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戦国・2説併記武田方 対 徳川方

三方ヶ原の戦いの布陣図

  • 元亀3年12月22日
  • 静岡県 浜松市中央区

図1 インタラクティブ3D布陣図

表示中の説: 日本戦史(小豆餅)

既定説の要旨 — 『日本戦史 三方原役』の再構成(参謀本部、1902年) による

明治35年(1902)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 三方原役』の本編と附図に拠る読み方。同書は、北軍(武田)約2万7千人が12月22日に野部を発して天竜川を渡り、大菩薩(欠下)から三方原に上ろうとしたと記し、家康は兵約1万(織田の援兵を含む)を率いて浜松城を出て犀ヶ崖の北方に布陣したと記している。附図第二号は午後三時前後の位置として、小豆餅の南に徳川方の横一線を、その北に武田方の魚鱗の隊形を描いている。同書は午後四時に小山田信茂の礫で戦が始まり、午後六時には家康が退いたと記している。『細江町史 通史編中』は、この読み方を葵町から葵東・初生町にかけての一帯を主戦場とする説として紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にしている。

典拠: [1]日本戦史 三方原役

目次
  1. インタラクティブ3D布陣図
  2. 地形と布陣を読む解説
  3. 静止布陣図と説の比較
  4. 章立て
  5. 採用説の切替
  6. 部隊と兵力
  7. 時系列
  8. 凡例と注記 — この図の読み方
  9. 出典一覧
  10. この合戦をもっと読む — 関連書籍

三方ヶ原の戦いの布陣図 — 台地の地形と決戦地をめぐる二つの読み方

この合戦を一言で

三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日に遠江の三方原で、西へ向かう武田信玄の軍勢と、浜松城を出た徳川家康の軍勢(織田の援軍を含む)が戦ったと記される合戦です。参謀本部編『日本戦史 三方原役』は割注でこの日を陽暦2月4日にあたるとし、国立天文台の暦日データベースはユリウス暦の1573年1月25日と換算しています。同書は家康が諸隊に背進を命じて退いたと記し、同書の補伝に収められた信玄の書状は「見方原」で勝利を得たと記します。

ただし、どこが主戦場だったのかは読み方が分かれます。『細江町史 通史編中』は、戦いが三方原台地を中心に展開されたことはたしかだとしながら、「その主戦場がどの辺りであったものかいまもってさだかではない」と述べています。まず三方ヶ原のインタラクティブ布陣図で台地の広がりを見てから、二つの読み方を切り替えて比べてください。

地形を読む — 三方原台地と犀ヶ崖

『日本戦史』は三方原を、浜松の北にあって東北から西南にわたる高原とし、土は瘠せ水は乏しいと記します。地勢は北から南へ次第に低くなり、犀ヶ崖より南で傾斜が急になるとも書いています。道は、本阪街道(今の姫街道)と、その追分から北へ分かれて祝田・金指を経て井伊谷に出る道の二条が挙げられています。出典:日本戦史 三方原役

浜松城の北西にある犀ヶ崖は、資料ごとに規模の記述が大きく異なります。『日本戦史』は広さ約三十尺・深さ約十八尺とし、浜松市は深さ10メートルを越える浸食谷、静岡県は谷底まで40メートル余りあったことが知られると紹介しています。このページは一つの値を採っていません。出典:浜松市 犀ヶ崖古戦場

画面の立体地形は、産総研のシームレス標高タイルという現代の標高データを表示したものです。元亀3年当時の谷・植生・街道を復元してはいません。台地の高低差や崖の形は舞台を理解する手がかりとして見るにとどめ、勝敗の説明には使わないでください。

布陣 — 三方ヶ原の布陣図は二通りある

既定の表示は『日本戦史』の読み方です。同書は、家康が兵約1万を率いて浜松城を出て、犀ヶ崖の北方に布陣して北軍の通過を待ったと記します。隊次は、右翼を酒井忠次らと織田の援軍(佐久間信盛・平手長政・滝川一益)、左翼を石川数正・小笠原長忠・松平家忠・本多忠勝ら、予備隊を家康とします。武田方は魚鱗の隊形をとり、第一線を小山田信茂・山県昌景・内藤昌豊・小幡信貞ら、第二線を馬場信春・武田勝頼ら、予備隊を信玄としたと記されます。

同書の附図第二号は、備考で午後三時前後の両軍の位置を示すと断っています。このページの座標は、附図の画像を国土地理院の地名検索で得た17地点と現代の標高データの起伏に合わせて位置補正し、隊標の位置を読み取った制作上の補間です。補正した附図の浜松城の記号は、現在の浜松城の天守台の高まりから約40メートルの位置に重なります。史料が緯度経度を示しているわけではなく、元亀3年の隊の位置を測ったものでもありません。

もう一つは『浜松市史 二』の読み方です。同書は、信玄が大菩薩から台地に上がって追分に出て、北方の祝田の坂で休止したとし、根洗の松の道を隔てたすぐ東が信玄の本営址かという、と記します。徳川軍は武田軍の後方につき鶴翼の形をとったとしますが、その位置は示していません。そこで家康本隊は広い推定範囲で置き、ほかの各隊は位置不詳としています。

兵力については、部隊ごとの兵数を示す出典がなく、名札に数値を出していません。全体の数も同じ『日本戦史』の中で、北軍約2万7千、老臣の言う三万超、徳川方は会戦の日の約1万や八千内外などと揃っていません。『浜松市史』は信玄の兵力を不明としつつ、二万・約一万とする伝聞を記しています。

時系列 — 午後四時の礫から、夜の犀ヶ崖まで

『日本戦史』によれば、信玄は12月22日に野部を発し、祝田・刑部から井伊谷を経て三河の東部へ出ようとしました。三方原に上って城兵が左側方にいると知り、行進を停めたと同書は記します。小山田信茂が修路の夫卒に砂礫を乱擲させて佐久間の隊を撃退したのが午後四時とされ、佐久間信盛が走り、平手長政が奮戦して死んだと続きます。やがて信玄が全軍に総攻撃を令し、家康は背進を命じ、夏目正吉が家康を諫めて自ら敵に当たって死んだのが午後六時と記されます。家康は浜松城へ入り、追撃した山県・馬場らは玄黙口で進まずに引き揚げたとされます。夜半には徳川方の少数の銃手が犀ヶ崖附近の武田陣を射撃したとしますが、同書はこれを本戦の余波として併せて載せたと断っています。

