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戦国・2説併記毛利方 対 陶方 対 能島村上氏

厳島の戦いの布陣図

  • 弘治元年10月1日
  • 広島県 廿日市市宮島町

図1 インタラクティブ3D布陣図

表示中の説: 軍記・通説

既定説の要旨 — 軍記と通説の合戦像(陰徳太平記・宮島観光協会の紹介) による

陰徳太平記は、元就が厳島に城を築いて陶晴賢の大軍を島へ誘い込み、九月晦日の暴風雨の夜に渡海して、博奕尾から塔の岡の陶の本陣を襲ったと記している。同書は陶方を二万七千人、毛利方を三千五百余騎とし、能島・来島の村上氏が毛利方に加わったとする。宮島観光協会も、陶軍二万・毛利軍三千五百、囮の城、暴風雨の中の奇襲という像で紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にし、兵数は陰徳太平記が隊ごとに記す三隊(吉川元春・宮尾城・弘中隆兼)だけを示している。

典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38) / [8]厳島合戦(歴史)

目次
  1. インタラクティブ3D布陣図
  2. 地形と布陣を読む解説
  3. 静止布陣図と説の比較
  4. 章立て
  5. 採用説の切替
  6. 部隊と兵力
  7. 時系列
  8. 凡例と注記 — この図の読み方
  9. 出典一覧
  10. この合戦をもっと読む — 関連書籍

厳島の戦いの布陣図と地形 — 宮尾城・博奕尾と新説を読む

この合戦を一言で

厳島の戦いは、弘治元年十月一日(1555年)に、毛利元就が隆元・小早川隆景・吉川元春らを率いて安芸の厳島で陶晴賢を襲い、晴賢が敗れて自殺したと『史料綜覧』巻10が記す出来事です。同書は同じ年の十月二十三日に弘治と改元したとも記しており、合戦の日は改元前の天文二十四年にあたるとされます。出典:史料綜覧 巻10 図では、同書の記す厳島と地御前を現在の地名に当て、広島県廿日市市宮島町(厳島)と対岸の地御前・大野一帯を表示しています(地名の対応は本ページの整理です)。出典:国土地理院 地名検索

このページでは、軍記と観光案内が伝える「囮の城と嵐の夜の奇襲」という通説の合戦像と、秋山伸隆らによる近年の再検討を切り替えて比べられます。まず厳島の戦いのインタラクティブ布陣図で島と対岸の位置関係をつかんでから、以下の解説を読んでください。

地形を読む — 宮島と対岸の現代地形

立体図の地形は現代の標高データを使った表示です。弘治元年当時の海岸線・干潟・埋立地や浦の形とは異なる可能性があり、海や島の地形は舞台として示すにとどめています。画面で海が狭く見えることや、山が高く見えることから勝敗を説明することはしていません。

対岸の本陣の目安になるのは、陰徳太平記が元就の本陣とする地御前の火立岩という小山です。廿日市市は、国道2号と西広島バイパスが交差する辺り(阿品)にかつて火立岩という岩山があったと紹介しています。出典:阿品の概要

島側では、重田定一の厳島誌が、宮尾城は小浦の南方の要害鼻にあったと記します。宮尾城跡の座標は地名検索では得られませんでした。そこで国土地理院の標高データで厳島港の南の海岸に並ぶ標高およそ25〜41mの小丘三つを確かめ、その範囲を推定位置として示しています。出典:厳島誌

布陣 — 厳島の戦いの布陣図に置いた位置

陶方について、史料綜覧は九月二十一日に陶晴賢が安芸の黒瀧から厳島へ渡り「宮崎」に陣したと記します。宮崎の現在地は特定していません。大内氏実録は晴賢が塔岡に陣したとし、陰徳太平記は多宝塔のあたりに控えたのちに塔の岡へ本陣を移したと記しています。図では、文化遺産オンラインが示す厳島神社五重塔の所在地を塔の岡の目安にしました。これは建物の所在地であって、陣所の中心点ではありません。出典:大内氏実録

陰徳太平記は、三浦越中守と大和伊豆守の二千余人が大元で船を下りて塔の岡に上り、弘中三河守(隆兼)が博奕尾に陣を据えたと記します。吉川家文書別集に収める二宮覚書も「むくち尾」に弘中の陣があったと書いています。博奕尾の現在地は特定できていません。図では、包ヶ浦と塔の岡を結ぶ線の中点を中心とする推定範囲で示しています。出典:陰徳太平記

