一覧

出典一覧(全 17 件)を開く本文の典拠番号 [n] はこの一覧の番号です
  1. 参謀本部 編 『日本戦史 長篠役』

    元真社/1903年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 771066)は IIIF manifest が「日本戦史.長篠役」/著者 参謀本部 編/出版者 元真社/出版年 明36(1903)/書誌ID 000000430552/請求記号 77-30/DOI 10.11501/771066/全177コマ/利用制限 PDM と示す。本編は第一篇(戦役前ノ形勢)・第二篇(作戦)・第三篇(戦後ノ動静及結果)からなり、第二篇第一章に長篠城の攻守、第二章に両軍ノ計画措置、第三章に地理、第四章其一に鳶ヶ巣山ノ襲撃、其二に設楽原ノ決戦を収める。

    明治36年に旧陸軍参謀本部が編纂した戦史。本文は国立国会図書館 次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/771066)で取得したOCRテキストにより機械的に確認した。本データの引用文にはOCRが読めなかった文字(〓)と誤読、割注・柱の混入が含まれる。2026-09-24 に Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が引用箇所をすべて原本画像(IIIF、コマ6-18・95)と照合し、原本の字を各 claim の note_ja に記した。同書は桶狭間役(pid 771063)と同じ書誌ID・請求記号を持つ叢書『日本戦史』の一冊である。

  2. 太田牛一 著 『信長公記 巻之中(我自刊我本)』

    甫喜山景雄/1881年 / 古文書/ 一次史料 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 781193)は IIIF manifest が「信長公記.巻之中」/著者 太田牛一/出版者 甫喜山景雄/出版年 明14/シリーズ 我自刊我本/書誌ID 000000435795/請求記号 128-97/全34コマ/利用制限 PDM と示す。コマ3の目録に「巻之八(天正三年乙亥)……三州長篠〓合戦之事」とあり、長篠の記事はコマ5の左頁からコマ6を経てコマ7右頁の冒頭2行まである(2026-09-24 原本画像で確認)。

    太田牛一による同時代の記録を明治14年に翻刻したもの。桶狭間の記事を収める巻之上(pid 781192)と同じ叢書の続きにあたる。本文は国立国会図書館 次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/781193)で取得したOCRテキストにより機械的に確認した。この版のOCRは崩れが大きく、「候」が「い」に、「御」が「浄」に読まれるなどの誤読が多い。2026-09-24 に Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が原本画像(IIIF)と引用箇所を照合した。原本は「候」を略体で、「に」を変体仮名で刷っており、OCRはこれを「い」「よ」と読んでいる。現代の校訂本・写本とは照合していない。

  3. 太田牛一 著(同館の解説では自筆本) 『岡山大学図書館 古文献ギャラリー「信長記 巻第八」(池田家文庫 貴-48)』

    岡山大学図書館/2026年 / ウェブ/ 一次史料 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    IIIF manifest(https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/komonjo/iiif/8/manifest)の画像16、見開きの右頁の第4行。画像の直接URLは https://repo.lib.okayama-u.ac.jp/iiif/komonjo/shincho-8/16.tif/full/full/0/default.jpg 。資料番号 貴-48、池田家文庫、全15巻15冊のうち第8巻、画像数60。

    岡山大学図書館が所蔵し画像を公開する池田家文庫の『信長記』(国指定重要文化財)。同館の解説は、池田家の注文によって書かれた著者太田牛一の自筆本とする。2026-09-25 に Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が画像16を拡大して読み、「鉄炮千挺計」の「千」の右肩に小さく「三」が書き添えられていることを確認した(2026-09-24 の照合の追補)。この傍書を誰がいつ加えたかは、本データでは判断していない。画像は転載せず、所在と字の記述にだけ使う。全文テキストが無いため quote_ja は置いていない。

  4. 藤本 正行 『再検証 長篠の戦い 「合戦論争」の批判に答える』

    洋泉社/2015年 / 書籍/ 一般向け二次文献

    注記(所在・確認方法)

    洋泉社(2015年2月)。書誌は国立国会図書館サーチのOpenSearch APIで確認した(ISBN 978-4-8003-0583-1)。ISBN は knowledge/books/nagashino.seed.json に記載する。

    書名・出版者・刊行年・ISBN を国立国会図書館サーチの書誌で確認した。本データでは現物を確認していないため、内容の要約は claim に書いていない。鉄砲の三段撃ちを否定する立場の代表的な一般書とされるが、その主張の中身は人が現物で確認すること。