開戦の様子は史料で異なります。『信長公記』は、信玄が「水股の者」と名付けた三百人ばかりに礫を打たせたと記し、『細江町史』は小荷駄隊の石なげが口火だったと説明します。『細江町史』は諸書の申の刻(午後4時)を開戦とし、『浜松市史』は日暮れ(午後四時すぎ)に家康が攻撃を始めたと記しています。時刻や仕掛けた側は、どの叙述に拠るかで変わります。

通説と新説 — 三方ヶ原の決戦地は台地の南か北か

『細江町史』は、現在の葵町から葵東・初生町にかけての一帯を主戦場とする説(『日本戦史』)と、根洗町から祝田坂にかけてとする説(『浜松市史』や高柳光寿『三方原之戦』)を併記しています。北端とする見方は、『三河物語』と『浜松御在城記』の浜松から「三里」という記述に拠る解釈と説明され、同書は『甲陽軍鑑』が祝田坂の上辺りで決戦を展開させているとも紹介しています。一方で『日本戦史』自身も凡例で、旧記の異同が多く事実の明確を欠くものが少なくないと断っています。どちらか一方に決めず、根拠の違いとして見比べてください。

合戦に至る武田軍の進路にも議論があります。鴨川達夫は、本多隆成による「西進説」側の批判に応え、遠江の北部に現れた部隊と南部を西進した部隊を分けて考える二元的な整理が必要だとする自説を改めて述べています。浜松市博物館の橋本充悠は講座資料で、進軍ルートについて一次史料をもとにした新説が出されていると紹介しています。平山優『新説 家康と三方原合戦』も刊行されています(このページは書誌のみ確認)。

後世の像との区別も論点です。同じ講座資料は、布陣図は後世に作られたものだと述べ、いわゆる「しかみ像」は原史彦の研究で三方ヶ原の戦いとは関係のない像だと論証されたと紹介しています。浜松市博物館は延宝7年(1679)の「遠州味方ヶ原之図」を、実際の状況より後の時代の見方を示す資料として見た方がよいとしています。小豆餅の地名伝承についても、裏付ける史料は見当たらないとする学芸員の指摘が報じられています。

その後 — 刑部での越年と、犀ヶ崖に残るもの

『日本戦史』は、信玄が23日に首級を検め、24日に営を撤して刑部で新年を迎えたと記しますが、『浜松市史』は刑部へ移った日を23日としています。28日には朝倉義景の使者に答書を託し、三方原の戦捷を報じたとされます。両軍の死者の数について同書は詳らかでないとし、複数の説を併記しています。

浜松市布橋・鹿谷町の犀ヶ崖は、夜の奇襲の舞台として伝わる古戦場です。布製の橋で武田方が崖に落ちたという伝承について、『細江町史』は『浜松御在城記』の小橋の話が拡大されたのだろうと推しています。犀ヶ崖資料館は、三方原の戦いによる死者の霊をまつった宗円堂というお堂を、昭和57年(1982)に資料館として改修したものです。出典:犀ヶ崖資料館 浜松市は、市指定無形民俗文化財の遠州大念仏が三方ヶ原合戦の戦死者を慰めるために始まったとされると紹介しています。出典:浜松市 犀ヶ崖古戦場

もっと知る

ページ末尾の出典一覧で、『日本戦史 三方原役』と『浜松市史 二』を読み比べると、二つの布陣図の違いがどの記述から生まれているかを確かめられます。『細江町史』が北端とする説を打ち出したものに挙げる高柳光寿の著書(『細江町史』は『三方原之戦』と表記。国立国会図書館の書誌では『戦国戦記 [1] 三方原の戦』、春秋社、1958年)も、書誌を載せています。さらに読む本は関連書籍にまとめています。書名の「新説」だけで判断せず、どの史料を扱った本かを確かめながら読んでください。

静止布陣図と説の比較

3Dを表示できない環境向け。3Dが動く環境では畳んで表示します。

図2 静止布陣図(平面)と説の比較を開く/閉じる
三方ヶ原の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。
図2 三方ヶ原の戦い 布陣位置の概略(既定説)。地形の起伏は描いていない

元亀3年12月22日、静岡県浜松市中央区の三方原台地(小豆餅・根洗など)から浜名区細江町祝田にかけて(遠江国敷知郡・引佐郡・長上郡)。明治35年(1902)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 三方原役』の本編と附図に拠る読み方。同書は、北軍(武田)約2万7千人が12月22日に野部を発して天竜川を渡り、大菩薩(欠下)から三方原に上ろうとしたと記し、家康は兵約1万(織田の援兵を含む)を率いて浜松城を出て犀ヶ崖の北方に布陣したと記している。附図第二号は午後三時前後の位置として、小豆餅の南に徳川方の横一線を、その北に武田方の魚鱗の隊形を描いている。同書は午後四時に小山田信茂の礫で戦が始まり、午後六時には家康が退いたと記している。『細江町史 通史編中』は、この読み方を葵町から葵東・初生町にかけての一帯を主戦場とする説として紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にしている。

説の比較

説要旨よりどころ
『日本戦史 三方原役』の再構成(参謀本部、1902年)既定表示
1902年提示
明治35年(1902)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 三方原役』の本編と附図に拠る読み方。同書は、北軍(武田)約2万7千人が12月22日に野部を発して天竜川を渡り、大菩薩(欠下)から三方原に上ろうとしたと記し、家康は兵約1万(織田の援兵を含む)を率いて浜松城を出て犀ヶ崖の北方に布陣したと記している。附図第二号は午後三時前後の位置として、小豆餅の南に徳川方の横一線を、その北に武田方の魚鱗の隊形を描いている。同書は午後四時に小山田信茂の礫で戦が始まり、午後六時には家康が退いたと記している。『細江町史 通史編中』は、この読み方を葵町から葵東・初生町にかけての一帯を主戦場とする説として紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にしている。日本戦史 三方原役
三方原の北端(根洗〜祝田坂)とする読み方(『浜松市史』1971年・『細江町史』2000年)
1971年提示
浜松市役所編『浜松市史 二』(1971年)に拠る読み方。同書は、信玄が神増のあたりで天竜川を渡り、大菩薩から三方原の台地に上がって追分に出て、さらに北方の祝田に向かい祝田の坂で休止したとし、根洗の松の道を隔てたすぐ東のあたりが信玄の本営址かという、と記している。徳川軍は武田軍の後方につき鶴翼の形をとり、日暮れ(午後四時すぎ)に家康が攻撃を始め、戦いは三方原台地の北端で起こったと同書は記している。『細江町史 通史編中』(2000年)は、この見方が『三河物語』と『浜松御在城記』の「三里」の記述に拠るものと説明し、主戦場がどこかはいまもって定かでないとも述べている。この読み方では、信玄本隊と家康本隊のほかの各隊は位置を示さず、兵力も示さない。浜松市史 二/細江町史 通史編中