毛利方は、元就の隊を地御前の火立岩の推定範囲に、宮尾城の城兵を島北岸の推定範囲に置きました。史料綜覧は、元就がこの年の春に厳島の宮尾に城を築き、己斐豊後守らに守らせたと記します。海上については、陰徳太平記が毛利方の浦兵部丞宗勝(乃美宗勝)らの兵船を百二十余艘、陶方の兵船を千余艘と記しますが、位置を示す史料はありません。警固船は地御前の沖と大元の沖に置いた制作上の補間です。

どの隊も史料は緯度経度を示しておらず、図の座標はすべて制作上の補間です。移動の矢印も出発点と到着点を直線で結んだ表示です。渡海の航路や山道の道筋は示していません。

通説の読み方で数値を出すのは、陰徳太平記が隊ごとに記す三つ、吉川元春の隊(新庄勢一千余騎)、宮尾城(究竟の兵三百余人)、弘中隆兼の隊(五百騎)だけで、ほかの隊は兵力不詳です。再検討の読み方では、秋山伸隆の見解が両軍全体の規模を述べるものであることから、全隊を兵力不詳としています。

時系列 — 九月晦日の渡海から十月一日の朝へ

史料綜覧は、五月十三日に陶晴賢の兵が厳島城を攻め、七月七日には厳島宮尾城を攻めたと記します(本稿は両者を同じ宮尾城とみます)。九月二十一日の陶の渡海ののち、同書は二十三日に元就が地御前に出陣し、ついで熊谷信直に厳島城を救援させたと記しています。

二十八日については史料で描き方が異なります。二宮覚書は熊谷信直・天野隆重らが島へ渡って夜に戻り、二十九日の内談で三十日の渡海を決めたと書きます。陰徳太平記は、二十八日の夜に小早川隆景が熊谷父子とともに宮尾城へ入ったと記しています。図では両方の記述を並べて置いています。出典:吉川家文書別集

二宮覚書は、三十日の夕方の六つ頃に乗船し、黒雲が出て雷と風波に見舞われたものの無事に渡海したと記します。陰徳太平記も九月晦日の夜は暗く雨風が激しかったと描き、厳島誌は島の東北の包浦に上って博奕尾を越え、明け方に陶の陣を襲ったと記しています。先勢がむくち尾(博奕尾)へ上ると、朝の六つ(陰徳太平記は卯の刻)の攻撃を待たずに掛け声がそのまま鬨の声になったと、二宮覚書と陰徳太平記はともに書いています。

大内氏実録は元就父子が未明に塔岡を衝き、晴賢は戦うまでもなく西の山を指して走ったと記します。二宮覚書は塔の岡にも神前にも一人もいなかったと書き、陰徳太平記は塔の岡から大御堂の間に備えた陶方と激しく戦ったと描きます。史料の多くは時刻を示していません。図の時間軸は、日付と出来事の順序を追う目安として読んでください。

通説と新説 — 囮の城・村上氏・兵力差

通説の像は、陰徳太平記に多くを負っています。同書は、元就が厳島に城を築けば陶は謀にかかって島へ渡ると考えたこと、重臣の桂元澄に内通を装わせたことを記し、陶方を二万七千人、地御前の毛利方を三千五百余騎とします。宮島観光協会は厳島合戦を日本三奇襲戦の一つとし、陶軍二万に対して毛利軍三千五百が暴風雨の中を包ヶ浦に上陸したと紹介しています。出典:宮島観光協会

長谷川泰志は、この合戦像を大義名分・兵力差・囮城・調略・村上海賊・嵐の夜・陶軍の油断という七つの要素の物語として整理しています。そのうち五つは毛利家中の覚書の段階で出そろい、囮城は元和8年(1622)の桂岌円覚書から始まり、大義名分の枠組みは元文4年(1739)の新裁軍記で確定したと論じています。陰徳太平記は元禄8年(1695)の自序を持つと紹介されています。兵数も一様ではなく、桂岌円覚書は陶を三、四千ほど、味方を三千ほどとし、毛利秀元記は敵を六万余騎、味方を二万余騎とすると長谷川は指摘しています。出典:長谷川泰志 2018

