明治41年(1908)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 小牧役』の本編・附図・附表に拠る読み方。同書は、岡崎を奪う策を聞いた池田勝入(恒興)が4月4日夜に秀吉に献じ、5日朝にも断行を促したので、秀吉がこれを容れて三好秀次と森長可を付けた支隊を編成させ、軍監として堀秀政を加え、軽挙妄進を戒めたと記している。同書は支隊を第一隊 池田勝入 兵6,000・第二隊 森長可 兵3,000・第三隊 堀秀政 兵3,000・第四隊 三好秀次 兵8,000とし、追う東軍を本隊(徳川家康 兵6,300・北畠信雄 兵3,000)と支隊(水野忠重ら 兵4,500)に分けて記している。本データはこの読み方を既定の表示にしており、名札の兵数は同書の部署表と長久手の配置表の値である。
小牧・長久手の戦いの布陣図 — 長久手の地形と岡崎進軍の新説
この合戦を一言で
小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)に羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の陣営が争った戦役です。参謀本部編『日本戦史 小牧役』は、信雄が家康を頼って秀吉に抗した役と位置づけ、その長久手の一戦を徳川の覇業の淵源と評しています。戦役全体の長さは、長久手市の計画(案)が約8か月間、藤田達生の論文(2009)が約九か月間と書いています。このページはそのうち天正12年4月9日、新暦では5月18日にあたるとされる一日の戦闘を扱います。
先に小牧・長久手のインタラクティブ布陣図で、白山林・岩崎城・檜ヶ根・長久手の位置関係を確かめてください。一日のうちに戦闘の場所がいくつも移っていくことが、この合戦の布陣図を読む入口です。
長久手の地形を読む
『日本戦史』の地名箋は、長久手・檜ヶ根・佛ヶ根・前山・富士ヶ根・岐阜嶽などを尾張愛知郡長湫村の内とし、備考で「根」はおおむね丘を、「狹間」は狭い地を指すと説明しています。地名の多くが丘と谷の呼び名であることは、図を見るときの手がかりになります。出典:日本戦史 小牧役
このサイトの立体地形は、産総研地質調査総合センターのシームレス標高タイルという現代の標高データを表示しています。天正12年当時の地形・河道・池・植生・街道を復元したものではありません。現在は住宅地や道路が広がる地域でもあり、画面の起伏は舞台の見取り図として使ってください。高低差や流路の見え方から、どちらが勝ったかを説明することはしていません。
部隊の緯度経度は、国土地理院の地名検索で得た代表点などをもとに置いた制作上の補間で、史料が座標を示しているわけではありません。小牧山や楽田のように表示範囲の外にある場所との往来は、範囲の縁に置いた代理の位置で示しています。
布陣 — 白山林から長久手へ
『日本戦史』は、岡崎方面へ向かった別働隊(同書の西軍支隊)の部署を、第一隊 池田勝入 兵6,000、第二隊 森長可 兵3,000、第三隊 堀秀政 兵3,000、第四隊 三好秀次 兵8,000としています。追った家康方は、本隊を徳川家康 兵6,300・北畠(織田)信雄 兵3,000、支隊を水野忠重ら 兵4,500と記します。支隊は大須賀康高・榊原康政・水野忠重の三隊に分かれ、丹羽氏次が道案内を務めたとされます。
長久手の対陣について、同書は東軍の右翼を前山の徳川の兵3,300、左翼を佛ヶ根の東北端の井伊直政以下3,000、予備を切通附近の北畠の兵3,000とします。西軍は、右翼を田ノ尻の東南高地の池田兄弟(之助・輝政)4,000、左翼を岐阜嶽の森長可3,000、予備を顱狹間の池田勝入2,000としています。現在の場所については、長久手市の計画(案)が桧ケ根を坊の後(中央図書館付近)、仏ケ根を武蔵塚の北部、前山を城屋敷の東部とし、観光交流協会の『長久手合戦ガイド』が富士ヶ根を御旗山、前山を血の池公園辺りとしています。出典:史跡長久手古戦場保存活用計画(案)
図の「近年の研究」の読み方に切り替えると、名札の兵数は不詳の表示になります。この読み方の根拠とした計画(案)と藤田の論文は、隊ごとの兵数を示していません。計画(案)は別働隊を約24,000人、家康方を先発隊4,500人・本隊9,300人とし、人数には諸説あると注記しています。
時系列 — 夜明けから夜半まで