書籍リンク

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章立て

天竜川から三方原へ

参謀本部編『日本戦史 三方原役』は、12月22日に北軍(武田方)約2万7千人が野部を発し、天竜川を渡って大菩薩(欠下)から三方原に上ろうとしたと記し、その行進序列は詳らかでないとしている。家康は北軍が西に向かって行進を始めたとの諜報に接し、兵約1万(織田の兵を含む)を率いて浜松城を出たと同書は記している。『浜松市史 二』は、信玄が神増のあたりで天竜川を渡り、大菩薩から台地に上がって追分に出て、北方の祝田の坂まで進んだと記している。

注部隊の位置は史料の記述と地名代表点からの推定表示です

午後三時前後の布陣

同書の附図第二号は、午後三時前後の両軍の位置として、小豆餅の南に徳川方の横一線を、その北に武田方の幾重もの隊形を描いている。同書は、信玄が浜松城兵が左側方に出ていると知って行進を停め、上原能登守の偵察を受けて開戦を決し、全軍に魚鱗の隊形をとらせたと記している。家康方では鳥居信元と渡辺守綱が戦わないのがよいと報じたが、家康は聴かなかったと同書は記している。『浜松市史 二』は、信玄が祝田の坂で魚鱗にして待ち受け、家康が武田軍の後方について鶴翼に開いたと記している。

注部隊の位置は説ごとの推定範囲で示しています

礫から始まる戦い

同書は、午後四時に小山田信茂が修路の夫卒に砂礫を乱擲させて佐久間信盛の隊を動揺させ、これを撃退したと記している。山県昌景は山家三方の兵を先頭に南軍の左翼へ進んだが、山家三方の兵がまず潰え、山県隊も三四町退いたと同書は記している。『信長公記』は、信玄が「水股(みつまた)の者」と名付けた三百人ばかりに礫を打たせてから人数をかからせたと記している。『浜松市史 二』は日暮れ(午後四時すぎ)に家康が攻撃を始めたとし、『三河物語』の石を投げかける場面を紹介している。

注開戦は午後四時と同書は記す

両翼の攻防と総攻撃

同書は、佐久間信盛がまず走り、滝川一益も潰え、平手長政が奮戦して死んだと記している。酒井忠次は小山田隊を三町ばかり撃退したが、馬場信春が代わって戦い、山県隊が退くと武田勝頼が側方から南軍の左翼を撃ったと同書は記している。石川数正は部兵を下馬させて迎え撃ったが、信玄が米倉重継に側撃を命じて全軍に総攻撃を令したと同書は記している。『浜松市史 二』は、信玄の旗本が集団となって逆襲してきたという『三河物語』の記述を紹介している。

注両翼の動きは同書の記述からの推定表示です

浜松城への退却

同書は、家康が諸隊に背進を命じ、本多忠真・鳥居信元・成瀬正義らが戦死し、夏目正吉が家康の馬首を南に向けさせて自ら敵に当たって死んだとし、時はすでに午後六時であったと記している。山県・馬場らは浜松城の玄黙口まで追撃したが、門が開き篝火が昼のようであるのを見て躊躇し、名栗に放火して去ったと同書は記している。『浜松市史 二』は平手汎秀が東伊場で戦死したとし、『信長公記』は家康が待ち受ける敵を馬上から弓で射倒して駆け抜けたと記している。

注退却と追撃の経路は推定表示です

犀ヶ崖の夜

同書は、この夜信玄が全軍を犀ヶ崖附近に集めて篝火を多くし、夜半に天野康景・大久保忠世らが銃手十六人と卒約百人で敵陣の後方から射撃すると、北軍が驚いて犀ヶ崖に陥り死ぬ者が数十人あったと記している。同書はこの夜の出来事を本戦の余波として会戦の章に併せて載せたと断っている。布製の橋で武田勢を欺いたという話は浜松市が伝承として紹介しており、『細江町史 通史編中』は、崖に架けた小橋を渡り終えたところで壊したという『浜松御在城記』の話が拡大されていったのだろうと推している。

注布橋の話は後世の伝承として扱っています

決戦地はどこか

『細江町史 通史編中』は、主戦場がどのあたりかはいまもって定かでないとし、葵町から葵東・初生町にかけての一帯とする説と、根洗町から祝田坂にかけての辺りとする説を紹介している。同書は、前者は『日本戦史 三方原役』がとりあげているもので、後者は『浜松市史』や高柳光寿『三方原之戦』が打ち出しているとし、後者は『三河物語』と『浜松御在城記』の「三里」の記述に拠る解釈だと説明している。浜松市博物館の講座資料は、布陣図は後世に作られたもので、戦いの中身を歴史的事実として確定するのは困難であると述べている。

注決戦地の比定は定まっていません

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

『日本戦史 三方原役』の再構成(参謀本部、1902年)既定表示

要旨(冒頭の「既定説の要旨」と同文)

明治35年(1902)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 三方原役』の本編と附図に拠る読み方。同書は、北軍(武田)約2万7千人が12月22日に野部を発して天竜川を渡り、大菩薩(欠下)から三方原に上ろうとしたと記し、家康は兵約1万(織田の援兵を含む)を率いて浜松城を出て犀ヶ崖の北方に布陣したと記している。附図第二号は午後三時前後の位置として、小豆餅の南に徳川方の横一線を、その北に武田方の魚鱗の隊形を描いている。同書は午後四時に小山田信茂の礫で戦が始まり、午後六時には家康が退いたと記している。『細江町史 通史編中』は、この読み方を葵町から葵東・初生町にかけての一帯を主戦場とする説として紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にしている。

よりどころ
[1]日本戦史 三方原役
提示
1902年
注記(この説の扱い)

編纂から120年以上を経た二次史料であり、同書自身が凡例で旧記の異同が多く事実の明確を欠くものが少なくないと断り、附図の兵数の符標は推算であると備考に記している。断定ではなく「同書によれば」という枠で紹介する。部隊の座標は附図を読み取った制作上の補間であり、附図そのものは転載していない。部隊ごとの兵数は同書の本編に無いため、この読み方でも兵力不詳とする。

三方原の北端(根洗〜祝田坂)とする読み方(『浜松市史』1971年・『細江町史』2000年)

