明治36年(1903)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 長篠役』の記述に基づく理解。織田・徳川方が連子川に阻んで柵を樹て、全軍の銃手一万から三千人を選抜し、敵が迫るに及んで千挺ずつ代る代る発せしめよと信長が下知したとする。武田方は5月20日に川を渡って右翼・中央・左翼・総予備隊の約一万二千人を設楽原に向け、21日の平明から午後3時まで戦って崩れたとする。現在も流布する三段撃ちの理解は、この記述に負うところが大きいとされる。
長篠・設楽原の戦いの布陣図 — 鉄砲と馬防柵を史料で読む
長篠城と設楽原を分けて見る
長篠・設楽原の戦いの決戦は、天正三年五月二十一日とされます。鉄砲と騎馬、馬防柵の場面を思い浮かべる前に、長篠城と設楽原が別の場所であることを図で確認してください。城をめぐる攻防と、その西で行われた会戦を合わせて読むと、収録した経過を整理しやすくなります。
長篠・設楽原のインタラクティブ布陣図では、『日本戦史 長篠役』を中心とする通説と、『信長公記』の記述を軸にした読み方を比較できます。大きな論点は、鉄砲の数や運用を各本文がどう伝えているかです。同じ部隊や出来事でも、両方の記述がすべて一致するわけではありません。
現代地形で確かめられること
『日本戦史』は、長篠城を二つの川が合わさる地点に臨む城として説明し、設楽原を長篠城の西の会戦地として記します。また、設楽原には平坦な部分が少ないと述べています。図で谷と高まりを見たあと、城や各部隊の位置へ戻ると、地名を覚える助けになります。出典:日本戦史 長篠役
表示する標高は現代の産総研のデータです。当時の河道、植生、道、城の姿をそのまま再現してはいません。史料に書かれた地形の説明と、現在の地表面が見せる形を分けてください。起伏があることだけから、騎馬の動きや敗因まで確定することはできません。出典:地形データ
川の名前にも表記の違いがあります。『日本戦史』は設楽原の中央を南へ流れて豊川に入る溝渠を連子川と記し、新城市の馬防柵の説明には連吾川の名が現れます。この図では、流れる位置と向きが合うことから両者を同じ流れの別の表記として扱っていますが、これは本作の判断で、『日本戦史』が連吾川の字を使っているわけではありません。出典:日本戦史 長篠役
馬防柵と、現在の再現展示
『信長公記』は家康と滝川一益の陣取りの前に馬防の柵を設けたと記します。『日本戦史』にも柵の設置が記されます。新城市は、連吾川沿いの馬防柵と、地元の人々による現在の再現を紹介しています。現在見られる柵は、合戦当日の柵がそのまま残っているという意味ではありません。出典:新城市の馬防柵解説
観光案内では三段撃ちという言い方も使われています。現地での見学体験を支える説明と、史料本文にどの運用が記されているかを検討する作業は、区別して読むと理解しやすくなります。再現された柵を見たことだけで、人数や射撃の交替方法まで裏付けられるわけではありません。
鉄砲の数と「三段撃ち」
『日本戦史』は、全軍の銃手から三千人を選び、千挺ずつ交替して発射させたという筋立てを記します。一方、このページが参照した『信長公記』我自刊我本の巻之中には、鉄砲は千挺ばかりとあり、鉄砲隊を三隊に分けて交互に撃たせたという記述はありません。出典:信長公記
ここで比較しているのは、特定の本文同士の違いです。『信長公記』という書名だけで、すべての伝本や版本の文字・数字が同じと扱ってはいません。実際、岡山大学図書館が画像を公開する池田家本『信長記』では、この場面の「千」の右肩に小さく「三」が書き添えられています。誰がいつ書き加えたかは、画像からは分かりません。出典:池田家本 信長記また、ある版に三段撃ちの記述がないことと、当日の射撃運用の全容が判明したことも別です。未確認の研究本文から新しい戦術を補って説明することはしません。
同書が数える一番から五番までの攻撃も、鉄砲隊の交替数と混同しないでください。武田方の攻撃を順に記した部分と、織田方の射撃の編成を記した部分では、数が何を対象としているかが違います。数字だけを抜き出すより、誰が何をした記述かを合わせて読むことが重要です。
包囲と別動隊の経過
長篠城の包囲開始についても、『日本戦史』が五月八日と記すのに対し、新城市の概要は五月一日としています。城の包囲、援軍の移動、設楽原の会戦を一本の年表に整理するときは、どの情報を採ったかを残す必要があります。異なる出典の月日を混ぜて、包囲期間を確定することは避けてください。出典:新城市の合戦概要
