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安土桃山・2説併記徳川・織田方 対 羽柴方

小牧・長久手の戦いの布陣図

  • 天正12年4月9日
  • 愛知県 長久手市

図1 インタラクティブ3D布陣図

表示中の説: 日本戦史(勝入の献策)

既定説の要旨 — 『日本戦史 小牧役』の読み方(参謀本部、1908年) による

明治41年(1908)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 小牧役』の本編・附図・附表に拠る読み方。同書は、岡崎を奪う策を聞いた池田勝入(恒興)が4月4日夜に秀吉に献じ、5日朝にも断行を促したので、秀吉がこれを容れて三好秀次と森長可を付けた支隊を編成させ、軍監として堀秀政を加え、軽挙妄進を戒めたと記している。同書は支隊を第一隊 池田勝入 兵6,000・第二隊 森長可 兵3,000・第三隊 堀秀政 兵3,000・第四隊 三好秀次 兵8,000とし、追う東軍を本隊(徳川家康 兵6,300・北畠信雄 兵3,000)と支隊(水野忠重ら 兵4,500)に分けて記している。本データはこの読み方を既定の表示にしており、名札の兵数は同書の部署表と長久手の配置表の値である。

典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編 / [2]日本戦史 小牧役 附図・附表

目次
  1. インタラクティブ3D布陣図
  2. 地形と布陣を読む解説
  3. 静止布陣図と説の比較
  4. 章立て
  5. 採用説の切替
  6. 部隊と兵力
  7. 時系列
  8. 凡例と注記 — この図の読み方
  9. 出典一覧
  10. この合戦をもっと読む — 関連書籍

小牧・長久手の戦いの布陣図 — 長久手の地形と岡崎進軍の新説

この合戦を一言で

小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)に羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の陣営が争った戦役です。参謀本部編『日本戦史 小牧役』は、信雄が家康を頼って秀吉に抗した役と位置づけ、その長久手の一戦を徳川の覇業の淵源と評しています。戦役全体の長さは、長久手市の計画(案)が約8か月間、藤田達生の論文(2009)が約九か月間と書いています。このページはそのうち天正12年4月9日、新暦では5月18日にあたるとされる一日の戦闘を扱います。

先に小牧・長久手のインタラクティブ布陣図で、白山林・岩崎城・檜ヶ根・長久手の位置関係を確かめてください。一日のうちに戦闘の場所がいくつも移っていくことが、この合戦の布陣図を読む入口です。

長久手の地形を読む

『日本戦史』の地名箋は、長久手・檜ヶ根・佛ヶ根・前山・富士ヶ根・岐阜嶽などを尾張愛知郡長湫村の内とし、備考で「根」はおおむね丘を、「狹間」は狭い地を指すと説明しています。地名の多くが丘と谷の呼び名であることは、図を見るときの手がかりになります。出典:日本戦史 小牧役

このサイトの立体地形は、産総研地質調査総合センターのシームレス標高タイルという現代の標高データを表示しています。天正12年当時の地形・河道・池・植生・街道を復元したものではありません。現在は住宅地や道路が広がる地域でもあり、画面の起伏は舞台の見取り図として使ってください。高低差や流路の見え方から、どちらが勝ったかを説明することはしていません。

部隊の緯度経度は、国土地理院の地名検索で得た代表点などをもとに置いた制作上の補間で、史料が座標を示しているわけではありません。小牧山や楽田のように表示範囲の外にある場所との往来は、範囲の縁に置いた代理の位置で示しています。

布陣 — 白山林から長久手へ

『日本戦史』は、岡崎方面へ向かった別働隊(同書の西軍支隊)の部署を、第一隊 池田勝入 兵6,000、第二隊 森長可 兵3,000、第三隊 堀秀政 兵3,000、第四隊 三好秀次 兵8,000としています。追った家康方は、本隊を徳川家康 兵6,300・北畠(織田)信雄 兵3,000、支隊を水野忠重ら 兵4,500と記します。支隊は大須賀康高・榊原康政・水野忠重の三隊に分かれ、丹羽氏次が道案内を務めたとされます。

長久手の対陣について、同書は東軍の右翼を前山の徳川の兵3,300、左翼を佛ヶ根の東北端の井伊直政以下3,000、予備を切通附近の北畠の兵3,000とします。西軍は、右翼を田ノ尻の東南高地の池田兄弟(之助・輝政)4,000、左翼を岐阜嶽の森長可3,000、予備を顱狹間の池田勝入2,000としています。現在の場所については、長久手市の計画(案)が桧ケ根を坊の後(中央図書館付近)、仏ケ根を武蔵塚の北部、前山を城屋敷の東部とし、観光交流協会の『長久手合戦ガイド』が富士ヶ根を御旗山、前山を血の池公園辺りとしています。出典:史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

図の「近年の研究」の読み方に切り替えると、名札の兵数は不詳の表示になります。この読み方の根拠とした計画(案)と藤田の論文は、隊ごとの兵数を示していません。計画(案)は別働隊を約24,000人、家康方を先発隊4,500人・本隊9,300人とし、人数には諸説あると注記しています。

時系列 — 夜明けから夜半まで

同書は、別働隊が8日の夜に三縦隊に分かれて庄内川を渡ったと記します。9日未明、先頭の池田勝入は岩崎城の丹羽氏重らに行く手を遮られて城を囲ませ、城は午前6時頃に落ちたとされます。守兵や討死の数は資料ごとに違い、同書の本編は239人で守ったとし、補伝が引く『丹羽家譜』はおよそ300人が力を合わせたとし、日進市の案内は300余名が討ち死にしたと伝えられると紹介しています。

同じころ、第四隊の三好秀次の隊は白山林で夜明けに食事をとっていたところを、小幡城から出た家康方の支隊に襲われて崩れたと同書は書いています。同書はこの日の日出を、白山林の項で午前4時35分、長久手の項で午前4時25分としており、一冊の中にも10分の違いがあります。

続いて堀秀政が午前7時過ぎに檜ヶ根に陣地を占め、追ってきた大須賀・榊原の二隊を破ったと記されます。家康は8時過ぎに富士ヶ根へ上って前山・佛ヶ根を部兵に占めさせ、岩作附近まで来た秀政はその金扇の馬標を見て退いたとされます。引き返した池田勢は9時頃に佛ヶ根の東南の高地に配備し、家康は10時頃に前山へ移って開戦させたと同書は記します。正午頃に森長可が討たれ、池田勝入と子の之助もその後に顱狹間で死に、追撃は午後1時に止められたとされます。森長可を撃った者は、補伝の中でも杉山孫六とする書と、柏原与兵衛とする書が並んでいます。

楽田にいた秀吉は正午頃に白山林の敗報を受け、午後1時頃に兵2万を率いて出発し、午後5時頃に竜泉寺山へ上ったと同書は記します。その前に家康は小幡城へ入っており、午後8時に城を発って小牧山へ戻ったとされます。秀吉も夜半に上條の砦へ退き、10日に楽田へ還ったとされます。附表の備考は、時刻の詳らかでないものを他から推算したと断っています。図の時計はこの推算を含む時刻を使っています。

通説と新説 — 岡崎を突く作戦は誰の計画か

『日本戦史』は、岡崎城を奪う策を聞いた池田勝入が4月4日夜に秀吉へ献じ、秀吉が請いを容れて支隊を編成させ、軽挙妄進しないよう深く戒めたと記します。同書は、羽黒の戦いで森長可を援けなかったことを悔いる勝入の心情も説明に加えています。一方で、策を秀吉に告げた人物と日付は、同書自身が割注で未詳としています。

長久手市の計画(案)は、史記類をもとにした通説では恒興の発案に秀吉が押されて承諾したとされるが、近年の研究で、事前の普請・行軍の規模・ゆっくりとした移動日程などから、計画的で大がかりな作戦だったことがわかってきた、と紹介しています。同計画(案)は、秀吉がこの案に主体的に介入していたと思われるとし、作戦の失敗が秀吉の汚点となって『太閤記』が仕方なく受け入れたと記した、という見方も示しています。藤田の論文は、長久手の戦いが、家康を誘き出そうと秀吉が仕掛けた陽動作戦に端を発していると岩澤愿彦が指摘していることを紹介しています。

二つの読み方は、部隊の位置そのものを動かす説ではありません。図の切り替えで変わるのは名札の兵数と、作戦の発案をどう説明するかです。編纂物である同書の叙述と、近年の研究の評価のどちらが正しいかについて、このページは結論を出していません。