浜松市役所編『浜松市史 二』(1971年)に拠る読み方。同書は、信玄が神増のあたりで天竜川を渡り、大菩薩から三方原の台地に上がって追分に出て、さらに北方の祝田に向かい祝田の坂で休止したとし、根洗の松の道を隔てたすぐ東のあたりが信玄の本営址かという、と記している。徳川軍は武田軍の後方につき鶴翼の形をとり、日暮れ(午後四時すぎ)に家康が攻撃を始め、戦いは三方原台地の北端で起こったと同書は記している。『細江町史 通史編中』(2000年)は、この見方が『三河物語』と『浜松御在城記』の「三里」の記述に拠るものと説明し、主戦場がどこかはいまもって定かでないとも述べている。この読み方では、信玄本隊と家康本隊のほかの各隊は位置を示さず、兵力も示さない。

よりどころ
[3]浜松市史 二 / [4]細江町史 通史編中
提示
1971年
注記(この説の扱い)

自治体史の記述であり、両書とも主戦場の比定を確定したものとしては書いていない(「かという」「定かではない」)。『細江町史 通史編中』はこの見方を打ち出したものとして『浜松市史』とともに高柳光寿『三方原之戦』(1958年)を挙げるが、本データは高柳の本文を読んでいないため読み方の根拠には置かない。家康本隊の位置は両書に記述がなく、本データの推定範囲である。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。各行は表示中の説(日本戦史(小豆餅))の値で、 他の説の値は行内に畳んでいます(切替は採用説の切替から)。凡例:史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

時系列

時刻の記載がない出来事は時刻欄を空け、史料の記す前後関係の順に並べています。章を開くと出来事と説明が読めます。

  1. 第一章天竜川から三方原へ出来事 11 件
    1. 〔12月19日夜〕二俣城が開城し、城兵が浜松へ退く

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役(以下 4 件も同じ)

    2. 〔前日21日〕信玄、翌日に野部を撤して祝田・刑部へ向かう準備を命じる
    3. 〔前日21日夜〕浜松の斥候、信玄が明日野部を去ると報じる
    4. 〔前日21日夜〕家康、諸将と戦守を議して出戦に決する
    5. 武田勢、野部を発して天竜川を渡る
    6. 神増のあたりで天竜川を渡り、秋葉街道を南へ有玉に向かう

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    7. 武田勢、大菩薩(欠下)から三方原に上ろうとする

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    8. 信玄、大菩薩から三方原の台地に上がり追分に出る

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二(以下 1 件も同じ)

    9. 信玄、北方の祝田に向かい祝田の坂で休止する
    10. 家康、兵約1万を率いて浜松城を出て、犀ヶ崖の北方に布陣する

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    11. 家康、武田軍の後方につき鶴翼に開く

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    この章の出来事の説明(11 件)
    〔12月19日夜〕二俣城が開城し、城兵が浜松へ退く
    二俣城は本データの地形範囲の外にあり、3D上に置いていない。この出来事は22日の3日前の夜のことで、t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔前日21日〕信玄、翌日に野部を撤して祝田・刑部へ向かう準備を命じる
    野部は本データの地形範囲の外にある。この出来事は前日21日のことで、t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔前日21日夜〕浜松の斥候、信玄が明日野部を去ると報じる
    この出来事は前日21日の夜のことで、t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔前日21日夜〕家康、諸将と戦守を議して出戦に決する
    同書は老臣らが敵は三万を超え味方は八千内外と諫めたと記す(c_str_roshin)。この出来事は前日21日の夜のことで、t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    武田勢、野部を発して天竜川を渡る
    同書は北軍約2万7千人が野部を発したと記すが、時刻は記していない。野部と天竜川の渡河点は本データの地形範囲の外にある。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    神増のあたりで天竜川を渡り、秋葉街道を南へ有玉に向かう
    『浜松市史 二』は時刻を記していない。神増は本データの地形範囲の外にある。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    武田勢、大菩薩(欠下)から三方原に上ろうとする
    同書は行進序列は詳らかでないとし、時刻を記していない。t_min は附図が示す午後三時前後より前に置いた順序の値である。
    信玄、大菩薩から三方原の台地に上がり追分に出る
    『浜松市史 二』は時刻を記していない。t_min は開戦(午後四時すぎ)より前に置いた順序の値である。この読み方では信玄本隊を祝田の坂の上の推定範囲に置いており、台地に上がるまでの経路は3D上で描かない。
    信玄、北方の祝田に向かい祝田の坂で休止する
    同書は根洗の松の道を隔てたすぐ東が信玄の本営址かという、と記す(c_hs_honei)。時刻は記されていない。
    家康、兵約1万を率いて浜松城を出て、犀ヶ崖の北方に布陣する
    同書は時刻を記していない。附図は午後三時前後にこの布陣が済んでいた姿を描く。
    家康、武田軍の後方につき鶴翼に開く
    『浜松市史 二』は徳川軍の位置と時刻を記していない。家康本隊は推定範囲(c_pos_hs_ieyasu)に置いてあり、浜松城からの出撃の経路は3D上で描かない。
  2. 第二章午後三時前後の布陣出来事 6 件午後三時前後(附図)
    1. 午後三時前後(附図)附図が描く午後三時前後の両軍の位置

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役(以下 2 件も同じ)

    2. 信玄、左側方の浜松城兵を知り行進を停める
    3. 上原能登守の偵察を受け、信玄が開戦を決して魚鱗の隊形をとらせる
    4. 信玄の軍、魚鱗にして家康軍の攻撃を待ち受ける

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    5. 鳥居信元・渡辺守綱、戦わないのがよいと報じるが家康は聴かない

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役(以下 1 件も同じ)

    6. 柴田康忠・大久保忠佐、若干の兵を率いて北へ馳せる
    この章の出来事の説明(6 件)
    附図が描く午後三時前後の両軍の位置
    附図第二号の備考は、図が午後三時前後の南北両軍の位置を示すと記す。部隊の座標はこの附図の読み取り(c_pos_sanbo_map)による。
    信玄、左側方の浜松城兵を知り行進を停める
    同書は、信玄が二三の部将に要撃を拒がせて本軍は祝田・刑部へ行進を続けようとしたと記す。同書は時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    上原能登守の偵察を受け、信玄が開戦を決して魚鱗の隊形をとらせる
    同書は時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    信玄の軍、魚鱗にして家康軍の攻撃を待ち受ける
    『浜松市史 二』はこの待ち受けの時刻を記していない。t_min は開戦(午後四時すぎ)より前に置いた順序の値である。
    鳥居信元・渡辺守綱、戦わないのがよいと報じるが家康は聴かない
    同書は時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    柴田康忠・大久保忠佐、若干の兵を率いて北へ馳せる
    同書は時刻を記していない。t_min は前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
  3. 第三章礫から始まる戦い出来事 6 件午後四時〜日暮れ(午後四時すぎ)
    1. 午後四時小山田隊、修路の夫卒に砂礫を乱擲させ佐久間隊を撃退する

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役(以下 1 件も同じ)