同書は、別働隊が8日の夜に三縦隊に分かれて庄内川を渡ったと記します。9日未明、先頭の池田勝入は岩崎城の丹羽氏重らに行く手を遮られて城を囲ませ、城は午前6時頃に落ちたとされます。守兵や討死の数は資料ごとに違い、同書の本編は239人で守ったとし、補伝が引く『丹羽家譜』はおよそ300人が力を合わせたとし、日進市の案内は300余名が討ち死にしたと伝えられると紹介しています。
同じころ、第四隊の三好秀次の隊は白山林で夜明けに食事をとっていたところを、小幡城から出た家康方の支隊に襲われて崩れたと同書は書いています。同書はこの日の日出を、白山林の項で午前4時35分、長久手の項で午前4時25分としており、一冊の中にも10分の違いがあります。
続いて堀秀政が午前7時過ぎに檜ヶ根に陣地を占め、追ってきた大須賀・榊原の二隊を破ったと記されます。家康は8時過ぎに富士ヶ根へ上って前山・佛ヶ根を部兵に占めさせ、岩作附近まで来た秀政はその金扇の馬標を見て退いたとされます。引き返した池田勢は9時頃に佛ヶ根の東南の高地に配備し、家康は10時頃に前山へ移って開戦させたと同書は記します。正午頃に森長可が討たれ、池田勝入と子の之助もその後に顱狹間で死に、追撃は午後1時に止められたとされます。森長可を撃った者は、補伝の中でも杉山孫六とする書と、柏原与兵衛とする書が並んでいます。
楽田にいた秀吉は正午頃に白山林の敗報を受け、午後1時頃に兵2万を率いて出発し、午後5時頃に竜泉寺山へ上ったと同書は記します。その前に家康は小幡城へ入っており、午後8時に城を発って小牧山へ戻ったとされます。秀吉も夜半に上條の砦へ退き、10日に楽田へ還ったとされます。附表の備考は、時刻の詳らかでないものを他から推算したと断っています。図の時計はこの推算を含む時刻を使っています。
通説と新説 — 岡崎を突く作戦は誰の計画か
『日本戦史』は、岡崎城を奪う策を聞いた池田勝入が4月4日夜に秀吉へ献じ、秀吉が請いを容れて支隊を編成させ、軽挙妄進しないよう深く戒めたと記します。同書は、羽黒の戦いで森長可を援けなかったことを悔いる勝入の心情も説明に加えています。一方で、策を秀吉に告げた人物と日付は、同書自身が割注で未詳としています。
長久手市の計画(案)は、史記類をもとにした通説では恒興の発案に秀吉が押されて承諾したとされるが、近年の研究で、事前の普請・行軍の規模・ゆっくりとした移動日程などから、計画的で大がかりな作戦だったことがわかってきた、と紹介しています。同計画(案)は、秀吉がこの案に主体的に介入していたと思われるとし、作戦の失敗が秀吉の汚点となって『太閤記』が仕方なく受け入れたと記した、という見方も示しています。藤田の論文は、長久手の戦いが、家康を誘き出そうと秀吉が仕掛けた陽動作戦に端を発していると岩澤愿彦が指摘していることを紹介しています。
二つの読み方は、部隊の位置そのものを動かす説ではありません。図の切り替えで変わるのは名札の兵数と、作戦の発案をどう説明するかです。編纂物である同書の叙述と、近年の研究の評価のどちらが正しいかについて、このページは結論を出していません。
その後 — 講和と、いま残る史跡
同書は、11月に秀吉が信雄と媾和の交渉を再開し、11日に両者が矢田河原で会見したと記します。藤田の論文は、講和が11月13日に矢田川原で成立し、信雄は北伊勢四郡を失ったとし、羽柴・徳川間の軍事的緊張は天正14年10月の上洛まで続いたとしています。日付の書き方も資料ごとに異なります。
長久手市の計画(案)は、長久手古戦場と御旗山・首塚・色金山が昭和14年に国の史跡に指定されたとしています。色金山歴史公園は、家康軍が山頂の巨石を床机がわりに軍議を開いたといわれる山として紹介されています。日進市の岩崎城址公園、名古屋市守山区の小幡城跡も、今の地図で場所を確かめる手がかりです。ただし、現地の案内や石標の位置が、合戦当日の陣所をそのまま示すとは限りません。
もっと知る
さらに読む本は関連書籍にまとめています。平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年)は、この戦いを主題に刊行された研究書です。本データはその本文を照合しておらず、内容の要約は載せていません。
本文で触れた『日本戦史 小牧役』の本編と附図・附表、長久手市の計画(案)、藤田の論文、自治体の案内は、ページ末尾の出典一覧で個別に確かめられます。まず藤田達生の論文と計画(案)を読み比べると、同じ一日をめぐる評価の違いが見えてきます。