その後 — 講和と、いま残る史跡

同書は、11月に秀吉が信雄と媾和の交渉を再開し、11日に両者が矢田河原で会見したと記します。藤田の論文は、講和が11月13日に矢田川原で成立し、信雄は北伊勢四郡を失ったとし、羽柴・徳川間の軍事的緊張は天正14年10月の上洛まで続いたとしています。日付の書き方も資料ごとに異なります。

長久手市の計画(案)は、長久手古戦場と御旗山・首塚・色金山が昭和14年に国の史跡に指定されたとしています。色金山歴史公園は、家康軍が山頂の巨石を床机がわりに軍議を開いたといわれる山として紹介されています。日進市の岩崎城址公園、名古屋市守山区の小幡城跡も、今の地図で場所を確かめる手がかりです。ただし、現地の案内や石標の位置が、合戦当日の陣所をそのまま示すとは限りません。

もっと知る

さらに読む本は関連書籍にまとめています。平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年)は、この戦いを主題に刊行された研究書です。本データはその本文を照合しておらず、内容の要約は載せていません。

本文で触れた『日本戦史 小牧役』の本編と附図・附表、長久手市の計画(案)、藤田の論文、自治体の案内は、ページ末尾の出典一覧で個別に確かめられます。まず藤田達生の論文と計画(案)を読み比べると、同じ一日をめぐる評価の違いが見えてきます。

静止布陣図と説の比較

3Dを表示できない環境向け。3Dが動く環境では畳んで表示します。

図2 静止布陣図(平面)と説の比較を開く/閉じる
小牧・長久手の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。
図2 小牧・長久手の戦い 布陣位置の概略(既定説)。地形の起伏は描いていない

天正12年4月9日、愛知県長久手市(長久手古戦場・色金山・御旗山)を中心に、尾張旭市(白山林)・日進市(岩崎城)・名古屋市守山区(小幡城・竜泉寺)・名東区(猪子石)にかけて(同書の地名箋は明治の郡名で尾張愛知郡・東春日井郡とする)。明治41年(1908)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 小牧役』の本編・附図・附表に拠る読み方。同書は、岡崎を奪う策を聞いた池田勝入(恒興)が4月4日夜に秀吉に献じ、5日朝にも断行を促したので、秀吉がこれを容れて三好秀次と森長可を付けた支隊を編成させ、軍監として堀秀政を加え、軽挙妄進を戒めたと記している。同書は支隊を第一隊 池田勝入 兵6,000・第二隊 森長可 兵3,000・第三隊 堀秀政 兵3,000・第四隊 三好秀次 兵8,000とし、追う東軍を本隊(徳川家康 兵6,300・北畠信雄 兵3,000)と支隊(水野忠重ら 兵4,500)に分けて記している。本データはこの読み方を既定の表示にしており、名札の兵数は同書の部署表と長久手の配置表の値である。

説の比較

説要旨よりどころ
『日本戦史 小牧役』の読み方(参謀本部、1908年)既定表示
1908年提示
明治41年(1908)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 小牧役』の本編・附図・附表に拠る読み方。同書は、岡崎を奪う策を聞いた池田勝入(恒興)が4月4日夜に秀吉に献じ、5日朝にも断行を促したので、秀吉がこれを容れて三好秀次と森長可を付けた支隊を編成させ、軍監として堀秀政を加え、軽挙妄進を戒めたと記している。同書は支隊を第一隊 池田勝入 兵6,000・第二隊 森長可 兵3,000・第三隊 堀秀政 兵3,000・第四隊 三好秀次 兵8,000とし、追う東軍を本隊(徳川家康 兵6,300・北畠信雄 兵3,000)と支隊(水野忠重ら 兵4,500)に分けて記している。本データはこの読み方を既定の表示にしており、名札の兵数は同書の部署表と長久手の配置表の値である。日本戦史 小牧役 本編/日本戦史 小牧役 附図・附表
計画的な作戦とみる近年の研究の読み方(長久手市の計画(案)2018・藤田達生2009)
2018年提示
長久手市『史跡長久手古戦場保存活用計画(案)』(2018)は、史記類をもとにした通説では岡崎への進軍は池田恒興の発案で秀吉が押されて承諾したとされるが、近年の研究で、事前の普請・行軍の規模・ゆっくりとした移動日程などから、この作戦は計画的で大がかりなものであったことがわかってきたと紹介し、秀吉がこの案に主体的に介入していたと思われるとしている。同計画(案)は別働隊を約24,000人、追った家康方を先発隊4,500人・本隊9,300人とし、人数には諸説あると注記するが、隊ごとの兵数は示さない。藤田達生(2009)は、長久手の戦いが秀吉の仕掛けた陽動作戦に端を発していることを岩澤愿彦が指摘していると紹介し、この戦争を信雄と秀吉の天下争奪戦と論じている。この読み方では部隊ごとの兵数を不詳として扱う。史跡長久手古戦場保存活用計画(案)/小牧・長久手の戦いと羽柴政権

書籍リンク

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章立て

小幡城への夜の追躡

参謀本部編『日本戦史 小牧役』は、4月8日の夜に水野忠重らの支隊が午後7時頃、家康の本隊が午後8時に小牧山を発し、支隊は10時、本隊は夜半12時頃に小幡城に入ったと記している。同じ夜、上條附近に宿営していた西軍支隊は午後10時頃に宿営を撤して三縦隊で庄内川を渡り、9日の未明には第一・第二隊が生牛原に、第三隊が金萩原に、第四隊が白山林に至ったと同書は記している。長久手市の計画(案)は、この岡崎への進軍を秀吉が主体的に関わった計画的な作戦とみる近年の研究を紹介している。

注範囲の外の小牧山・楽田・上條は画面の縁の代理の位置で示しています

岩崎城と白山林

同書は、9日午前4時頃、城下を通る西軍を岩崎城の丹羽氏重が撃って出て遮り、馬を撃たれた池田勝入が前衛に城を囲ませて、6時頃に城を落としたと記している。同じ頃、東軍の支隊は白山林で食事をとっていた三好秀次の隊を右側と背後から襲い、秀次の隊は崩れて細ヶ根へ退いたと同書は記している。長久手市の計画(案)も、白山林で朝食をとっていた三好信吉の隊を徳川軍の先発隊が背後から急襲したとしている。

注部隊の位置は史料の記述と地名代表点からの推定表示です

檜ヶ根と富士ヶ根の金扇

同書は、後方の銃声を聞いて引き返した堀秀政が檜ヶ根に陣を占め、敵を十間以内に引きつけてから撃てと命じて、先を争って迫った大須賀康高・榊原康政の隊を破ったと記している。追撃して岩作附近に至った秀政は、富士ヶ根に家康の金扇の馬標を見て大いに驚き、岩作の北部に退いたと同書は記している。長久手市の計画(案)は、この桧ケ根の戦いに「秀吉軍 唯一の勝ち戦」という副題を付けている。

注(前章と同じ注記)

注部隊の位置は史料の記述と地名代表点からの推定表示です

長久手の対陣

同書は、引き返した西軍の第二隊(森長可)が岐阜嶽に陣を置き、第一隊(池田)が佛ヶ根の東南の高地に配備して、佛ヶ根池と烏ヶ狹間を隔てて東軍に対したと記している。家康は10時頃に切通附近から前山に移ったと同書は記している。同書の配置表は、東軍を前山の家康3,300・佛ヶ根の井伊直政3,000・切通附近の北畠3,000、西軍を田ノ尻の東南高地の池田兄弟4,000・岐阜嶽の森長可3,000・顱狹間の池田勝入2,000としている。

注(前章と同じ注記)

注部隊の位置は史料の記述と地名代表点からの推定表示です

長久手の決戦

同書は、家康が決戦の機が熟したとみて隊を二分し、右の一部隊を率いて森長可の隊と狭隘で衝突し、正午頃に長可を斃したと記している。西軍の予備隊も支えきれず、池田勝入は陣地を固守して死に、子の之助も殉じ、輝政は退いたと同書は記している。同書は午後1時に東軍が追撃を矢田川で止めたとし、この日の死者を西軍2,500余人・東軍590余人と記している。長久手市の計画(案)は、長可が井伊隊の銃弾を頭に受けて戦死し、戦闘の終焉は午後1時であったとしている。

注(前章と同じ注記)

注部隊の位置は史料の記述と地名代表点からの推定表示です

秀吉の赴援と両軍の引き揚げ

同書は、正午頃に白山林の敗報を聞いた秀吉が午後1時頃に兵2万を率いて楽田を発し、午後5時頃に竜泉寺山に上ったと記している。家康はすでに午後4時頃に小幡に入っており、秀吉は日没が近いとして攻城を翌朝に延ばしたが、家康は午後8時に信雄とともに小幡城を出て小牧山に還り、東軍が去ったと知った秀吉も夜半に上條の砦に退いたと同書は記している。小牧山から西軍に尾行した本多忠勝らの兵を、同書は約600人と記している。