長谷川の紹介によれば、秋山伸隆は、毛利方の戦力は五千人をはるかに上回り、陶方は一万にも達していなかったとみるべきだとしています。また、房顕覚書によれば宮尾の城は合戦以前からあったこと、能島村上氏は合戦の前後に陶方に属しており毛利方として来援した事実はないことを指摘しています。県立広島大学の講座案内も、謀略と奇襲で勝ったという理解に対して、新たな史料の紹介で合戦のイメージが大きく変わりつつあると述べています。出典:県立広島大学 公開講座案内

図では、再検討の読み方に切り替えると能島村上氏の警固衆が毛利方の海上から外れ、位置不詳の扱いになります。秋山の原論文は本データでは入手しておらず、長谷川論文と講座案内の紹介の範囲で扱っています。どちらの読み方にも結論を与えず、根拠の違いを見比べる材料として示しています。

その後 — 晴賢の最期をめぐる諸説

大内氏実録は、晴賢がかろうじて青海苔浦に至ったものの渡る船が一艘もなく、下大江で自殺したと記します。自殺の地について厳島誌は、塔岡とする厳島合戦覚書など、青海苔浦とする吉田物語・陰徳太平記などを挙げたうえで、大内氏実録の大江浦に拠るべきだと述べています。宮島観光協会は大江浦とし、藝州厳島図絵では高安ヶ原とされると添えています。

弘中隆兼について、二宮覚書は弥山の竜の馬場に籠り、父子が自害したと記します。竜の馬場の現在地は特定しておらず、弥山と駒ヶ林を含む推定範囲で示しています。大内氏実録は、晴賢の首を廿日市の洞雲寺に葬らせたと記しています。

もっと知る

厳島合戦を特集した『歴史研究』第737号(2025年12月)は、秋山伸隆「厳島合戦の最新研究」のほか、大内氏から見た厳島合戦、能島・来島・因島の村上氏それぞれの立場を扱う論考を載せています。書誌は関連書籍にまとめています。出典:歴史研究737号

ページ末尾の出典一覧から、史料綜覧・二宮覚書・陰徳太平記などの該当資料を開けます。布陣図と原文を見比べてみてください。

静止布陣図と説の比較

3Dを表示できない環境向け。3Dが動く環境では畳んで表示します。

図2 静止布陣図(平面)と説の比較を開く/閉じる
厳島の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。
図2 厳島の戦い 布陣位置の概略(既定説)。地形の起伏は描いていない

弘治元年10月1日、広島県廿日市市宮島町(厳島)と対岸の地御前・大野一帯(安芸国)。陰徳太平記は、元就が厳島に城を築いて陶晴賢の大軍を島へ誘い込み、九月晦日の暴風雨の夜に渡海して、博奕尾から塔の岡の陶の本陣を襲ったと記している。同書は陶方を二万七千人、毛利方を三千五百余騎とし、能島・来島の村上氏が毛利方に加わったとする。宮島観光協会も、陶軍二万・毛利軍三千五百、囮の城、暴風雨の中の奇襲という像で紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にし、兵数は陰徳太平記が隊ごとに記す三隊(吉川元春・宮尾城・弘中隆兼)だけを示している。

説の比較

説要旨よりどころ
軍記と通説の合戦像(陰徳太平記・宮島観光協会の紹介)既定表示陰徳太平記は、元就が厳島に城を築いて陶晴賢の大軍を島へ誘い込み、九月晦日の暴風雨の夜に渡海して、博奕尾から塔の岡の陶の本陣を襲ったと記している。同書は陶方を二万七千人、毛利方を三千五百余騎とし、能島・来島の村上氏が毛利方に加わったとする。宮島観光協会も、陶軍二万・毛利軍三千五百、囮の城、暴風雨の中の奇襲という像で紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にし、兵数は陰徳太平記が隊ごとに記す三隊(吉川元春・宮尾城・弘中隆兼)だけを示している。陰徳太平記 合本2(巻19-38)/厳島合戦(歴史)
秋山伸隆らの再検討(長谷川泰志論文と県立広島大学の講座案内による紹介)
2010年提示
長谷川泰志の紹介によれば、秋山伸隆は、毛利方の戦力は五千人をはるかに上回り陶方は一万に達しなかったとみるべきだとし、房顕覚書によれば宮尾の城は合戦以前からあったこと、能島村上氏は合戦の前後に陶方に属しており毛利方として来援した事実はないことを指摘している。県立広島大学の講座案内でも、謀略と奇襲で勝ったという理解に対して、新たな史料の紹介で合戦のイメージが変わりつつあると紹介している。この読み方では部隊ごとの兵数を示さず、能島村上氏の警固衆を毛利方の海上の位置に置かない。厳島合戦と軍記物語―毛利氏関係軍記を中心に―/令和元年度(2019年度)県立広島大学公開講座案内