    2. 山県昌景ら、山家三方の兵を先頭に徳川勢の左翼へ進む
    3. 日暮れ(午後四時すぎ)家康、ついに攻撃を始める(三方原台地の北端)

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二(以下 1 件も同じ)

    4. 武田軍が石を投げかけ、家康軍が切ってかかり一の手・二の手を切り崩す(『三河物語』による)
    5. 佐久間信盛がまず走り、滝川一益も潰え、平手長政が奮戦して死ぬ

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役(以下 1 件も同じ)

    6. 山家三方の兵が潰え、山県隊も三四町退く
    この章の出来事の説明(6 件)
    小山田隊、修路の夫卒に砂礫を乱擲させ佐久間隊を撃退する
    同書は時刻を午後四時と記す。『信長公記』は信玄が「水股の者」三百人ばかりに礫を打たせたと記す(c_nobu_mizumata)。移動先は附図と本文からの推定である。
    山県昌景ら、山家三方の兵を先頭に徳川勢の左翼へ進む
    同書は小笠原長忠・本多忠勝および青木広次・中根正照らが迎撃したと記す。移動先は本文からの推定である。
    家康、ついに攻撃を始める(三方原台地の北端)
    『浜松市史 二』は日暮れ(午後四時すぎ)と記す。移動先の座標は推定である。
    武田軍が石を投げかけ、家康軍が切ってかかり一の手・二の手を切り崩す(『三河物語』による)
    『浜松市史 二』が紹介する『三河物語』の記述による。『細江町史 通史編中』も戦いが武田方の小荷駄隊の石なげで始まったとする(c_hosoe_ishinage)。
    佐久間信盛がまず走り、滝川一益も潰え、平手長政が奮戦して死ぬ
    敗走の行き先は同書に記されておらず、南への移動は表示のための推定である。
    山家三方の兵が潰え、山県隊も三四町退く
    三四町はおよそ330〜440メートルにあたる。退いた方向は同書に記されておらず、北への移動は表示のための推定である。
  4. 第四章両翼の攻防と総攻撃出来事 5 件
    1. 酒井忠次が小山田隊を三町ばかり撃退し、馬場信春が代わって戦う

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役(以下 1 件も同じ)

    2. 武田勝頼が側方から徳川勢の左翼を撃ち、青木広次・中根正照が戦死する
    3. 信玄の旗本が集団となって逆襲する

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    4. 山県隊・小山田隊が再び進み、両翼の戦がたけなわになる

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役(以下 1 件も同じ)

    5. 信玄、米倉重継に側撃を命じ、全軍に総攻撃を令する
    この章の出来事の説明(5 件)
    酒井忠次が小山田隊を三町ばかり撃退し、馬場信春が代わって戦う
    三町はおよそ330メートルにあたる。移動先は本文からの推定である。
    武田勝頼が側方から徳川勢の左翼を撃ち、青木広次・中根正照が戦死する
    同書は石川数正が部兵を下馬させ膝姿で迎え撃ったと記す。勝頼隊の進路は本文からの推定である。
    信玄の旗本が集団となって逆襲する
    『浜松市史 二』が紹介する『三河物語』の記述による。時刻は記されておらず、移動先の座標は推定である。
    山県隊・小山田隊が再び進み、両翼の戦がたけなわになる
    移動先は本文からの推定である。
    信玄、米倉重継に側撃を命じ、全軍に総攻撃を令する
    予備隊(信玄本隊)の前進は本文からの推定である。
  5. 第五章浜松城への退却出来事 8 件午後六時
    1. 家康、諸隊に背進を命じる(本多忠真・鳥居信元・成瀬正義らが戦死)

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    2. 家康、浜松城へ退く(成瀬正義・本多忠真・夏目正吉らが戦死)

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    3. 武田勢の追撃がいよいよ急になる

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    4. 平手汎秀、今切へ向かう途中の稲葉(東伊場)で戦死する

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    5. 午後六時夏目正吉、家康の馬首を南に向けさせ自ら敵に当たって死ぬ

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役(以下 1 件も同じ)

    6. 山県・馬場、玄黙口の開いた門と篝火を見て躊躇する
    7. 家康、城門を開いておかせ、武田軍の先鋒は城門まで来て引き揚げる

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    8. 元忠・守綱らが突出し、武田勢は名栗に放火して去る

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    この章の出来事の説明(8 件)
    家康、諸隊に背進を命じる(本多忠真・鳥居信元・成瀬正義らが戦死)
    浜松城までの経路(同書の割注は犀ヶ崖・名栗を経たとする)と各隊の行き先は推定である。
    家康、浜松城へ退く(成瀬正義・本多忠真・夏目正吉らが戦死)
    『浜松市史 二』は退却の時刻と経路を記していない。浜松城への移動は表示のための推定である。
    武田勢の追撃がいよいよ急になる
    同書は山県・馬場らが玄黙口まで追撃したと記す。ほかの隊の追撃の位置は推定である。
    平手汎秀、今切へ向かう途中の稲葉(東伊場)で戦死する
    『浜松市史 二』は時刻を記していない。この読み方では平手隊の位置は不詳で、3D上に置いていない。東伊場は地名の表示として示す。
    夏目正吉、家康の馬首を南に向けさせ自ら敵に当たって死ぬ
    同書は時刻を午後六時と記す。
    山県・馬場、玄黙口の開いた門と篝火を見て躊躇する
    同書は家康が鳥居元忠に城門を閉ざさせなかったと記す。時刻は記されていない。
    家康、城門を開いておかせ、武田軍の先鋒は城門まで来て引き揚げる
    『浜松市史 二』は時刻を記していない。
    元忠・守綱らが突出し、武田勢は名栗に放火して去る
    名栗(今の名残)の位置は本データでは座標化していない。引き揚げ先は推定である。
  6. 第六章犀ヶ崖の夜出来事 4 件夜
    1. 夜信玄、全軍を犀ヶ崖附近に集め篝火を多くして奇襲に備える

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    2. 信玄、犀ヶ崖の北方に陣する

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    3. 夜半天野康景・大久保忠世らが銃手十六人と卒約百人で射撃し、武田勢の数十人が犀ヶ崖に陥る

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    4. 夜家康、犀ヶ崖の武田陣を夜襲させる(効果は大きくなかったと同書はみる)