注(前章と同じ注記)

注部隊の位置は史料の記述と地名代表点からの推定表示です

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

『日本戦史 小牧役』の読み方(参謀本部、1908年)既定表示

要旨(冒頭の「既定説の要旨」と同文)

明治41年(1908)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 小牧役』の本編・附図・附表に拠る読み方。同書は、岡崎を奪う策を聞いた池田勝入(恒興)が4月4日夜に秀吉に献じ、5日朝にも断行を促したので、秀吉がこれを容れて三好秀次と森長可を付けた支隊を編成させ、軍監として堀秀政を加え、軽挙妄進を戒めたと記している。同書は支隊を第一隊 池田勝入 兵6,000・第二隊 森長可 兵3,000・第三隊 堀秀政 兵3,000・第四隊 三好秀次 兵8,000とし、追う東軍を本隊(徳川家康 兵6,300・北畠信雄 兵3,000)と支隊(水野忠重ら 兵4,500)に分けて記している。本データはこの読み方を既定の表示にしており、名札の兵数は同書の部署表と長久手の配置表の値である。

よりどころ
[1]日本戦史 小牧役 本編 / [2]日本戦史 小牧役 附図・附表
提示
1908年
注記(この説の扱い)

編纂から110年以上を経た二次史料であり、同書は附表の時刻について、詳らかでないものは推算したと自ら断っている(c_table_bikou)。兵数も同書の数であり、部隊ごとの兵数を記した同時代の文書を本データでは確認していない。断定ではなく「同書によれば」という枠で紹介する。長久手市の計画(案)はこの作戦の起こりを「史記類をもとにした通説」として紹介している。

計画的な作戦とみる近年の研究の読み方(長久手市の計画(案)2018・藤田達生2009)

長久手市『史跡長久手古戦場保存活用計画(案)』(2018)は、史記類をもとにした通説では岡崎への進軍は池田恒興の発案で秀吉が押されて承諾したとされるが、近年の研究で、事前の普請・行軍の規模・ゆっくりとした移動日程などから、この作戦は計画的で大がかりなものであったことがわかってきたと紹介し、秀吉がこの案に主体的に介入していたと思われるとしている。同計画(案)は別働隊を約24,000人、追った家康方を先発隊4,500人・本隊9,300人とし、人数には諸説あると注記するが、隊ごとの兵数は示さない。藤田達生(2009)は、長久手の戦いが秀吉の仕掛けた陽動作戦に端を発していることを岩澤愿彦が指摘していると紹介し、この戦争を信雄と秀吉の天下争奪戦と論じている。この読み方では部隊ごとの兵数を不詳として扱う。

よりどころ
[3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案) / [5]小牧・長久手の戦いと羽柴政権
提示
2018年
注記(この説の扱い)

長久手市の計画(案)は近年の研究の結論を紹介しているが、どの研究者のどの論文かを示していない。本データは市の紹介を特定の研究者の学説として言い換えない。藤田(2009)による岩澤愿彦の指摘の紹介は、岩澤論文そのものを読んだ記録ではない。どちらも布陣の座標を変える説ではないため、部隊の位置と3D上の動きは両方の読み方で同じにしてあり(位置と時刻は『日本戦史』の記述と地名の比定に拠る)、この読み方で違うのは作戦の性格の説明・兵力の扱い・計画(案)の時刻の紹介である。現存研究者の見解は敬意ある中立的な表現で紹介する。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。各行は表示中の説(日本戦史(勝入の献策))の値で、 他の説の値は行内に畳んでいます(切替は採用説の切替から)。凡例:史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

時系列

時刻の記載がない出来事は時刻欄を空け、史料の記す前後関係の順に並べています。章を開くと出来事と説明が読めます。

  1. 第一章小幡城への夜の追躡出来事 31 件午後七時頃〜未明
    1. 〔4月4〜5日〕秀吉が岩崎山〜二重堀の間に塁を築かせ、楽田に本営を移す

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編

    2. 〔4月4日夜〜5日朝〕池田勝入が岡崎を奪う策を秀吉に請う(『日本戦史』)

      日本戦史(勝入の献策)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 1 件も同じ)

    3. 〔4月5日〕秀吉が勝入の請いを容れて支隊を編成させ、軽挙妄進を戒める(『日本戦史』)
    4. 〔長久手市の計画(案)〕岡崎への進軍を、秀吉が主体的に関わった計画的な作戦とみる近年の研究を紹介

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    5. 〔4月6日夜半〕西軍支隊(四隊)が楽田附近からひそかに前進を始める

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編

    6. 〔4月6日夜半・長久手市の計画(案)〕別働隊が①池田父子・森、②堀・長谷川、③三好信吉の順に岡崎へ向かう

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    7. 〔4月7日〕西軍支隊が物狂坂を越え、篠木・柏井地方に至って上條村に砦を築き宿営する

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 8 件も同じ)

    8. 〔4月7日〕篠木の民が小牧の家康の本営に西軍の来着を告げる
    9. 〔4月8日早朝〕石黒善九郎の注進と斥候の復命を受け、家康が追躡を決める
    10. 〔4月8日朝〕西軍支隊が、翌日長久手・藤島附近を経て三河へ前進する令を伝える
    11. 午後七時頃東軍支隊(水野忠重ら)が丹羽氏次を嚮導に小牧山を発す
    12. 午後八時家康が井伊直政を前衛に小牧山を発す(信雄も同行)
    13. 午後十時東軍支隊が庄内川を徒渉して川村を過ぎ、小幡城に入る
    14. 午後十時頃西軍支隊が宿営を撤し、三縦隊に分かれて庄内川へ向かう
    15. 小幡城の本多広孝が斥候を出し、支隊の諸将が敵の後尾を襲うことに決める
    16. 午後十一時(附表)西軍第一隊(池田)が大留から庄内川を渡る

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [2]日本戦史 小牧役 附図・附表(以下 1 件も同じ)

    17. 午後十一時(附表)家康の本隊が勝川の竜源寺で小憩し、庄内川を渡って小幡城へ向かう
    18. 夜半十二時頃家康の本隊が牛牧を経て小幡城に入る

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編

    19. 夜半十二時(附表)西軍第二隊が大留から、第三隊が野田から、第四隊が松河戸から庄内川を渡る

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [2]日本戦史 小牧役 附図・附表

    20. 家康が支隊の提議を許し、自らは敵の先頭部隊に向かうと決める

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 11 件も同じ)