『信長公記』には信長方の岡崎・牛久保・野田原・設楽への移動が記され、別動隊が山を回って鳶ヶ巣方面へ向かった経過もあります。『日本戦史』と『信長公記』では、この攻撃の時刻の記し方にも違いがあります。図を読む際は、別動隊の行動を本戦の一場面へ押し込めず、城との位置関係を保って追ってください。
戦闘の終わりも、『日本戦史』は午後三時、『信長公記』は未の刻までの戦いとして記します。こうした記述を現在の分刻みの時計へ変換した表示には幅があると考えてください。最終局面では鳳来寺方面への敗走が語られ、長篠城周辺の兵が退く経過も収録されています。
現地の追悼と、次に読むもの
新城市は、戦死者を弔ったと伝わる信玄塚を紹介しています。こうした場所は、合戦のあとに地域でどのように記憶されてきたかを知る入口です。戦死者数について異なる記述があることと、追悼の場が現在も伝えられていることを、それぞれの情報として読んでください。
新城市設楽原歴史資料館の案内では、古式銃などの展示も紹介されています。現地の展示と史料本文を往復すると、鉄砲の実物への理解と、戦いの記録への理解を分けて深められます。出典:設楽原歴史資料館
関連書籍を読むときは、著者がどの版の史料を使い、どの議論へ答えているかにも注目してください。この布陣図は、異なる本文の記述を並べて考えるための道具です。表示が精細であることより、根拠を辿り直せることを重視しています。
長篠城を囲む十三日
参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、天正3年5月8日に武田勝頼が長篠城を囲んだと記し、新城市は5月1日と説明している。同書は城中の兵を五百余人と記している。城を出て援軍を求めた鳥居勝商が捕らえられ、篠場野で磔にされたと同書は記している。
注この章の出来事は5月8日から20日にかけてのもので、画面の時計は決戦当日の時間軸です
設楽原へ ― 柵と川
織田・徳川勢は5月18日に設楽原の西へ到り、家康と滝川の陣取りの前に馬防のため柵を付けさせたと『信長公記』は記している。新城市は、その柵が設楽原の中央を流れる連吾川沿いに全長2キロメートル・三重で置かれていたと説明している。武田方では兵を収めるべきだという諫めが退けられ、5月20日に勝頼が川を渡ったと参謀本部編『日本戦史 長篠役』は記す。
注(前章と同じ注記)
注この章の出来事は5月8日から20日にかけてのもので、画面の時計は決戦当日の時間軸です
鳶ヶ巣山の火
酒井忠次の別動隊が間道を廻って鳶ヶ巣山の砦を襲い、守将武田信実が力戦して死んだと参謀本部編『日本戦史 長篠役』は記している。同書はこれを5月21日の払暁とし、『信長公記』は辰の刻とする。長篠の方角の喊声と山の煙を見た武田方が危ぶんだと同書は記している。
注鳶ヶ巣山の位置は地形データから選んだ推定表示です
柵の前の五度
『信長公記』我自刊我本版は、武田方の攻撃を一番から五番まで数え、いずれも鉄砲に打ち立てられて引き退いたと記している。参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、山県隊が柵のない処から回り込もうとしたが流れが広く深く両岸が切り立っていて越えられなかったと記し、中央隊も銃火のために撃破されたと記す。
注柵の線と各隊の位置は史料の記述からの推定表示です
崩れと殿
参謀本部編『日本戦史 長篠役』は、佐々成政の言を容れた信長が総攻撃を命じ、武田方が鳳来寺山の方向へ走ったと記している。同書は、馬場信春が勝頼を落としたのち出沢の岡阜に留まって追撃を支え、ついに首を授けたと記し、内藤昌豊も宮脇附近で戦死したと記す。戦いは午前5時頃に始まり午後3時に終わったと同書は記している。
注討死の地点は史料に緯度経度が無く、地名の代表点からの推定表示です
三千人か、千挺か
題の三千人は銃手の数、千挺は鉄砲の数で、数える単位が違う。三段撃ちという理解は、参謀本部編『日本戦史 長篠役』が「其既ニ逼ルニ及ヒ千挺ツヽ代ル々々發セシメヨ」と記す一節に負うところが大きいとされる。同書は全軍の銃手一万から三千人を選抜したと記す。これに対し国立国会図書館デジタルコレクションが公開する『信長公記』我自刊我本版は、この場面の鉄砲を千挺ばかりと記し、鉄砲隊を三隊に分けて交互に撃たせたという記述を含んでいない。二つの読み方を切り替えて比べる。
注鉄砲の数と時刻は説によって異なります(画面の時計は決戦当日の時間軸です)