明治35年(1902)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 三方原役』の本編と附図に拠る読み方。同書は、北軍(武田)約2万7千人が12月22日に野部を発して天竜川を渡り、大菩薩(欠下)から三方原に上ろうとしたと記し、家康は兵約1万(織田の援兵を含む)を率いて浜松城を出て犀ヶ崖の北方に布陣したと記している。附図第二号は午後三時前後の位置として、小豆餅の南に徳川方の横一線を、その北に武田方の魚鱗の隊形を描いている。同書は午後四時に小山田信茂の礫で戦が始まり、午後六時には家康が退いたと記している。『細江町史 通史編中』は、この読み方を葵町から葵東・初生町にかけての一帯を主戦場とする説として紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にしている。
三方ヶ原の戦いの布陣図 — 台地の地形と決戦地をめぐる二つの読み方
この合戦を一言で
三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日に遠江の三方原で、西へ向かう武田信玄の軍勢と、浜松城を出た徳川家康の軍勢(織田の援軍を含む)が戦ったと記される合戦です。参謀本部編『日本戦史 三方原役』は割注でこの日を陽暦2月4日にあたるとし、国立天文台の暦日データベースはユリウス暦の1573年1月25日と換算しています。同書は家康が諸隊に背進を命じて退いたと記し、同書の補伝に収められた信玄の書状は「見方原」で勝利を得たと記します。
ただし、どこが主戦場だったのかは読み方が分かれます。『細江町史 通史編中』は、戦いが三方原台地を中心に展開されたことはたしかだとしながら、「その主戦場がどの辺りであったものかいまもってさだかではない」と述べています。まず三方ヶ原のインタラクティブ布陣図で台地の広がりを見てから、二つの読み方を切り替えて比べてください。
地形を読む — 三方原台地と犀ヶ崖
『日本戦史』は三方原を、浜松の北にあって東北から西南にわたる高原とし、土は瘠せ水は乏しいと記します。地勢は北から南へ次第に低くなり、犀ヶ崖より南で傾斜が急になるとも書いています。道は、本阪街道(今の姫街道)と、その追分から北へ分かれて祝田・金指を経て井伊谷に出る道の二条が挙げられています。出典:日本戦史 三方原役
浜松城の北西にある犀ヶ崖は、資料ごとに規模の記述が大きく異なります。『日本戦史』は広さ約三十尺・深さ約十八尺とし、浜松市は深さ10メートルを越える浸食谷、静岡県は谷底まで40メートル余りあったことが知られると紹介しています。このページは一つの値を採っていません。出典:浜松市 犀ヶ崖古戦場
画面の立体地形は、産総研のシームレス標高タイルという現代の標高データを表示したものです。元亀3年当時の谷・植生・街道を復元してはいません。台地の高低差や崖の形は舞台を理解する手がかりとして見るにとどめ、勝敗の説明には使わないでください。
布陣 — 三方ヶ原の布陣図は二通りある
既定の表示は『日本戦史』の読み方です。同書は、家康が兵約1万を率いて浜松城を出て、犀ヶ崖の北方に布陣して北軍の通過を待ったと記します。隊次は、右翼を酒井忠次らと織田の援軍(佐久間信盛・平手長政・滝川一益)、左翼を石川数正・小笠原長忠・松平家忠・本多忠勝ら、予備隊を家康とします。武田方は魚鱗の隊形をとり、第一線を小山田信茂・山県昌景・内藤昌豊・小幡信貞ら、第二線を馬場信春・武田勝頼ら、予備隊を信玄としたと記されます。
同書の附図第二号は、備考で午後三時前後の両軍の位置を示すと断っています。このページの座標は、附図の画像を国土地理院の地名検索で得た17地点と現代の標高データの起伏に合わせて位置補正し、隊標の位置を読み取った制作上の補間です。補正した附図の浜松城の記号は、現在の浜松城の天守台の高まりから約40メートルの位置に重なります。史料が緯度経度を示しているわけではなく、元亀3年の隊の位置を測ったものでもありません。
もう一つは『浜松市史 二』の読み方です。同書は、信玄が大菩薩から台地に上がって追分に出て、北方の祝田の坂で休止したとし、根洗の松の道を隔てたすぐ東が信玄の本営址かという、と記します。徳川軍は武田軍の後方につき鶴翼の形をとったとしますが、その位置は示していません。そこで家康本隊は広い推定範囲で置き、ほかの各隊は位置不詳としています。