    21. 西軍第四隊が川村を経て竜泉寺の南方を通り、印場へ向かう
    22. 西軍第一隊が茶磨ヶ根から印場・新居両村の間へ進む
    23. 西軍第四隊が矢田川を渡って白山林に至り、しばらく駐止する
    24. 午前二時頃東軍支隊がひそかに小幡を発し、右翼・予備は猪子石原へ、左翼は稲葉へ向かう
    25. 西軍第一・第二・第三隊が矢田川を越え、熊張の西へ進む
    26. 午前二時過家康が信雄とともに小幡城を発し、大森・印場へ向かう
    27. 家康の本隊が印場を経る
    28. 未明西軍支隊が未明に各地に至り、第一隊は藤島方向へ、第三隊は金萩原へ進む
    29. 家康の本隊が稲葉附近で矢田川を渡る
    30. 西軍第二隊(森長可)が生牛原に至って食事をとる
    31. 第一隊の前衛が岩崎城の城下を通り過ぎようとする
    この章の出来事の説明(29 件)
    〔4月4〜5日〕秀吉が岩崎山〜二重堀の間に塁を築かせ、楽田に本営を移す
    小牧山・楽田・二重堀は本データの地形範囲の外にあり、3D上に置いていない。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔4月4日夜〜5日朝〕池田勝入が岡崎を奪う策を秀吉に請う(『日本戦史』)
    『日本戦史 小牧役』の読み方。策を秀吉に告げた人物と日付を同書は「未詳」とする。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔4月5日〕秀吉が勝入の請いを容れて支隊を編成させ、軽挙妄進を戒める(『日本戦史』)
    同日、勝入の請いで堀秀政が軍監に加えられたと同書は記す(c_plan_hori)。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔長久手市の計画(案)〕岡崎への進軍を、秀吉が主体的に関わった計画的な作戦とみる近年の研究を紹介
    近年の研究の読み方。計画(案)は研究者名と論文を示していない。日付の特定できる出来事ではなく、この位置は読み方の紹介のために置いた。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔4月6日夜半〕西軍支隊(四隊)が楽田附近からひそかに前進を始める
    本データの地形範囲の外の出来事で、3D上に置いていない。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔4月6日夜半・長久手市の計画(案)〕別働隊が①池田父子・森、②堀・長谷川、③三好信吉の順に岡崎へ向かう
    本データの地形範囲の外の出来事で、3D上に置いていない。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔4月7日〕西軍支隊が物狂坂を越え、篠木・柏井地方に至って上條村に砦を築き宿営する
    本データの地形範囲の外の出来事で、3D上に置いていない。同書は、この地方の人民が東軍に叛いて西軍を迎えたとも記す(c_ev_locals)。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔4月7日〕篠木の民が小牧の家康の本営に西軍の来着を告げる
    本データの地形範囲の外の出来事で、3D上に置いていない。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔4月8日早朝〕石黒善九郎の注進と斥候の復命を受け、家康が追躡を決める
    本データの地形範囲の外の出来事で、3D上に置いていない。兵の部署は c_str_east_org。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔4月8日朝〕西軍支隊が、翌日長久手・藤島附近を経て三河へ前進する令を伝える
    本データの地形範囲の外の出来事で、3D上に置いていない。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    東軍支隊(水野忠重ら)が丹羽氏次を嚮導に小牧山を発す
    8日(合戦の前日)の出来事。小牧山・南外山・勝川は範囲の外にあり、3D上は範囲の西の縁の代理の位置から小幡城へ動かす(c_pos_offmap)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。小幡城の周りの並びは、重ならないように置いた制作上の配置。
    家康が井伊直政を前衛に小牧山を発す(信雄も同行)
    8日の出来事。小牧山・市之久田・青山・豊場・如意・勝川は範囲の外にあり、3D上の家康の本隊は範囲の西の縁の代理の位置で待つ(c_pos_offmap)。
    東軍支隊が庄内川を徒渉して川村を過ぎ、小幡城に入る
    8日の出来事。
    西軍支隊が宿営を撤し、三縦隊に分かれて庄内川へ向かう
    8日の出来事。上條・大留・野田は範囲の外にあり、3D上は範囲の北の縁の代理の位置で示す(c_pos_offmap)。右縦隊の第四隊(三好秀次)は範囲の中の松河戸村(下ノ瀬)で渡る。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    小幡城の本多広孝が斥候を出し、支隊の諸将が敵の後尾を襲うことに決める
    8日の夜の出来事。同書は、斥候(五十人)を出したのを午後10時とし、水野忠重が正面から戦うより後尾について襲うのがよいと述べたと記す。
    西軍第一隊(池田)が大留から庄内川を渡る
    8日の出来事。大留(大日渡・上ノ瀬)と志段味は範囲の外。3D上は北の縁から茶磨ヶ根(地名箋で志談村吉根ノ内。国土地理院の「名古屋市守山区吉根」の代表点)へ進める。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    家康の本隊が勝川の竜源寺で小憩し、庄内川を渡って小幡城へ向かう
    8日の出来事。勝川・竜源寺は範囲の外。同書は、家康が竜源寺で甲冑を着け、篝火で小幡城と信号を交わしたと記す(c_ev_main_march)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。小幡城の周りの並びは制作上の配置。
    西軍第二隊が大留から、第三隊が野田から、第四隊が松河戸から庄内川を渡る
    大留・野田は範囲の外。第二隊・第三隊は北の縁の代理の位置から茶磨ヶ根の方へ進める。第四隊は松河戸から川村へ進む。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    西軍第四隊が川村を経て竜泉寺の南方を通り、印場へ向かう
    移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    西軍第一隊が茶磨ヶ根から印場・新居両村の間へ進む
    印場・新居両村の間は、国土地理院の「尾張旭市印場元町」と「尾張旭市新居町」(新居町山の田)の代表点の中点に置いた。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    西軍第四隊が矢田川を渡って白山林に至り、しばらく駐止する
    白山林の位置は、尾張旭市が白山御林の場所と推定する町々の中央にある「尾張旭市緑町」(緑町緑ケ丘)の代表点を中心とする推定範囲(c_owariasahi_hakusan)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    東軍支隊がひそかに小幡を発し、右翼・予備は猪子石原へ、左翼は稲葉へ向かう
    移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。猪子石原の周りの並びは制作上の配置。
    西軍第一・第二・第三隊が矢田川を越え、熊張の西へ進む
    熊張の西は、国土地理院の「長久手市熊張」の返り値(熊張深田、北緯35.181904/東経137.077408)の西約1.1キロメートルに置いた点。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    家康が信雄とともに小幡城を発し、大森・印場へ向かう
    前衛は井伊隊、北畠隊は徳川隊の本部の後尾に続いたと同書は記す。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    家康の本隊が印場を経る
    移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    西軍支隊が未明に各地に至り、第一隊は藤島方向へ、第三隊は金萩原へ進む
    生牛原は地名箋で岩崎村岩藤新田とされ、国土地理院の「日進市岩藤町」の代表点を、金萩原は同じく北新田ノ内とされ、「日進市北新町」の代表点を使った(c_chimei_places)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    家康の本隊が稲葉附近で矢田川を渡る
    稲葉は国土地理院の「尾張旭市稲葉町」の代表点。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    西軍第二隊(森長可)が生牛原に至って食事をとる
    生牛原の範囲の中で第一隊の本部と重ならないように北に置いた制作上の配置。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    第一隊の前衛が岩崎城の城下を通り過ぎようとする
    3D上は池田之助・輝政隊の駒で第一隊の前衛(伊木忠次・片桐半右衛門の隊)を示す。名札の兵数は長久手の配置表の値で、前衛の人数ではない(c_str_vanguard_iwasaki)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
  2. 第二章岩崎城と白山林出来事 17 件午前四時頃〜午前七時頃
    1. 午前四時頃家康の本隊が迂回して権道寺山附近を過ぎ、市坂から色ヶ根へ向かう

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 3 件も同じ)

    2. 午前四時頃丹羽氏重が岩崎城から撃って出て遮り、馬を撃たれた勝入が前衛に城を囲ませる
    3. 東軍の右翼隊・予備隊が猪子石原から白山林の三好隊の右側に近づく
    4. 黎明(日出 午前四時三十五分)朝食をとっていた三好秀次の隊を東軍の右翼隊が襲う
    5. 〔長久手市の計画(案)〕白山林で朝食をとっていた三好信吉の隊を、徳川軍の先発隊が背後から急襲する

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    6. 東軍の左翼隊(榊原康政)が背後から鬨をあげて輜重を襲う

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編

    7. 午前五時(附表)家康が色ヶ根に進み、部隊は東麓の平地と八幡森に集まる

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [2]日本戦史 小牧役 附図・附表

    8. 午前五〜六時(附表)楽田の秀吉が長岡忠興・日根野弘就らに小牧を攻めさせる

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 3 件も同じ)

    9. 午前六時(附表)西軍第四隊が崩れ、本部は長久手方向へ、ほかは岩作方向へ敗走する
    10. 午前六時頃岩崎城が落ち、丹羽氏重は奮戦して敵弾に斃れる
    11. 午前六時(附表)金萩原の堀秀政が後方の銃声を聞き、急ぎ向きを変えて長久手の檜ヶ根へ向かう
    12. 〔長久手市の計画(案)〕加藤忠景(41歳)と丹羽氏重(16歳)が城兵200名余りとともに戦死する

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    13. 岩崎城を抜いた第一隊が六坊山に移る

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 4 件も同じ)