書籍リンク

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章立て

陶晴賢、厳島に渡る

史料綜覧は九月二十一日に陶晴賢が厳島に渡って陣したと記し、大内氏実録と厳島誌はその陣所を塔岡とする。陰徳太平記は陶方の総勢を二万七千人とし、先陣が大元で船を下りて塔の岡に上ったと記している。史料綜覧は五月十三日条から陶方が攻めた城を厳島城と書き、七月七日条では厳島宮尾城と書く。本データはこれを宮尾城と同じ城とみている。地御前の毛利勢は、9月23日以後の出陣位置を先に示している。

注陣所の位置は推定表示です(地御前の毛利勢は9月下旬の位置)

地御前と宮尾城

史料綜覧は九月二十三日に元就が地御前に出陣し、ついで熊谷信直に厳島城を救援させたと記す。陰徳太平記は火立岩を本陣とし、海上を兵船百二十余艘が警固したと記している。二宮覚書は二十六日に三家の番衆が要害に入り、二十八日に信直らが島へ渡って戻り、二十九日に翌日の渡海を定めたと書く。陰徳太平記は、同じ二十八日の夜に小早川隆景が熊谷信直父子とともに宮尾城に入ったと記している。村上氏の警固衆については、陰徳太平記が能島・来島ともに元就に味方したとするのに対し、二宮覚書は来島だけを挙げ、秋山伸隆は能島は陶方にいたとする。

注警固船の海上の位置は推定表示です

九月晦日の渡海

二宮覚書は、三十日の夕方に乗船し、船は着いたら廿日市へ戻すよう命じ、黒雲と雷・風波のなかを無事に渡海して、先勢がむくち尾(博奕尾)へ上ったと記す。陰徳太平記は暗夜の雨風のなかを包ヶ浦に上陸したとし、博奕尾の名を勝ちの先表として兵を励ましたと記している。航路は史料に無く、エンジンは船を描かないため、海を越える矢印は出発点と到着点を結んだ推定表示である。夜の出来事だが、時刻は史料に無いため時計と太陽は動かさない。

注航路と山道の矢印は推定表示です

塔の岡の戦い

大内氏実録は十月一日の未明に元就父子が塔岡を衝き、晴賢は不意を突かれて西の山へ走ったと記す。陰徳太平記は、敵は塔の岡から大御堂の間に備えて待ち構え、城中からも隆景が打って出て激しく戦ったと描くが、二宮覚書は塔の岡にも神前にも陶方の姿はなかったと記しており、描き方が大きく異なる。陰徳太平記は海上でも村上勢らが逃れる船を追ったと記している。

注軍記と覚書で戦いの描き方が異なります

陶晴賢の最期

陰徳太平記は小早川隆景が大鳥居の前から大元の谷へ晴賢を追ったと記し、二宮覚書は三浦越中守が峠にとどまって防ぎ戦ったと記す。晴賢は青海苔まで逃れたが渡る船が無かったと、大内氏実録・二宮覚書・陰徳太平記はそろって記している。自刃の地は、大内氏実録が房顕記によって下大江とし、陰徳太平記は青海苔、厳島合戦覚書は塔岡とするなど、書物によって異なると厳島誌は述べている。

注陶晴賢の自刃の地には諸説があります

弘中隆兼、竜の馬場

陰徳太平記は、弘中三河守父子が弥山に向かい合う峰の竜の馬場に上って戦死を期し、吉川元春が五百騎ほどで攻め上ったと記す。二宮覚書は、弘中が三百ほどで竜の馬場に籠り、家中の者が退いた跡で父子が自害したと書く。県立広島大学の講座案内は、秋山伸隆の講義として弘中が駒が林を目指したと紹介している。二宮覚書は、山に隠れた陶方の者を探し出し、三千余りを島の外へ渡したとも記している。