  5. 藤本 正行 『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』

    講談社/2003年 / 書籍/ 一般向け二次文献

    注記(所在・確認方法)

    講談社学術文庫(2003年1月)。書誌は国立国会図書館サーチのOpenSearch APIと openBD で確認した(ISBN 978-4-06-159578-1)。

    『信長の戦国軍事学』(JICC出版局 1993/洋泉社 1997)を改題・改稿したものとされる。書誌のみ確認し本文は入手していない。

  6. 平山 優 『検証 長篠合戦』

    吉川弘文館/2014年 / 書籍/ 学術二次文献

    注記(所在・確認方法)

    吉川弘文館 歴史文化ライブラリー382(2014年8月)。書誌は国立国会図書館サーチのOpenSearch APIと openBD で確認した(ISBN 978-4-642-05782-0)。

    書誌のみ確認し本文は入手していない。長篠合戦の論点を史料批判から検証する研究書とされるが、結論の紹介は claim に書いていない。

  7. 平山 優 『長篠合戦と武田勝頼』

    吉川弘文館/2014年 / 書籍/ 学術二次文献

    注記(所在・確認方法)

    吉川弘文館 敗者の日本史9(2014年2月)。書誌は国立国会図書館サーチのOpenSearch APIと openBD で確認した(ISBN 978-4-642-06455-2)。

    書誌のみ確認し本文は入手していない。武田勝頼の側から長篠合戦を扱う研究書とされる。

  8. 『新城市「長篠・設楽原の戦いの概要」』

    新城市/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「長篠城をめぐる戦い」「両軍の布陣」「激闘10時間」「戦後」の各節。ページ更新日 2026年3月31日。

    取得日 2026-09-07。市の史跡解説であり一次史料そのものではない。日付・兵力が参謀本部編『日本戦史 長篠役』と食い違う箇所があり(包囲の開始を5月1日、連合軍を38,000人とする)、本データは両方を別の claim として持つ。

  9. 『新城市「馬防柵」』

    新城市/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    馬防柵の項(ページID 949737929)。ページ更新日 2026年3月31日。

    取得日 2026-09-07。全長2キロメートル・三重・連吾川沿いという記述と、現在は地元の人々の手によって再現されているという記述をここから引く。再現柵は現代の構築物であり、当時の柵の位置の主張ではない。

  10. 『新城市「医王寺山 武田勝頼本陣跡」』

    新城市/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    所在地は新城市長篠字碁石地内。新城市指定史跡(平成5年7月13日指定)。ページ更新日 2026年3月31日。

    取得日 2026-09-07。標高約120mの丘陵先端で南方600m先の長篠城を監視できるという記述を、医王寺山の座標を補間するときの根拠に使っている。

  11. 『新城市「長篠城址周辺マップ・パンフレット」』

    新城市/2025年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    大通寺・盃井戸・医王寺と武田勝頼本陣地・馬場美濃守信房の墓・蟻封塔・鳥居強右衛門の墓と磔死の碑・鳶が巣山砦跡の各項。ページ更新日 2025年3月13日。

    取得日 2026-09-07。長篠城址史跡保存館(新城市)の周辺マップ。鳶が巣山を「長篠城址の対岸の山頂」とし、5箇所に5つの武田軍の砦があったとする記述をここから引く。

  12. 『新城市設楽原歴史資料館(施設案内)』

    新城市/2026年 / 博物館/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    所在地 〒441-1305 愛知県新城市竹広字信玄原552/電話 0536-22-0673。ページ更新日 2026年7月3日。

    取得日 2026-09-07。古戦場跡に建つ市立の資料館で、長篠・設楽原の戦いと火縄銃を主題とする。館の所在地(竹広字信玄原)は設楽原の決戦地の位置を示す手掛かりとして使っている。

  13. 『愛知県「あいち歴史観光」織田信長本陣跡』

    愛知県/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    所在地 〒441-1303 愛知県新城市牛倉字城山。信長が上平井の極楽寺からこの茶臼山に本陣を移したとする解説と、歌碑の紹介。

    取得日 2026-09-07。愛知県の観光サイトで、一次史料ではない。同サイトの「設楽原古戦場跡」のページは馬防柵の再現と「火縄銃の三段撃ち」という表現を使っており、通説が現在も現地の説明に使われていることの例として引く。