    14. 東軍支隊が敗れた第四隊を追って香流川の北に迫る
    15. 木下勘解由(利匡)が乗馬を秀次に献じ、指物を地に立てて討死する(補伝)
    16. 午前七時(附表)三好秀次の隊が香流川を渡り、細ヶ根に拠って防ぐ
    17. 午前七時頃第一隊が岩崎城で得た首級を六坊山で検する
    この章の出来事の説明(10 件)
    家康の本隊が迂回して権道寺山附近を過ぎ、市坂から色ヶ根へ向かう
    権道寺山・市坂は座標化していない(地名箋で尾張愛知郡上郷村熊張)。色ヶ根は国土地理院の注記「色金山」の点。部隊は色ヶ根の東麓の平地と八幡森に集屯したと同書は記す。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    東軍の右翼隊・予備隊が猪子石原から白山林の三好隊の右側に近づく
    3D上の位置は、尾張旭市が白山御林の範囲に挙げる庄南町・本地が丘の代表点の附近に置いた制作上の配置。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    朝食をとっていた三好秀次の隊を東軍の右翼隊が襲う
    同書は長久手の項では日出を午前4時25分と記す(c_sunrise_gap)。
    東軍の左翼隊(榊原康政)が背後から鬨をあげて輜重を襲う
    白山林の北側の位置には「尾張旭市長坂町」(長坂町南山)の代表点を使った。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    楽田の秀吉が長岡忠興・日根野弘就らに小牧を攻めさせる
    小牧・楽田は範囲の外にあり、3D上に置いていない。
    西軍第四隊が崩れ、本部は長久手方向へ、ほかは岩作方向へ敗走する
    細ヶ根は長久手市の計画(案)の比定に従い国土地理院の「長久手市荒田」の代表点を使った(c_plan_places)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    金萩原の堀秀政が後方の銃声を聞き、急ぎ向きを変えて長久手の檜ヶ根へ向かう
    附表第一号は第三隊が6時に白山林の警報に接したとする。檜ヶ根は長久手市の計画(案)の比定に従い国土地理院の「長久手市坊の後」の代表点を使った(c_plan_places)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    岩崎城を抜いた第一隊が六坊山に移る
    六坊山は地名箋で尾張愛知郡岩崎村とされ、国土地理院の「日進市岩崎町六坊」の代表点を使った。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    東軍支隊が敗れた第四隊を追って香流川の北に迫る
    3D上の追撃の位置は、香流川(現代の河道)の北に並べた制作上の配置。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    木下勘解由(利匡)が乗馬を秀次に献じ、指物を地に立てて討死する(補伝)
    補伝が引く『小牧陣始末記』『丹羽本長久手軍記』の記事。本編は麾下の諸士(木下利直・同利匡ら)の奮闘で秀次が逃れたと記す。
  3. 第三章檜ヶ根と富士ヶ根の金扇出来事 10 件午前七時(附表)〜午前八時過(附表)
    1. 午前七時(附表)第二隊(森長可)が白山林の警報を受けて引き返す

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 7 件も同じ)

    2. 午前七時過堀秀政が檜ヶ根に陣を占め、敵を十間以内に引きつけてから撃てと命じる
    3. 東軍支隊が高根の北麓を過ぎ、大須賀・榊原の二隊が先を争って檜ヶ根に迫る
    4. 第一隊も第二隊の報せを受けて急ぎ引き返す
    5. 午前八時(附表)東軍支隊が敗れ、予備・右翼は猪子石方向へ、左翼は岩作方向へ走る
    6. 午前八時過家康が色ヶ根を下り、香流川を渡って富士ヶ根に上り、前山・佛ヶ根を占める
    7. 午前八時過森長可が富士ヶ根に東軍の牙旗を見て、岐阜嶽に陣を置く
    8. 午前八時過堀秀政が富士ヶ根に家康の金扇の馬標を見て、岩作の北部に退く
    9. 午前八時過(附表)榊原康政らが敗兵をまとめて岩作から本隊に合する

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [2]日本戦史 小牧役 附図・附表

    10. 〔長久手市の計画(案)〕桧ケ根の堀秀政が、家康の本隊の進出を知って北方へ引き上げる

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    この章の出来事の説明(7 件)
    第二隊(森長可)が白山林の警報を受けて引き返す
    岐阜嶽は長久手市観光交流協会の冊子の比定に従い国土地理院の注記「喜婦嶽」の点を使った(c_guide_places)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    東軍支隊が高根の北麓を過ぎ、大須賀・榊原の二隊が先を争って檜ヶ根に迫る
    高根は地名箋で長湫村とされ、現在地を特定できないため、細ヶ根(荒田)と檜ヶ根(坊の後)の代表点の中点に置いた。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    第一隊も第二隊の報せを受けて急ぎ引き返す
    池田兄弟の陣(田ノ尻の東南高地)は、同書の「佛ヶ根ノ東南高地」と長久手市観光交流協会の冊子の「横道(長久手市)の西南方の高地」の両方に当たる位置(注記「仏が根」の点の東南約740メートル、「長久手市横道」の代表点の西南西約350メートル)に置いた制作上の補間。勝入の予備の陣地(顱狹間)は地名箋で長湫村とされるだけで現在地を特定できない。同書の附図第二号は顱狹間を佛ヶ根の東南、右翼の池田兄弟の後方に描いているため(附図は並びの確認にだけ用いた。c_map_bikou)、3D上は池田兄弟の陣の南南東約370メートルに置いた。後世に勝入の墓とされた勝入塚(国土地理院の注記「勝入塚」)は、この点の北西約780メートルの仏が根にある(c_plan_shiseki)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    東軍支隊が敗れ、予備・右翼は猪子石方向へ、左翼は岩作方向へ走る
    同書は東軍の死者を280余人、あるいは500人ともいうと割注に記す。秀次はこの時すでに稲葉に退いていたと同書は記す(c_ev_hori_sees_ieyasu)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    家康が色ヶ根を下り、香流川を渡って富士ヶ根に上り、前山・佛ヶ根を占める
    富士ヶ根は長久手市観光交流協会の冊子の比定(御旗山)に従い国土地理院の注記「御旗山」の点、佛ヶ根は注記「仏が根」の点、北畠の予備(切通附近)は「長久手市富士浦」の代表点を使った(c_guide_places・c_plan_places)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    堀秀政が富士ヶ根に家康の金扇の馬標を見て、岩作の北部に退く
    岩作の北部は、長久手市観光交流協会の冊子が堀の退いた先とする「岩作の高山」に当たる国土地理院の「長久手市岩作高山」の代表点を使った。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    榊原康政らが敗兵をまとめて岩作から本隊に合する
    合流後の位置は同書に記載がなく、富士ヶ根の西(国土地理院の「長久手市西浦」の代表点)に置いた制作上の配置。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
  4. 第四章長久手の対陣出来事 9 件午前九時(附表)〜午前十時ごろ(計画(案))
    1. 午前九時(附表)大須賀康高・水野忠重らが猪子石から本隊に合する

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [2]日本戦史 小牧役 附図・附表

    2. 午前九時(附表)堀秀政が第一・第二隊の協力の求めに応じず、稲葉を経て退く

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 5 件も同じ)

    3. 三好秀次が稲葉から楽田へ退く(経由路は未詳)
    4. 午前九時頃第一隊が佛ヶ根の東南高地に配備し、佛ヶ根池と烏ヶ狹間を隔てて東軍に対する
    5. 堀秀政が新居に放火し、秀次の退路について篠木・柏井へ向かう
    6. 午前十時頃家康が切通附近から前山に移る
    7. 堀秀政の隊が範囲の北へ去る(二重堀に還った時刻は未詳)
    8. 午前十時ごろ(計画(案))〔長久手市の計画(案)〕家康の本隊が富士ケ根から仏ケ根・前山に陣を構え、池田恒興は元助を右翼に、森長可を左翼に配する

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    9. 安藤直次が戦線を視察し、火力を左翼に加えるよう進言する

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編

    この章の出来事の説明(6 件)
    大須賀康高・水野忠重らが猪子石から本隊に合する
    合流後の位置は同書に記載がなく、本隊の後方(西)の国土地理院の「長久手市氏神前」「長久手市戸田谷」「長久手市久保山」の代表点に置いた制作上の配置。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    堀秀政が第一・第二隊の協力の求めに応じず、稲葉を経て退く
    移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    三好秀次が稲葉から楽田へ退く(経由路は未詳)
    同書は秀次がこの日楽田に還ったとし、経由路を未詳とする。3D上は稲葉町と同じ経度で範囲の北の縁の内側に置いた代理の位置へ退かせた(c_pos_offmap)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    堀秀政が新居に放火し、秀次の退路について篠木・柏井へ向かう
    新居は国土地理院の「尾張旭市新居町」(新居町山の田)の代表点。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    家康が切通附近から前山に移る
    前山は長久手市の計画(案)の比定(城屋敷の東部)に従い、国土地理院の「長久手市城屋敷」の代表点を使った(東へは寄せていない)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    堀秀政の隊が範囲の北へ去る(二重堀に還った時刻は未詳)
    篠木・柏井・二重堀は範囲の外。3D上は新居町と同じ経度で範囲の北の縁の内側に置いた代理の位置へ退かせた(c_pos_offmap)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
  5. 第五章長久手の決戦出来事 14 件午前十一時(附表)〜午後一時(計画(案))
    1. 午前十一時(附表)家康の命で東軍が開戦し、西軍の第一線を破る