注竜の馬場の位置は推定範囲です

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

軍記と通説の合戦像(陰徳太平記・宮島観光協会の紹介)既定表示

要旨(冒頭の「既定説の要旨」と同文)

陰徳太平記は、元就が厳島に城を築いて陶晴賢の大軍を島へ誘い込み、九月晦日の暴風雨の夜に渡海して、博奕尾から塔の岡の陶の本陣を襲ったと記している。同書は陶方を二万七千人、毛利方を三千五百余騎とし、能島・来島の村上氏が毛利方に加わったとする。宮島観光協会も、陶軍二万・毛利軍三千五百、囮の城、暴風雨の中の奇襲という像で紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にし、兵数は陰徳太平記が隊ごとに記す三隊(吉川元春・宮尾城・弘中隆兼)だけを示している。

よりどころ
[3]陰徳太平記 合本2(巻19-38) / [8]厳島合戦(歴史)
注記(この説の扱い)

陰徳太平記は合戦から約140年後の元禄期に成った軍記である。長谷川泰志は、囮城・調略・村上海賊・嵐の夜・陶の油断の要素が関ヶ原の後の毛利家中の覚書の段階で出そろい、兵力差と大義名分はさらに後に加わったと論じている。通説として紹介するにとどめ、史実として断定しない。

秋山伸隆らの再検討(長谷川泰志論文と県立広島大学の講座案内による紹介)

長谷川泰志の紹介によれば、秋山伸隆は、毛利方の戦力は五千人をはるかに上回り陶方は一万に達しなかったとみるべきだとし、房顕覚書によれば宮尾の城は合戦以前からあったこと、能島村上氏は合戦の前後に陶方に属しており毛利方として来援した事実はないことを指摘している。県立広島大学の講座案内でも、謀略と奇襲で勝ったという理解に対して、新たな史料の紹介で合戦のイメージが変わりつつあると紹介している。この読み方では部隊ごとの兵数を示さず、能島村上氏の警固衆を毛利方の海上の位置に置かない。

よりどころ
[6]厳島合戦と軍記物語―毛利氏関係軍記を中心に― / [7]令和元年度(2019年度)県立広島大学公開講座案内
提示
2010年
注記(この説の扱い)

秋山伸隆の原論文(『宮島学センター年報』1号 2010年、『宮島学』2014年)と『歴史研究』737号の論考は本データでは入手しておらず、長谷川論文の引用・紹介と講座案内の範囲で扱う。存命の研究者の見解として、敬意をもって中立に紹介する。位置や経過は両方の読み方で同じ史料(史料綜覧・二宮覚書・大内氏実録など)に拠っている。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。各行は表示中の説(軍記・通説)の値で、 他の説の値は行内に畳んでいます(切替は採用説の切替から)。凡例:史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

時系列

史料は時刻を伝えていないため順序のみ。出来事は史料の記す前後関係の順に並べ、時刻の記載がない出来事は時刻欄を空けています。章を開くと出来事と説明が読めます。

  1. 第一章陶晴賢、厳島に渡る出来事 7 件
    1. 〔5月13日〕陶の兵、厳島城を攻める(史料綜覧)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [1]史料綜覧 巻10(以下 4 件も同じ)

    2. 〔6月8日〕元就、厳島城の修築に出陣。陶の兵は大野口で敗れる(史料綜覧)
    3. 〔7月7日〕陶の兵、宮尾城を攻める(史料綜覧)
    4. 〔7月10日〕陶晴賢、三浦房清に仁保島城を攻めさせるが勝てず(史料綜覧)
    5. 陶晴賢、厳島に渡り宮崎に陣す(史料綜覧)
    6. 時刻不詳(順序のみ)陶方の先陣、大元で船を下り塔の岡に上る(陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)(以下 1 件も同じ)