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    この章の出来事の説明(4 件)
    信玄、全軍を犀ヶ崖附近に集め篝火を多くして奇襲に備える
    同書は「是夜」と記す。各隊の宿営の位置は推定である。
    信玄、犀ヶ崖の北方に陣する
    『浜松市史 二』は時刻を記していない。移動の所要時間と宿営の座標は推定である。
    天野康景・大久保忠世らが銃手十六人と卒約百人で射撃し、武田勢の数十人が犀ヶ崖に陥る
    同書は夜半と記し、穴山信君の隊が城兵を撃って退けたと記す。この夜の出来事を同書は本戦の余波として会戦の章に併せて載せている(c_ev_sanbo_yoha)。布製の橋の話は後世の伝承として扱い、ここには置かない(c_hosoe_nunohashi)。
    家康、犀ヶ崖の武田陣を夜襲させる(効果は大きくなかったと同書はみる)
    『浜松市史 二』は夜襲の時刻を記していない。
  7. 第七章決戦地はどこか出来事 4 件
    1. 〔23日〕信玄、三方原の営で首級を検め、高坂昌宣の諫めを容れる

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    2. 〔23日〕信玄、台地を下り刑部に着いて越年する

      北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [3]浜松市史 二

    3. 〔24日〕信玄、営を撤して西へ去り刑部に次し越年する

      日本戦史(小豆餅)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    4. 〔28日〕朝倉義景の使者が刑部に来て、信玄が答書で戦捷を報じる

      日本戦史(小豆餅)・北端説(浜松市史)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 三方原役

    この章の出来事の説明(4 件)
    〔23日〕信玄、三方原の営で首級を検め、高坂昌宣の諫めを容れる
    この出来事は翌23日のことで、t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔23日〕信玄、台地を下り刑部に着いて越年する
    『日本戦史 三方原役』は刑部へ移ったのを24日とする(c_osakabe_date_gap)。刑部は本データの地形範囲の西端付近にあたるが座標化していない。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。
    〔24日〕信玄、営を撤して西へ去り刑部に次し越年する
    補伝所収の『甲陽軍鑑』も24日とする(c_hoden_koyo_osakabe)。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。
    〔28日〕朝倉義景の使者が刑部に来て、信玄が答書で戦捷を報じる
    『浜松市史 二』も、信玄が28日に朝倉義景の使僧に会って返事を託したと記す(c_hs_osakabe)。『日本戦史 三方原役』の補伝が収める12月28日付の信玄書状は、去る22日に見方原で一戦を遂げて勝利し、参遠両国の凶徒と岐阜の加勢衆千余人を討ち捕ったと記す(c_hoden_shingen_letter)。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。

凡例と注記 — この図の読み方

読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

本文中の典拠番号 [n] は、下の「出典一覧」の同じ番号の文献を指します。 3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、切替をしない限り既定説の配置を表示します。

陣営
  • 武田方武田方(武田信玄の軍勢)
  • 徳川方徳川方(徳川家康の軍勢と織田の援軍)
日付・場所・地形データ・利用条件・データ出典(この図の注記)
日付について

元亀3年12月22日(グレゴリオ暦 1573-02-04)

グレゴリオ暦の1573-02-04は、参謀本部編『日本戦史 三方原役』がコマ14(第二篇第四章、20頁)の割注に「陽暦二月四日」と記す日付と一致する(全文テキストはこの割注を「腸瞻二」と誤読している。2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が原本画像で確認)。ユリウス暦の1573-01-25は、国立天文台 暦計算室の日本の暦日データベースによる換算で、同書の記載ではない(c_date_naoj)。和暦の元亀3年の大部分は西暦1572年にあたるため、年単位で「元亀三年(1572)」と併記されることがある(c_date_year)。

場所

静岡県 浜松市中央区の三方原台地(小豆餅・根洗など)から浜名区細江町祝田にかけて(遠江国敷知郡・引佐郡・長上郡)

地形

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

現代地形を使用しています(当時の谷・河道・池・植生・街道は異なる場合があります)

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

利用条件

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

タイルセットの詳細

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。2026-09-11の国土地理院回答により、本プロジェクトが照会した統合DEMの複製保存・動画掲載・Web表示について測量法の手続きは不要と確認した。回答の適用範囲と産総研側の利用条件は docs/external_evidence/gsi_reply_20260911.md を参照する。

データ

布陣・兵力・時系列: 参謀本部編『日本戦史 三方原役』(1902、附図第二号を含む) / 北端決戦の読み方: 浜松市役所編『浜松市史 二』(1971)・細江町史編さん委員会編『細江町史 通史編中』(2000)(浜松市文化遺産デジタルアーカイブ、CC BY 4.0) / 同時代の記述: 太田牛一『信長公記』巻之上 巻五(我自刊我本) / 伝承と史料批判: 浜松市博物館・浜松市・静岡県 / 進軍経路の研究: 鴨川達夫(2015) / 暦: 国立天文台 暦計算室 / 座標: 国土地理院 地名検索API・標高API

布陣・兵力・時系列には諸説があります。本作は『日本戦史 三方原役』(1902)の附図が描く小豆餅付近の配置と、『浜松市史』(1971)・『細江町史』(2000)が紹介する三方原の北端(根洗〜祝田坂)とする読み方を切り替えて表示しています。部隊ごとの兵力はどの出典も示さないため兵力不詳とし、位置が確定できない部隊は推定範囲または位置不詳として扱っています。後世の布陣図・伝承(しかみ像・小豆餅・布橋など)は合戦の記録として扱っていません。地形データの出典表記は knowledge/battles/mikatagahara/terrain/terrain.json の credit_ja に揃えています。

出典一覧

出典一覧(全 17 件)を開く本文の典拠番号 [n] はこの一覧の番号です
  1. 参謀本部 編 『日本戦史 三方原役』

    元真社/1902年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 771076)は IIIF manifest が「日本戦史.三方原役 [本編] 附表,附図」/著者 参謀本部 編/出版者 元真社/出版年 明35(1902)/書誌ID 000000430552/請求記号 77-30/DOI 10.11501/771076/利用制限 PDM/全148コマ と示す。コマ2に凡例(明治三十四年十二月、参謀本部第四部)、コマ4〜19に本編(第一篇 戦役前ノ形勢・第二篇 作戦・第三篇 戦後ノ動静)、コマ20〜113に補伝(百九件)、コマ114〜124に附図(第一号 四家領地図・第二号 三方原戦図〔コマ122〜124〕)、コマ126〜143に附表(両軍将士姓名表)を収める。

    明治35年に旧陸軍参謀本部が編纂した戦史。本文は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/771076)で取得したOCRテキストで機械的に照合し(knowledge/battles/mikatagahara/fulltext/ndl_fulltext_771076.txt に同梱)、2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が引用・数値・時刻・附図の備考を原本画像(IIIF)と照合した(記録は knowledge/battles/mikatagahara/source_review_2026-09-24.md)。引用文(quote_ja)は全文テキストのままなので、OCRの誤読(例: 原本の「北軍約二萬七千人」が「北北約二萬七千人」、割注「陽暦二月四日」が「腸瞻二」)と判読不能字(〓)を含む。凡例は、この役は旧記の異同が多く事実の明確を欠くものが少なくないため、会戦の章と戦図の隊数・部将を簡単にしたと断っている。附図は転載していない。