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [2]日本戦史 小牧役 附図・附表

    2. 池田勝入の予備隊が田ノ尻から迂回を試みるが、目的を達しない

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 5 件も同じ)

    3. 家康の右翼と森長可の左翼が互いに相手の動きを待つ
    4. 家康が隊を二分し、右の一部隊を率いて森長可の隊に向かう
    5. 両隊が狭隘で衝突し、激戦となる
    6. 正午頃森長可が狙撃されて死に、西軍の左翼隊が退く
    7. 正午頃楽田の秀吉に白山林の敗報が届く
    8. 昼ごろ(計画(案))〔長久手市の計画(案)〕森長可が井伊隊の銃弾を頭に受けて戦死する

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    9. 東軍の予備隊(信雄)が勝ちに乗じて西軍予備隊の左方に出る

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 3 件も同じ)

    10. 池田勝入が陣地(顱狹間)を固守して死に、之助も殉じ、輝政は退く
    11. 池田・森の隊の士卒が志段味・水野・篠木・柏井方向に、一部は藤森・岩崎方向に走る
    12. 午後一時東軍が追撃を矢田川で止める
    13. 〔『日本戦史』〕この日の両軍の死者は西軍2,500余人・東軍590余人とされる

      日本戦史(勝入の献策)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編

    14. 午後一時(計画(案))〔長久手市の計画(案)〕戦闘の終焉は午後1時とされる

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    この章の出来事の説明(6 件)
    家康の命で東軍が開戦し、西軍の第一線を破る
    同書の本文は、家康が十時頃に前山に移って諸隊に開戦させ、西軍の第一線(右翼隊・左翼隊)を破って二三百人を斃したと記す(c_ev_ieyasu_maeyama)。附表第一号は東軍・西軍とも十一時に長久手に戦ったとする。
    家康が隊を二分し、右の一部隊を率いて森長可の隊に向かう
    両隊が衝突した狭隘の位置は同書に記載がなく、前山(城屋敷)と岐阜嶽(喜婦嶽)の間に置いた制作上の配置。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    森長可が狙撃されて死に、西軍の左翼隊が退く
    同書の本文は水野正重の卒 杉山孫六が狙撃したとし、補伝は諸書の異説を並べる(c_hoden_mori_sugiyama・c_hoden_mori_kashiwabara)。3D上の退く方向は、同書が敗兵の一部が走ったとする岩崎方向(南)に置いた制作上の補間。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    楽田の秀吉に白山林の敗報が届く
    楽田は範囲の外にあり、3D上に置いていない。
    東軍の予備隊(信雄)が勝ちに乗じて西軍予備隊の左方に出る
    西軍予備隊(顱狹間の点)の左方(南西)に置いた制作上の配置。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    池田勝入が陣地(顱狹間)を固守して死に、之助も殉じ、輝政は退く
    同書は勝入の首級を永井直勝が、之助の首級を安藤直次が挙げたとする。3D上の池田兄弟の隊の退く方向は、同書が敗兵の走ったとする志段味・水野・篠木・柏井の方向(北東)に置いた制作上の補間。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
  6. 第六章秀吉の赴援と両軍の引き揚げ出来事 20 件午後一時頃〜夜半
    1. 午後一時頃秀吉が兵2万を率いて楽田を発し、赴援に向かう

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 9 件も同じ)

    2. 午後二時頃家康が富士ヶ根の切通から香流川を渡って権道寺山に移り、首級を検する
    3. 秀吉が途中で岩崎攻城の顛末を聞き、池田が訓誡を守らなかったことを憤る
    4. 家康が信雄に勧めて帰路につき、渡辺守綱を後衛に白山林の南を通って小幡へ向かう
    5. 本多忠勝・石川康通が西軍の本部と並んで進み、銃撃で赴援を遅らせようとする
    6. 秀吉の本隊が庄内川の右岸に沿って下津尾村から竜泉寺へ向かう
    7. 午後四時頃家康が小幡に入る
    8. 本多忠勝らが竜泉寺附近から退き、帰る家康を小幡に迎える
    9. 午後五時頃秀吉の本隊が竜泉寺山に上る
    10. 秀吉の遣わした堀尾吉晴らの一支隊が印場で東軍の落後隊と遭遇し、北へ還る
    11. 〔長久手市の計画(案)〕秀吉は竜泉寺まで進むが、家康はすでに小幡城へ兵を引いた後だった

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    12. 午後六時過(附表)秀吉が稲葉一鉄らの諫めを容れ、攻城を翌朝に延ばして竜泉寺に留まる

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 1 件も同じ)

    13. 午後八時家康が夜襲の建議を退け、兵300余人を城に残して信雄とともに小牧山へ還る
    14. 午後八時(附表)秀吉が翌朝の攻城に備えて斥候を小幡に派す

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [2]日本戦史 小牧役 附図・附表

    15. 夜半東軍が去ったとの報を受け、秀吉が上條の砦に退く

      日本戦史(勝入の献策)・近年の研究(計画的な作戦)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編(以下 1 件も同じ)

    16. 〔翌10日〕秀吉が楽田に還る
    17. 〔翌10日・長久手市の計画(案)〕家康は小牧城に戻っており、秀吉も楽田に引き返す

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    18. 〔11月11日〕秀吉と信雄が矢田河原で会見する(『日本戦史』)

      日本戦史(勝入の献策)/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 小牧役 本編

    19. 〔11月13日・藤田達生(2009)〕矢田川原で講和が成立する

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [5]小牧・長久手の戦いと羽柴政権

    20. 〔11月・長久手市の計画(案)〕信雄が単独で和睦し、約8か月の戦いが終わる

      近年の研究(計画的な作戦)/ 研究者の解釈/ 典拠: [3]史跡長久手古戦場保存活用計画(案)

    この章の出来事の説明(18 件)
    秀吉が兵2万を率いて楽田を発し、赴援に向かう
    楽田・春日井原・関田・下市場・桜佐・下津尾は範囲の外にあり、3D上の秀吉の本隊は範囲の北西の隅の代理の位置で待つ(c_pos_offmap)。
    家康が富士ヶ根の切通から香流川を渡って権道寺山に移り、首級を検する
    権道寺山・小山ヶ沢は座標化していないため、3D上では動かさない。
    秀吉が途中で岩崎攻城の顛末を聞き、池田が訓誡を守らなかったことを憤る
    範囲の外の出来事。時刻は同書に記載がない。
    家康が信雄に勧めて帰路につき、渡辺守綱を後衛に白山林の南を通って小幡へ向かう
    信雄は岩作村から細ヶ根附近を経て帰ったと同書は割注に記す。支隊の諸隊の帰路は同書に記載がなく、3D上は家康に続いて小幡へ戻る形で示す。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。小幡城の周りの並びは制作上の配置。
    本多忠勝・石川康通が西軍の本部と並んで進み、銃撃で赴援を遅らせようとする
    小牧山から竜泉寺附近までの経路は範囲の外を含み、3D上は西の縁の代理の位置から竜泉寺の南西へ動かす。竜泉寺附近の位置は制作上の補間(国土地理院の「名古屋市守山区竜泉寺」の代表点の南西約600メートル)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    秀吉の本隊が庄内川の右岸に沿って下津尾村から竜泉寺へ向かう
    3D上は範囲の北西の隅の代理の位置から竜泉寺へ動かす。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    本多忠勝らが竜泉寺附近から退き、帰る家康を小幡に迎える
    移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    秀吉の本隊が竜泉寺山に上る
    竜泉寺は国土地理院の「名古屋市守山区竜泉寺」の代表点。
    秀吉の遣わした堀尾吉晴らの一支隊が印場で東軍の落後隊と遭遇し、北へ還る
    この支隊は本データの部隊にしていない。時刻は同書に記載がない。
    秀吉が稲葉一鉄らの諫めを容れ、攻城を翌朝に延ばして竜泉寺に留まる
    同書は割注でこの日の日没を午後6時30分とする。
    家康が夜襲の建議を退け、兵300余人を城に残して信雄とともに小牧山へ還る
    迂路(比良に出る道)と小牧山は範囲の外。3D上は比良と同じ緯度で範囲の西の縁の内側に置いた代理の位置の附近へ退かせ、支隊の諸隊と本多忠勝らも同じ方向へ退かせた(支隊の帰路は同書に記載がない)。城に残った300余人は部隊にしていない。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    秀吉が翌朝の攻城に備えて斥候を小幡に派す
    同書の本文は、斥候を派したのを「是夜〔蓋シ八九時頃〕」とする(c_ev_scouts_kamijo)。
    東軍が去ったとの報を受け、秀吉が上條の砦に退く
    上條は範囲の外。3D上は上条町と同じ経度で範囲の北の縁の内側に置いた代理の位置へ退かせた(c_pos_offmap)。移動先の座標と経路・速さは制作上の補間である(国土地理院 地名検索APIの代表点または2点の中点など。c_pos_gsi_coords)。
    〔翌10日〕秀吉が楽田に還る
    本データの地形範囲の外の出来事で、3D上に置いていない。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔翌10日・長久手市の計画(案)〕家康は小牧城に戻っており、秀吉も楽田に引き返す
    本データの地形範囲の外の出来事で、3D上に置いていない。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔11月11日〕秀吉と信雄が矢田河原で会見する(『日本戦史』)
    国立天文台の暦日データベースは11月11日を1584年12月12日と換算する(c_date_naoj)。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔11月13日・藤田達生(2009)〕矢田川原で講和が成立する
    国立天文台の暦日データベースは11月13日を1584年12月14日と換算する(c_date_naoj)。t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。
    〔11月・長久手市の計画(案)〕信雄が単独で和睦し、約8か月の戦いが終わる
    t_min は前後関係を表すための値であり時刻の主張ではない。どの章にも割り当てていない。