    7. 時刻不詳(順序のみ)三浦越中守、宮尾城の尾頸へ押し寄せる(陰徳太平記)
    この章の出来事の説明(7 件)
    〔5月13日〕陶の兵、厳島城を攻める(史料綜覧)
    史料綜覧は翌日に毛利隆元が草津へ出陣したと記す。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。合戦の136日前の出来事で、どの章にも割り当てていない。
    〔6月8日〕元就、厳島城の修築に出陣。陶の兵は大野口で敗れる(史料綜覧)
    陰徳太平記も六月八日に敵船三艘が大野口に来たと記す。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。合戦の112日前の出来事で、どの章にも割り当てていない。
    〔7月7日〕陶の兵、宮尾城を攻める(史料綜覧)
    史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。合戦の83日前の出来事で、どの章にも割り当てていない。
    〔7月10日〕陶晴賢、三浦房清に仁保島城を攻めさせるが勝てず(史料綜覧)
    仁保島は本データの地形範囲の外にあるため、3D上の移動は置いていない。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。合戦の80日前の出来事で、どの章にも割り当てていない。
    陶晴賢、厳島に渡り宮崎に陣す(史料綜覧)
    大内氏実録と厳島誌は陣所を塔岡とし、陰徳太平記は陶方の総勢を二万七千人と記す。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。
    陶方の先陣、大元で船を下り塔の岡に上る(陰徳太平記)
    陰徳太平記は陶入道がまず多宝塔のあたりに控え、のちに塔の岡へ本陣を移したと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    三浦越中守、宮尾城の尾頸へ押し寄せる(陰徳太平記)
    大内氏実録は、これより先に晴賢が兵を遣わして宮尾城を攻めさせたが落とせなかったと記す。日付は陰徳太平記にも無く、9月21日の章の中に順序だけで置いた。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
  2. 第二章地御前と宮尾城出来事 9 件
    1. 弘中隆兼、遅れて着陣し博奕尾に陣を取る(陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    2. 元就、地御前に出陣する(史料綜覧)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [1]史料綜覧 巻10(以下 1 件も同じ)

    3. 時刻不詳(順序のみ)熊谷信直、厳島城の救援に向かう(史料綜覧。本データは宮尾城とみる)
    4. 時刻不詳(順序のみ)来島村上氏の警固衆、毛利方に加わる(二宮覚書・陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [2]大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集

    5. 時刻不詳(順序のみ)能島村上氏も元就に味方する(陰徳太平記)

      軍記・通説/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    6. 三家の番衆、浦兵部の案内で要害に入る(二宮覚書)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [2]大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集(以下 1 件も同じ)

    7. 熊谷信直・天野隆重ら、島へ渡って夜に戻る(二宮覚書)
    8. 小早川隆景、熊谷信直父子とともに宮尾城に入る(陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    9. 二十九日、内談して翌日の渡海を定める(二宮覚書)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [2]大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集

    この章の出来事の説明(9 件)
    弘中隆兼、遅れて着陣し博奕尾に陣を取る(陰徳太平記)
    陰徳太平記は陶の着陣の二日後と記すため、9月23日に置いた。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。
    元就、地御前に出陣する(史料綜覧)
    陰徳太平記は九月下旬に地御前の火立岩を本陣としたと記し、厳島誌は二十四日に草津に来て、のち外宮の辺りの火立山に陣を移したと記す。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。
    熊谷信直、厳島城の救援に向かう(史料綜覧。本データは宮尾城とみる)
    史料綜覧は「尋デ」(ついで)と記し、日付を示さない。救援先の厳島城を宮尾城とみるのは本データの読み方である(claim c_ev_may13 の note)。二宮覚書は二十八日に信直らが島へ渡って夜に戻ったと記し、陰徳太平記は同じ二十八日の夜に熊谷伊豆守父子が隆景とともに城に入ったと記しており(claim c_ev_takakage_enters)、描き方が異なる。移動の矢印と所要は制作上の補間である。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    来島村上氏の警固衆、毛利方に加わる(二宮覚書・陰徳太平記)
    二宮覚書は隆景が来島に頼んだと記し、陰徳太平記は来島(久留島)の通康らが元就に味方したと記す。日付は示されていない。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    能島村上氏も元就に味方する(陰徳太平記)
    この読み方でだけ置く出来事。秋山伸隆は能島村上氏が毛利方として来援した事実はないとする(再検討の読み方)。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    三家の番衆、浦兵部の案内で要害に入る(二宮覚書)
    二宮覚書は月を「十一月」と書くが、二十六日から三十日の渡海までを続けて書くため、9月26日に置いた(制作上の解釈)。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。
    熊谷信直・天野隆重ら、島へ渡って夜に戻る(二宮覚書)
    二宮覚書は二十九日に内談して三十日の渡海を決めたと続ける。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。
    小早川隆景、熊谷信直父子とともに宮尾城に入る(陰徳太平記)
    陰徳太平記は二十八日の夜、浦兵部丞の案内でひそかに漕ぎ渡ったと記す。同じ日を二宮覚書は、信直らが島へ渡って夜に戻った日と書く。航路は史料に無く、矢印は出発点と宮尾城の推定範囲を結んだ推定表示である。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。
    二十九日、内談して翌日の渡海を定める(二宮覚書)
    陰徳太平記は、元就が前日終日評定して三十日の夜の渡海と十月朔日の卯の刻の一戦を定めたと記す。史料はこの出来事の時刻を伝えないため、t_min は日付と前後関係だけを表す(time_base.clock_mode=unknown)。
  3. 第三章九月晦日の渡海出来事 7 件
    1. 時刻不詳(順序のみ)毛利勢、夕方に乗船する(二宮覚書・陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [2]大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集(以下 1 件も同じ)