兵力については、部隊ごとの兵数を示す出典がなく、名札に数値を出していません。全体の数も同じ『日本戦史』の中で、北軍約2万7千、老臣の言う三万超、徳川方は会戦の日の約1万や八千内外などと揃っていません。『浜松市史』は信玄の兵力を不明としつつ、二万・約一万とする伝聞を記しています。
時系列 — 午後四時の礫から、夜の犀ヶ崖まで
『日本戦史』によれば、信玄は12月22日に野部を発し、祝田・刑部から井伊谷を経て三河の東部へ出ようとしました。三方原に上って城兵が左側方にいると知り、行進を停めたと同書は記します。小山田信茂が修路の夫卒に砂礫を乱擲させて佐久間の隊を撃退したのが午後四時とされ、佐久間信盛が走り、平手長政が奮戦して死んだと続きます。やがて信玄が全軍に総攻撃を令し、家康は背進を命じ、夏目正吉が家康を諫めて自ら敵に当たって死んだのが午後六時と記されます。家康は浜松城へ入り、追撃した山県・馬場らは玄黙口で進まずに引き揚げたとされます。夜半には徳川方の少数の銃手が犀ヶ崖附近の武田陣を射撃したとしますが、同書はこれを本戦の余波として併せて載せたと断っています。
開戦の様子は史料で異なります。『信長公記』は、信玄が「水股の者」と名付けた三百人ばかりに礫を打たせたと記し、『細江町史』は小荷駄隊の石なげが口火だったと説明します。『細江町史』は諸書の申の刻(午後4時)を開戦とし、『浜松市史』は日暮れ(午後四時すぎ)に家康が攻撃を始めたと記しています。時刻や仕掛けた側は、どの叙述に拠るかで変わります。
通説と新説 — 三方ヶ原の決戦地は台地の南か北か
『細江町史』は、現在の葵町から葵東・初生町にかけての一帯を主戦場とする説(『日本戦史』)と、根洗町から祝田坂にかけてとする説(『浜松市史』や高柳光寿『三方原之戦』)を併記しています。北端とする見方は、『三河物語』と『浜松御在城記』の浜松から「三里」という記述に拠る解釈と説明され、同書は『甲陽軍鑑』が祝田坂の上辺りで決戦を展開させているとも紹介しています。一方で『日本戦史』自身も凡例で、旧記の異同が多く事実の明確を欠くものが少なくないと断っています。どちらか一方に決めず、根拠の違いとして見比べてください。
合戦に至る武田軍の進路にも議論があります。鴨川達夫は、本多隆成による「西進説」側の批判に応え、遠江の北部に現れた部隊と南部を西進した部隊を分けて考える二元的な整理が必要だとする自説を改めて述べています。浜松市博物館の橋本充悠は講座資料で、進軍ルートについて一次史料をもとにした新説が出されていると紹介しています。平山優『新説 家康と三方原合戦』も刊行されています(このページは書誌のみ確認)。
後世の像との区別も論点です。同じ講座資料は、布陣図は後世に作られたものだと述べ、いわゆる「しかみ像」は原史彦の研究で三方ヶ原の戦いとは関係のない像だと論証されたと紹介しています。浜松市博物館は延宝7年(1679)の「遠州味方ヶ原之図」を、実際の状況より後の時代の見方を示す資料として見た方がよいとしています。小豆餅の地名伝承についても、裏付ける史料は見当たらないとする学芸員の指摘が報じられています。
その後 — 刑部での越年と、犀ヶ崖に残るもの
『日本戦史』は、信玄が23日に首級を検め、24日に営を撤して刑部で新年を迎えたと記しますが、『浜松市史』は刑部へ移った日を23日としています。28日には朝倉義景の使者に答書を託し、三方原の戦捷を報じたとされます。両軍の死者の数について同書は詳らかでないとし、複数の説を併記しています。
浜松市布橋・鹿谷町の犀ヶ崖は、夜の奇襲の舞台として伝わる古戦場です。布製の橋で武田方が崖に落ちたという伝承について、『細江町史』は『浜松御在城記』の小橋の話が拡大されたのだろうと推しています。犀ヶ崖資料館は、三方原の戦いによる死者の霊をまつった宗円堂というお堂を、昭和57年(1982)に資料館として改修したものです。出典:犀ヶ崖資料館 浜松市は、市指定無形民俗文化財の遠州大念仏が三方ヶ原合戦の戦死者を慰めるために始まったとされると紹介しています。出典:浜松市 犀ヶ崖古戦場
もっと知る
ページ末尾の出典一覧で、『日本戦史 三方原役』と『浜松市史 二』を読み比べると、二つの布陣図の違いがどの記述から生まれているかを確かめられます。『細江町史』が北端とする説を打ち出したものに挙げる高柳光寿の著書(『細江町史』は『三方原之戦』と表記。国立国会図書館の書誌では『戦国戦記 [1] 三方原の戦』、春秋社、1958年)も、書誌を載せています。さらに読む本は関連書籍にまとめています。書名の「新説」だけで判断せず、どの史料を扱った本かを確かめながら読んでください。