凡例と注記 — この図の読み方

読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

本文中の典拠番号 [n] は、下の「出典一覧」の同じ番号の文献を指します。 3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、切替をしない限り既定説の配置を表示します。

陣営
  • 徳川・織田方織田信雄・徳川家康方(同書の東軍)
  • 羽柴方羽柴秀吉方(同書の西軍)
日付・場所・地形データ・利用条件・データ出典(この図の注記)
日付について

天正12年4月9日(グレゴリオ暦 1584-05-18)

グレゴリオ暦の1584-05-18は、参謀本部編『日本戦史 小牧役』が白山林の項の割注(コマ22左頁、三十一頁)に「陽暦五月十八日」と記す日付と一致し、国立天文台 暦計算室の日本の暦日データベースの既定の換算(1582年10月15日以後はグレゴリオ暦)とも一致する(c_date_naoj)。全文テキストはこの割注を「〓八暦五五月,」と崩して読んでいる(2026-09-25 に Claude(AI照合、D-015)が原本画像で確認)。ユリウス暦の1584-05-08は同データベースで「すべてユリウス暦」を選んだときの換算で、同書の記載ではない(天正12年はグレゴリオ暦の施行後なので参考として併記する)。長久手市観光交流協会の冊子も新暦5月18日とする(c_date_guide)。戦役全体は数か月にわたり(長久手市の計画(案)は約8か月間、藤田達生(2009)は約九か月間とする)、本データの3Dは4月8日夜(t_min=-300、engine の時計では前日)から9日夜半までを扱う。

場所

愛知県 長久手市(長久手古戦場・色金山・御旗山)を中心に、尾張旭市(白山林)・日進市(岩崎城)・名古屋市守山区(小幡城・竜泉寺)・名東区(猪子石)にかけて(同書の地名箋は明治の郡名で尾張愛知郡・東春日井郡とする)

地形

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

現代地形を使用しています(当時の河道・池・谷・植生・街道は異なる場合があります)

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

利用条件

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

タイルセットの詳細

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。2026-09-11の国土地理院回答により、本プロジェクトが照会した統合DEMの複製保存・動画掲載・Web表示について測量法の手続きは不要と確認した。回答の適用範囲と産総研側の利用条件は docs/external_evidence/gsi_reply_20260911.md を参照する。

データ

布陣・兵力・時系列: 参謀本部編『日本戦史 小牧役』本編・附図・附表(1908) / 近年の研究の紹介: 長久手市『史跡長久手古戦場保存活用計画(案)』(2018)・藤田達生「小牧・長久手の戦いと羽柴政権」(2009) / 史跡・地名: 長久手市・尾張旭市・日進市・あいち歴史観光・長久手市観光交流協会 / 暦: 国立天文台 暦計算室 / 座標: 国土地理院 地名検索API・標高API

布陣・兵力・時系列には諸説があります。本作は『日本戦史 小牧役』(1908)の叙述と配置表に拠る読み方と、長久手市の計画(案)(2018)と藤田達生(2009)が紹介する、岡崎への進軍を計画的な作戦とみる近年の研究の読み方を切り替えて表示しています。部隊の位置と3D上の動きは両方の読み方で共通で、国土地理院の地名代表点と史料の地名から置いた推定です。近年の研究の読み方では部隊ごとの兵力を不詳として扱います。範囲の外(小牧山・楽田・上條など)の部隊は画面の縁の代理の位置で示しています。地形データの出典表記は knowledge/battles/komaki_nagakute/terrain/terrain.json の credit_ja に揃えています。

出典一覧

出典一覧(全 14 件)を開く本文の典拠番号 [n] はこの一覧の番号です
  1. 参謀本部 編 『日本戦史 小牧役 本編』

    元真社/1908年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 771068)は IIIF manifest が「日本戦史.小牧役 [本編]」/著者 参謀本部 編/出版者 元真社/出版年 明41(1908)/書誌ID 000000430552/請求記号 77-30/DOI 10.11501/771068/利用制限 PDM/全161コマ と示す。第一篇 起因及作戦前ノ形勢はコマ7から、長久手の戦いは第二篇第三章「長久手ノ戦闘」(コマ19〜28、刷り頁二十四〜四十二)にあり、本データは補伝のうちコマ71・75・76・86・100 と、地名箋(コマ147〜154)を引く。

    明治41年に旧陸軍参謀本部が編纂した戦史。本文は次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/771068)で取得したOCRテキストで機械的に照合し(knowledge/battles/komaki_nagakute/fulltext/ndl_fulltext_771068.txt に同梱)、2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が引用・数値・人名・地名箋を原本画像(IIIF)と照合した(記録は knowledge/battles/komaki_nagakute/source_review_2026-09-24.md)。quote_ja は全文テキストのままなので、OCRが読めなかった字(〓)と誤読を含み、原本の字は各 claim の note_ja に書いた。

  2. 参謀本部 編 『日本戦史 小牧役 附図・附表』

    元真社/1908年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション pid 771065。IIIF manifest は「日本戦史.小牧役 附図,附表」/参謀本部 編/元真社/明41(1908)/書誌ID 000000430552/請求記号 77-30/利用制限 PDM/全41コマ と示す。目次(コマ2)、附表第一号「長久手戦闘経過一覧表」(コマ3)、附表第三号「丹羽隊編制表」(コマ5)、附図第二号「長久手戦図」(コマ30〜31)を引く。

    本編と同じ書誌IDを持つ別冊。2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が附表第一号・第三号と附図第二号の備考を原本画像(IIIF)で読んだ。附図は部隊の左右の並びを確かめる参照にだけ用い、転載していない。全文テキスト(OCR)は knowledge/battles/komaki_nagakute/fulltext/ndl_fulltext_771065.txt に同梱した。表組みのOCRは升目の順序が大きく乱れる。

  3. 長久手市 『史跡長久手古戦場保存活用計画(案)』

    2018年 / 自治体資料/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    表紙に「平成30年3月」。第2章1(1)「史跡長久手古戦場の歴史」冊子12〜14頁(PDF15〜17頁)、第2章2「指定に至る経緯」冊子47頁(PDF51頁)。

    長久手市の公式サイトで公開されている計画(案)。2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)がPDFの該当頁(PDF1・15・16・17・51頁)を画像で読んだ。冊子12頁の合戦関係図の直下に「H21年度長久手町郷土資料室特別展資料より」とある(c_plan_source_note)。近年の研究を紹介しているが、どの研究者のどの論文かは示していない。図・写真・推定図は転載しない。

  4. 長久手市 『史跡長久手古戦場保存活用計画(古戦場公園)第2回委員会資料』

    2017年 / 自治体資料/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    表紙に「資料4」「平成29年3月14日」。冊子13頁(PDF16頁)に「主戦場は尾張に」「岡崎進軍」「岩崎城の落城」「白山林の戦い」の節。

    2026-09-14 の調査稿(battle_data.research.json)が典拠にした委員会資料。PDFは画像のみ(文字層なし)。2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)がPDF1頁・16頁を画像で読み、冊子13頁の本文が2018年の計画(案)と同じであることを確かめた。最終版の計画ではないため、本データの説明の典拠には計画(案)を使う。