  2. 太田牛一 著 『信長公記 巻之上(我自刊我本)』

    甫喜山景雄/1881年 / 古文書/ 一次史料 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 781192)は IIIF manifest が「信長公記.巻之上」/著者 太田牛一/出版者 甫喜山景雄/出版年 明14(1881)/シリーズ 我自刊我本/書誌ID 000000435795/請求記号 128-97/DOI 10.11501/781192/利用制限 PDM/全51コマ と示す。コマ5の目録に「巻之五(元亀三年壬申)……(四)味方ヶ原合戦之事」とあり、三方ヶ原の記事はコマ38(巻五の末尾)にある。巻之中(pid 781193)には巻之八以降が収められ、三方ヶ原の記事は含まれない。

    太田牛一による織田信長の一代記を明治14年に翻刻したもの。本文は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/781192)で取得したOCRテキストで機械的に照合し(knowledge/battles/mikatagahara/fulltext/ndl_fulltext_781192.txt に同梱)、2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)がコマ5・37・38の原本画像と照合した。この版のOCRは崩れが大きく、略体の「候」が「い」、変体仮名の「に」が「よ」、「御」が「冷」「後」「作」「浄」などに読まれている。原本はコマ38で「水股之者」に「みつまた」と振り仮名を付けている。現代の校訂本とは照合していない。

  3. 浜松市役所 編 『浜松市史 二』

    浜松市役所/1971年 / 自治体資料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ(ADEAC)の本文テキスト。第二章 近世初頭の浜松と徳川家康 第六節 三方原合戦(原本25〜33頁)。「両軍の兵力」ht000510、「信玄の進路」ht000520、「信玄の進軍」ht000590、「家康の出撃」ht000600、「信玄の作戦」ht000610、「家康の敗走」ht000620、「平手汎秀の戦死」ht000630、「犀ケ崖の夜戦」ht000640、「信玄刑部に越年する」ht000650(https://adeac.jp/hamamatsu-city/texthtml/d100020/mp010020-100020/<ID>)。

    昭和46年(1971)3月刊の市史。ADEAC の目録は権利関係・利用条件を「CC BY(表示)」、クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 と示している。2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が本文テキストを取得して読んだ。同書は三方原の戦について『大日本史料』第十編之十一と高柳光寿『三方原之戦』などの参照を挙げている(本データはどちらの本文も確認していない)。

  4. 細江町史編さん委員会 編 『細江町史 通史編中』

    細江町/2000年 / 自治体資料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ(ADEAC)の画像ビューア(hosoe2)。第3編第4章「三方原の戦いとその舞台」第1節 7「武田勢3万・徳川勢1万」(191頁)、8「申の刻に合戦の火ぶた」・9「給食を担当した小荷駄隊」(192頁)、10「討死した徳川の武将たち」・11「軍が動いた祝田坂」(194頁)、12「決戦場祝田坂」(195〜196頁)、第5章第1節 1「犀ヶ崖の夜襲作戦」(208頁)、2「布橋伝説発生の起因」(210頁)、3「『遠江古蹟図絵』の「犀ヶ崖」」(211頁)、5「『三方原戦記』から」・6「武田軍の撤収ルート」(215頁)。

    平成12年(2000)3月刊の町史(細江町は現在の浜松市浜名区細江町)。ADEAC の目録は権利関係・利用条件を「CC BY(表示)」、クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 と示している。本文テキストは公開されていないため、2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が画像(ビューアのページ番号 209〜215・226〜233)を読んだ。図版(布陣図・絵図・写真)は転載していない。

  5. 浜松市博物館 『特別展「三方ヶ原の戦いと家康伝承」』

    2022年 / 博物館/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    開催趣旨の3段落(会期 令和4年10月22日〜12月4日、ページ更新日 2023年10月17日)。

    浜松市博物館の特別展の案内ページ。2026-09-14 に Codex が調査稿で参照し、2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が本文を取得して読み直した。展示資料の画像は転載していない。

  6. 橋本充悠(浜松市博物館) 『家康伝承と浜松(はまはく講座 資料)』

    2023年 / 博物館/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    はまはく講座 2023年9月9日の配布資料(PDF 全4頁)。1節(1頁)、3節(1〜2頁)、5節 浜松八幡宮(3頁)、6節「徳川家康三方ヶ原戦役画像」について(3頁)、7節(3〜4頁)。

    2026-09-14 に Codex が調査稿で参照し、2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)がPDFの本文(全4頁)を読み直した。講座資料中の史料写真は転載していない。資料が紹介する原史彦の論文(『金鯱叢書』第43輯、2016年)の本文は本データでは確認していない。

  7. 浜松市博物館 『浜松市博物館情報(はまはく情報)359号』

    2023年 / 博物館/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2023年12月15日発行、PDF 2頁「【博物館所蔵資料の紹介】「遠州味方ヶ原之図」」。

    2026-09-14 に Codex が調査稿で2頁の画像を確認し、2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)がPDFの本文テキストを読み直した。紹介されている布陣図の画像は転載していない。

  8. 鴨川達夫 『武田信玄の「西上作戦」を研究する』

    東京大学史料編纂所/2015年 / 論文/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    『東京大学史料編纂所研究紀要』第25号(2015年3月)1〜9頁。第一節「懇望」という言葉(1〜4頁)、第二節 軍隊の行動と禁制の発給(4〜6頁)、第三節「西上作戦」を演出する偽文書たち(6〜8頁)、注(8〜9頁)。

    2026-09-14 に Codex が1・4・8頁の画像を確認し、2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)がPDF全9頁の本文を読んだ。論考が批判の相手として挙げる本多隆成「武田信玄の遠江侵攻経路」(『武田氏研究』49号、2013年)の本文は本データでは確認しておらず、本多の見解は鴨川論考の紹介の範囲でだけ扱う。注1は西上作戦を「元亀三年(一五七〇)冬」と記すが、元亀3年は1572年にあたり、論考の本文の議論には影響しない。

  9. 浜松市(市民部文化財課) 『犀ヶ崖古戦場』

    2024年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    浜松市の指定文化財ページ(浜松市中央区鹿谷町・布橋一丁目、ページ更新日 2024年8月23日)。

    2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が本文を取得して読んだ。同ページは県指定史跡の指定日を昭和14年12月19日とするが、静岡県の「しずおか文化財ナビ」は指定日を1952年4月1日と記しており、両者は一致しない(本データはどちらも採らない)。