  14. 『愛知県「あいち歴史観光」設楽原古戦場跡』

    愛知県/2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    所在地 〒441-1305 愛知県新城市竹広字信玄原552。約100メートルにわたり再現された馬防柵と「火縄銃の三段撃ち」の記述。

    取得日 2026-09-07。県の観光解説であり史料ではない。現地の案内が三段撃ちという理解を今も使っていることを示す例として引いている。

  15. 一般社団法人奥三河観光協議会 『キラッと奥三河観光ナビ「徳川家康本陣跡(八剱神社)」』

    一般社団法人奥三河観光協議会/2026年 / ウェブ/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    所在地 愛知県新城市竹広。天正3年5月18日に家康が本陣を構えたと伝わるとし、本陣跡の東300メートル先に連吾川があると記す。

    取得日 2026-09-07。新城市・東栄町・設楽町・豊根村などで作る一般社団法人奥三河観光協議会(道の駅もっくる新城内)の観光サイトで、自治体そのものの公式ページではない。家康本陣跡を八剱神社に比定する記述の出所としてのみ使い、史実の主張には使っていない。

  16. 『国土地理院 地名検索API(住所・地名検索)』

    国土地理院/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「長篠城跡」「愛知県新城市竹広宮川」「愛知県新城市牛倉城山」「愛知県新城市竹広信玄原」「愛知県新城市上平井」「連吾川」などの問い合わせに対する返り値(経度・緯度)。

    取得日 2026-09-07。本データの座標はすべてこのAPIの返り値と地形データからの制作上の補間である。史料は緯度経度を示していない。大字・小字の代表点は区域の代表点であって遺構の中心点ではない。

  17. 『産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM』

    産業技術総合研究所 地質調査総合センター/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    統合DEM(sourceID=mixed)zoom14。日本陸域 zoom10〜15 の実体は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B。

    取得日 2026-09-07。地形グリッドの取得元。適用される利用条件は国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル)で、CC BY 4.0 ではない(DECISIONS.md D-008)。医王寺山と鳶ヶ巣山の座標を補間するときに、この標高データの局所最高点を使っている。

この合戦をもっと読む — 関連書籍

布陣図の元になった史料・研究にあたるための本です。書影と書誌は楽天ブックス・openBD・国立国会図書館サーチから取得しています。

  • 『検証長篠合戦』書影

    検証長篠合戦

    平山優/吉川弘文館/2014-07/ISBN 9784642057820

    長篠合戦の論点を史料批判から検証する研究書(歴史文化ライブラリー382)。鉄砲の装備差や兵農分離の実態を扱うとされ、battle_data の再検討説を人が裏取りするときの参照元。

  • 『敗者の日本史(9)』書影

    敗者の日本史(9)

    平山優・山本博文/吉川弘文館/2014-01/ISBN 9784642064552

    敗者の日本史9。武田勝頼の側から長篠合戦を扱う研究書で、勝頼がなぜ決戦に踏み切ったのかというフックの参照元。

ほか 4 冊を表示
  • 書影
    なし

    再検証長篠の戦い 「合戦論争」の批判に答える

    藤本正行/洋泉社/2015-02/ISBN 9784800305831

    三段撃ちを否定する立場から論争への批判に答える一般向けの書。battle_data の theories で再検討説を採る際の参照元。

  • 『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』書影

    信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学

    藤本正行/講談社/2003-01/ISBN 9784061595781

    『信長公記』の記述から信長の合戦を読み直す論集(講談社学術文庫)。長篠の鉄砲の数と運用がどの本文に由来するかを追うための書目で、桶狭間の台帳にも同じ書目が入っている。

  • 『現代語訳 信長公記』書影

    現代語訳 信長公記

    太田牛一/KADOKAWA/2013-10/ISBN 9784046000019

    太田牛一『信長公記』の現代語訳(角川ソフィア文庫)。本データが典拠とする巻之八「三州長篠合戦之事」を現代語で確認するための書目で、明治14年の翻刻本から取得したOCRテキストを人が照合するときの手掛かりになる。

  • 書影
    なし

    武田氏滅亡

    平山優/KADOKAWA/2017-02/ISBN 9784047035881

    長篠合戦の後、武田氏が天正10年に滅びるまでを扱う通史。合戦単体ではなく前後の政治情勢を解説記事の結びに使うための書目。

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