  5. 藤田達生 『小牧・長久手の戦いと羽柴政権』

    愛知県/2009年 / 論文/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    『愛知県史研究』13号(2009)1〜14頁(J-STAGE の citation メタデータで確認、2026-09-25)。本文PDF 1頁「問題の所在」、9頁(四月九日の長久手の戦いと岩澤愿彦の指摘、加賀野井城・竹ヶ鼻城)、10頁(講和の成立と「天下分け目の戦い」の評価、秀吉包囲網)、13頁(注42・45・46)。

    J-STAGE で公開されている本文PDF(文字層のない画像)を2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が画像で読んだ。論文の主題は羽柴政権の成立時期であり、長久手の布陣の新説ではない。本データはこの論文から別の布陣座標を作らない。図表は転載しない。論文が紹介する岩澤愿彦(2000)・谷口央・尾下成敏の論文の本文は確認していない。

  6. 平山優 『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』

    KADOKAWA/2024年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    ISBN 9784040824949、2024年12月刊。書誌は knowledge/books/komaki_nagakute.json(楽天ブックスAPIの書誌、D-014 の選書)で確認した。

    本データの関連書籍として人が選定した研究書(selected_by_human=true)。本文は入手していない。内容の要約は claim に書かず、説の根拠にも使わない。

  7. 尾張旭市(生涯学習課) 『白山林の戦い』

    2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    ページID 0010926(更新日 2026年1月6日の表示)。「白山林の戦い」「そして長久手での決戦へ」「『白山林の戦い』ゆかりの地」の各節。

    尾張旭市の公式サイト。2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が本文を取得して読んだ(2026-09-25)。村絵図・地図は転載していない。

  8. 日進市 『岩崎城址公園』

    2022年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    更新日 2022年05月02日の表示。本文と所在地(日進市岩崎町市場67番地)。

    日進市の公式サイト。2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が本文を取得して読んだ(2026-09-25)。同市の「岩崎城歴史記念館」(https://www.city.nisshin.lg.jp/department/toshisangyo/kanko/6/2/2_1/5043.html)と「にっしんの戦国時代」(https://www.city.nisshin.lg.jp/department/shogai/manabi/6/3096.html)のページも読んだ。

  9. 長久手市(文化財スポーツ課) 『色金山歴史公園へようこそ』

    2025年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    更新日 2025年07月17日の表示。「色金山とは?」の節。

    長久手市の公式サイト。2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が本文を取得して読んだ(2026-09-25)。

  10. 長久手市観光交流協会 『長久手合戦ガイド 小牧・長久手の戦いから見る天下取り』

    2024年 / ウェブ/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    PDF全20頁。3頁(長久手合戦図屏風の解説)、11頁「ちょっとふかぼり 3」と写真説明、12頁「激突!! ここが天下分け目の大勝負」。

    長久手市観光交流協会が2024年に公開した冊子のPDF。2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が3・11・12頁を画像で読んだ。会話文を交えた読み物であり、本データは地名の比定(富士ヶ根=御旗山、前山=血の池公園辺り、岐阜嶽=喜婦嶽、池田兄弟の陣=横道の西南方の高地)と新暦の日付だけを用いる。地図・屏風の写真は転載しない。

  11. あいちの歴史観光推進協議会(愛知県) 『小幡城跡(あいち歴史観光)』

    2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    本文と所在地(〒463-0011 愛知県名古屋市守山区大字小幡字西城二丁目17)。

    愛知県の公式観光ガイドの歴史観光サイト(運営 あいちの歴史観光推進協議会)。2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が本文を取得して読んだ(2026-09-25)。小幡城跡の現在の所在地を座標化する手がかりに用いた。

  12. 国立天文台 暦計算室 『日本の暦日データベース』

    2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「和暦から西暦へ変換」で年号=天正、12年4月4日・6日・8日・9日、11月11日・13日を照会(2026-09-25)。既定(1582年10月15日以後はグレゴリオ暦)で4月9日=1584/05/18、「すべてユリウス暦」で1584/05/08。

    2026-09-24〜25 のバッチで Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が照会した。

  13. 『国土地理院 地名検索API(住所・地名検索)と標高API』

    国土地理院/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    地名検索APIの問い合わせ語と返り値(経度, 緯度、2026-09-25): 「名古屋市守山区西城二丁目」→ 136.966766, 35.205181/「愛知県名古屋市守山区竜泉寺」→ 136.983932, 35.223686/「愛知県尾張旭市南新町」→ 南新町白山 137.034943, 35.20031/「愛知県尾張旭市緑町」→ 緑町緑ケ丘 137.027618, 35.198975/「愛知県尾張旭市長坂町」→ 長坂町南山 137.032516, 35.20277/「愛知県尾張旭市庄南町」→ 137.018555, 35.194958/「愛知県名古屋市守山区本地が丘」→ 137.023026, 35.198738/「愛知県尾張旭市稲葉町」→ 137.032608, 35.205757/「愛知県尾張旭市印場元町」→ 137.010925, 35.212231/「愛知県尾張旭市新居町」→ 新居町山の田 137.030777, 35.221016/「愛知県名古屋市守山区大森」→ 136.994629, 35.203014/「愛知県名古屋市守山区川村町」→ 136.966171, 35.212265/「愛知県名古屋市守山区牛牧」→ 136.988449, 35.218025/「愛知県名古屋市守山区吉根」→ 137.002304, 35.22517/「愛知県春日井市松河戸町」→ 136.96402, 35.221539/「愛知県名古屋市名東区猪子石原」→ 136.989777, 35.192341/「愛知県名古屋市名東区猪子石」→ 136.998947, 35.185444/「愛知県長久手市荒田」→ 137.028671, 35.185955/「愛知県長久手市坊の後」→ 137.039886, 35.181042/「愛知県長久手市岩作」→ 岩作下島 137.039246, 35.186489 ほか/「愛知県長久手市岩作高山」→ 137.041153, 35.191338/「色金山」→ 注記 137.054900550833, 35.1860006255556/「御旗山」→ 注記 137.043843359444, 35.1786502258333/「愛知県長久手市富士浦」→ 137.043442, 35.179108/「仏が根」→ 注記 137.047450841967, 35.1752006373622/「愛知県長久手市城屋敷」→ 137.043198, 35.174/「喜婦嶽」→ 注記 137.041167332693, 35.1691371322186/「勝入塚」→ 注記 137.050272027644, 35.173145184341/「武蔵塚」→ 注記 137.046516900532, 35.1727331973213/「首塚」→ 注記 137.053046182778, 35.1837768511111/「長久手古戦場」→ 注記 137.048158755556, 35.1741688516667/「愛知県長久手市横道」→ 137.056198, 35.170746/「愛知県長久手市西浦」→ 137.038651, 35.178017/「愛知県長久手市宮脇」→ 137.041397, 35.177864/「愛知県長久手市氏神前」→ 137.037811, 35.176083/「愛知県日進市岩崎町市場」→ 137.041901, 35.145443/「日進市岩崎町六坊」→ 137.039124, 35.151039/「愛知県日進市岩藤町」→ 137.060654, 35.147846/「愛知県日進市北新町」→ 137.05481, 35.158459/「愛知県日進市藤島町」→ 137.068329, 35.147129。範囲外の地名の返り値は c_pos_offmap の note_ja に記す。標高API(https://cyberjapandata2.gsi.go.jp/general/dem/scripts/getelevation.php)の返り値は presentation.json の landmarks[].note_ja に記す。

    座標化にのみ用いた。返り値は住所・町の区域・注記の代表点であって陣所や遺構の中心点ではない。返り値は寄せ処理をせずそのまま使った。「長久手市田尻」「長久手市鴉ケ廻間」「長久手市首狭間」「権道寺」「六坊山」「血の池公園」は地名検索APIで該当する点が返らない(または市の代表点だけが返る)ため座標化していない。

  14. 『産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM』

    産業技術総合研究所 地質調査総合センター/2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    統合DEM(sourceID=mixed)zoom14。日本陸域 zoom10〜15 の実体は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B。取得範囲 bbox 136.955,35.137016005,137.08,35.231983995(knowledge/battles/komaki_nagakute/terrain/terrain.json、2026-09-25T03:47:13 取得)。

    地形グリッドの取得元。適用される利用条件は国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル)で、CC BY 4.0 ではない(DECISIONS D-008)。公開可否の記録は terrain.json の publication_clearance(D-013)。現代の地形であり、天正12年当時の地形の復元ではない。

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  • 『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』書影

    小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相

    平山優/KADOKAWA/2024-12/ISBN 9784040824949

    小牧・長久手合戦を題名に掲げる平山優の研究書。版元の内容紹介と書誌を確認し、進軍計画の解釈をさらに調べるための関連書籍として選定した。本文の読了や本データとの一致を保証する紹介ではない。

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