  10. 静岡県(スポーツ・文化観光部文化財課) 『しずおか文化財ナビ 犀ヶ崖古戦場』

    2024年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    文化財の説明(静岡県教育委員会 1997『静岡県文化財ガイドブック 中世以降の史跡』より)。ページID 1021506、更新日 2024年1月5日。

    2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が本文を取得して読んだ。

  11. 浜松市(中央区まちづくり推進課) 『犀ヶ崖資料館』

    2025年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    施設紹介の本文と利用案内(所在地 浜松市中央区鹿谷町25-10、ページ更新日 2025年9月9日)。

    2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が本文を取得して読んだ。

  12. 中日新聞しずおかWeb 『<家康特集>「小豆餅」「銭取」 あいまいな伝承あちこち』

    中日新聞社/2022年 / ウェブ/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2022年1月1日 05時00分掲載(2022静岡新年号)。本文の第1〜3段落。

    新聞記事。2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が記事の本文を取得して読んだ。記事は浜松市博物館の学芸員の発言を伝えるもので、発言者本人の文章ではない。記事が触れる御手洗清『遠州伝説集』(1968年)の本文は確認していない。

  13. 国立天文台 暦計算室 『日本の暦日データベース』

    2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「和暦から西暦へ変換」で年号=元亀、3年12月21日〜24日を照会。既定(1582年10月15日より前はユリウス暦)では12月22日=1573/01/25、日の干支は甲戌。暦の設定を「すべてグレゴリオ暦」にすると12月22日=1573/02/04。

    2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が照会した。データベースは参考文献に内田正男『日本暦日原典』(1975)などを挙げている。

  14. 『国土地理院 地名検索API(住所・地名検索)と標高API』

    国土地理院/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    地名検索APIの問い合わせ語と返り値(経度, 緯度): 「小豆餅」→ 静岡県浜松市中央区小豆餅 137.724457, 34.753941/「浜松市中央区初生町」→ 137.727509, 34.764103/「浜松市中央区葵東」→ 137.71965, 34.75436/「浜松市中央区有玉西町」→ 137.738083, 34.755665/「三方原」→ 注記「三方原」137.71810353775, 34.7905190952554/「浜松市中央区三方原町」→ 137.711975, 34.781647/「根洗」→ 注記「根洗ノ松」137.696189238611, 34.7984348583333/「浜松市中央区根洗町」→ 137.704224, 34.79678/「祝田」→ 注記「祝田」137.6885444, 34.80943889/「浜松城」→ 注記「浜松城公園」137.7251402, 34.71373573/「浜松市中央区鹿谷町25-10」→ 静岡県浜松市中央区鹿谷町25番10号 137.718399, 34.719395/「浜松市中央区東伊場」→ 137.713501, 34.700596。標高API(https://cyberjapandata2.gsi.go.jp/general/dem/scripts/getelevation.php)の返り値は presentation.json の landmarks[].note_ja に記す。 附図第二号の幾何補正(c_pos_sanbo_map、2026-09-25)に用いた問い合わせ語と返り値(経度, 緯度): 「浜松市中央区早出町」137.749298, 34.733162/「浜松市中央区中田町」137.757339, 34.736706/「浜松市中央区上新屋町」137.753845, 34.729855/「浜松市中央区丸塚町」137.760132, 34.727978/「浜松市中央区十軒町」137.745529, 34.730904/「浜松市中央区細島町」137.749985, 34.722733/「浜松市中央区上西町」137.758957, 34.723351/「浜松市中央区西塚町」137.757141, 34.71962/「浜松市中央区神立町」137.751587, 34.715519/「浜松市中央区将監町」137.755798, 34.715042/「浜松市中央区佐藤」137.744385, 34.712879/「浜松市中央区植松町」137.757187, 34.711094/「浜松市中央区助信町」137.735687, 34.722408/「浜松市中央区八幡町」137.735886, 34.715309/「浜松市中央区中沢町」137.728867, 34.721622/「浜松市中央区鹿谷町25-10」137.718399, 34.719395/「浜松市中央区元城町100-2」→ 静岡県浜松市中央区元城町100番地 137.72496, 34.712608。

    2026-09-24 のバッチで Claude(AI照合、D-015)が照会した。座標化にのみ用いた。返り値は住所・注記の代表点であって陣所や遺構の中心点ではない。「犀ヶ崖」「欠下」「大菩薩」「追分」は地名検索APIから浜松の該当点を得られなかった。

  15. 『産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM』

    産業技術総合研究所 地質調査総合センター/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    統合DEM(sourceID=mixed)zoom14。日本陸域 zoom10〜15 の実体は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B。取得範囲 bbox 137.665,34.695,137.760,34.820(knowledge/battles/mikatagahara/terrain/terrain.json)。

    地形グリッドの取得元(2026-09-25 取得)。適用される利用条件は国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル)で、CC BY 4.0 ではない(DECISIONS D-008)。公開可否の記録は terrain.json の publication_clearance(D-013)。附図第二号の幾何補正で、附図のケバ・等高線と照らし合わせる地形の起伏にも用いた(c_pos_sanbo_map、2026-09-25)。現代の地形であり、元亀3年当時の地形の復元ではない。

  16. 高柳光寿 『戦国戦記 [1] 三方原の戦』

    春秋社/1958年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    NDLサーチの書誌(書誌ID 000000871553、請求記号 210.48-Ta451s、239p、国立国会図書館デジタルコレクション info:ndljp/pid/2973957 は個人送信サービスの対象)。

    書名・著者・出版者・刊行年を NDLサーチの書誌で確認した。本文は入手していない(個人送信サービスは本データの作業では利用していない)。『細江町史 通史編中』と『浜松市史 二』はこの本を『三方原之戦』の名で挙げている。

  17. 平山優 『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』

    NHK出版/2022年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    NHK出版新書。2022年11月刊。ISBN 9784140886885。knowledge/books/mikatagahara.json の選書(D-014)と同じ本。

    書誌は knowledge/books/mikatagahara.json(楽天ブックスAPI・NDLサーチ)で確認した。本文は入手していない。

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布陣図の元になった史料・研究にあたるための本です。書影と書誌は楽天ブックス・openBD・国立国会図書館サーチから取得しています。

  • 『新説 家康と三方原合戦』書影

    新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く

    平山優/NHK出版/2022-11/ISBN 9784140886885

    平山優が三方原合戦を取り上げる新書。出版社提供の書誌・内容紹介を確認し、戦いの経過と後世の語りを調べる入口として選定した。本書の本文を本データの根拠にしたものではない。

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