    2. 時刻不詳(順序のみ)黒雲と風雨のなか渡海する(二宮覚書・陰徳太平記)
    3. 時刻不詳(順序のみ)毛利勢、包ヶ浦に上陸し、船を廿日市へ返す(陰徳太平記・二宮覚書)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    4. 時刻不詳(順序のみ)陶方の見張り、陣屋に入り渡海に気づかない(二宮覚書)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [2]大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集(以下 2 件も同じ)

    5. 時刻不詳(順序のみ)先勢、博奕尾(むくち尾)に上る(二宮覚書・陰徳太平記)
    6. 時刻不詳(順序のみ)朝の六つを待たず鬨の声が上がる(二宮覚書・陰徳太平記)
    7. 時刻不詳(順序のみ)弘中らの陣、博奕尾を去って塔の岡へ集まる(陰徳太平記・二宮覚書)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    この章の出来事の説明(7 件)
    毛利勢、夕方に乗船する(二宮覚書・陰徳太平記)
    二宮覚書は夕の六つ頃、陰徳太平記は酉の刻に乗船したと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    黒雲と風雨のなか渡海する(二宮覚書・陰徳太平記)
    航路は史料に無い。矢印は地御前と包ヶ浦を直線で結んだ制作上の補間である。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    毛利勢、包ヶ浦に上陸し、船を廿日市へ返す(陰徳太平記・二宮覚書)
    二宮覚書は船が着いたら一艘残らず廿日市へ戻すよう命じたと記し、厳島誌は包浦に上って船を返し決死を示したと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    陶方の見張り、陣屋に入り渡海に気づかない(二宮覚書)
    陰徳太平記も、島の者は今夜敵が渡るとは思いもよらなかったと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    先勢、博奕尾(むくち尾)に上る(二宮覚書・陰徳太平記)
    陰徳太平記は元就が尾根の名を尋ね、博奕尾と聞いて勝ちの先表だと兵を励ましたと記す。到着点は博奕尾の推定範囲の中に置いた。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    朝の六つを待たず鬨の声が上がる(二宮覚書・陰徳太平記)
    二宮覚書は朝の六つに攻める下知だったとし、陰徳太平記は卯の刻と定めていたと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    弘中らの陣、博奕尾を去って塔の岡へ集まる(陰徳太平記・二宮覚書)
    陰徳太平記は弘中が大和・三浦にも塔の岡へ集まるよう申し送ったと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
  4. 第四章塔の岡の戦い出来事 7 件
    1. 時刻不詳(順序のみ)元就父子、塔の岡を衝く(大内氏実録・陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [4]大内氏実録 巻第18-28

    2. 時刻不詳(順序のみ)城中から隆景も打って出る(陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    3. 時刻不詳(順序のみ)〔二宮覚書〕塔の岡にも神前にも陶方の姿はなかったと記す

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [2]大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集

    4. 時刻不詳(順序のみ)元春、弘中を滝小路へ退かせる。弘中は大聖院の上へ(陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    5. 時刻不詳(順序のみ)陶方崩れ、晴賢は大元へ退く(大内氏実録・陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [4]大内氏実録 巻第18-28

    6. 時刻不詳(順序のみ)毛利方・来島の船、逃れる陶方の船を追う(陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    7. 時刻不詳(順序のみ)能島の船も追撃に加わる(陰徳太平記)

      軍記・通説/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    この章の出来事の説明(7 件)
    元就父子、塔の岡を衝く(大内氏実録・陰徳太平記)
    大内氏実録は十月一日未明、陰徳太平記は夜明けとともに総軍が鬨を上げて攻めかかったと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    城中から隆景も打って出る(陰徳太平記)
    厳島誌も宮尾の城兵が出て戦ったと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    〔二宮覚書〕塔の岡にも神前にも陶方の姿はなかったと記す
    陰徳太平記は、敵は塔の岡から大御堂の間に備えて待ち構え、激しく戦ったと記しており、描き方が異なる。3Dの状態表示は陰徳太平記の交戦の描き方に拠っている。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    元春、弘中を滝小路へ退かせる。弘中は大聖院の上へ(陰徳太平記)
    厳島誌は隆兼が滝町に陣して吉川元春の兵と戦ったと記す。滝小路の位置は特定せず、到着点は大聖院(国土地理院 地名検索)の推定範囲に置いた。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    陶方崩れ、晴賢は大元へ退く(大内氏実録・陰徳太平記)
    大内氏実録は晴賢が不意を突かれて西の山を指して走ったと記す。到着点は大元(文化遺産オンラインの大元神社本殿の所在地)の推定範囲に置いた。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    毛利方・来島の船、逃れる陶方の船を追う(陰徳太平記)
    陰徳太平記は能島・来島・因島の村上勢や浦・赤川らの船が追い討とうとしたと記す。到着点は大元の沖の海上に置いた推定表示である。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    能島の船も追撃に加わる(陰徳太平記)
    この読み方でだけ置く出来事。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
  5. 第五章陶晴賢の最期出来事 5 件
    1. 時刻不詳(順序のみ)隆景、大鳥居の前から大元の谷へ晴賢を追う(陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    2. 時刻不詳(順序のみ)三浦房清、峠で防ぎ戦い討たれる(二宮覚書・大内氏実録)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [2]大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集

    3. 時刻不詳(順序のみ)大和興武、捕らえられる(陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)

    4. 時刻不詳(順序のみ)晴賢、青海苔浦に至るが船が無い(大内氏実録・二宮覚書・陰徳太平記)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [4]大内氏実録 巻第18-28

    5. 時刻不詳(順序のみ)陶晴賢、自刃する(場所は大江浦・青海苔浦・塔岡など諸説)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [5]厳島誌

    この章の出来事の説明(5 件)
    隆景、大鳥居の前から大元の谷へ晴賢を追う(陰徳太平記)
    大内氏実録も小早川隆景が晴賢を追い、ほとんど捕らえるところだったと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    三浦房清、峠で防ぎ戦い討たれる(二宮覚書・大内氏実録)
    大内氏実録は三浦越中守が防戦して死んだと記し、陰徳太平記は隆景と戦ったのち討たれたと記す。峠の位置は特定していない。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    大和興武、捕らえられる(陰徳太平記)
    陰徳太平記は香川光景らと戦ったのち捕らえられたと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    晴賢、青海苔浦に至るが船が無い(大内氏実録・二宮覚書・陰徳太平記)
    到着点は国土地理院の注記「青海苔浦」の推定範囲に置いた。大元から山を越える道筋は示さない。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    陶晴賢、自刃する(場所は大江浦・青海苔浦・塔岡など諸説)
    大内氏実録は下大江、陰徳太平記は青海苔、厳島合戦覚書は塔岡とし、二宮覚書は山へ入って果てたと記す。3Dでは最後の移動先(青海苔浦の推定範囲)で倒れる表示にしている。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
  6. 第六章弘中隆兼、竜の馬場出来事 5 件
    1. 時刻不詳(順序のみ)弘中隆兼父子、弥山の竜の馬場に籠る(陰徳太平記・二宮覚書)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [3]陰徳太平記 合本2(巻19-38)(以下 1 件も同じ)

    2. 時刻不詳(順序のみ)吉川元春、竜の馬場の弘中を攻める(陰徳太平記)
    3. 時刻不詳(順序のみ)弘中隆兼父子、自害する(二宮覚書)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [2]大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集(以下 1 件も同じ)

    4. 時刻不詳(順序のみ)山に隠れた陶方の者を探し出し、三千余りを島の外へ渡す(二宮覚書)
    5. 時刻不詳(順序のみ)晴賢の首を廿日市の洞雲寺に葬る(大内氏実録)

      軍記・通説・近年の再検討/ 史料の記載/ 典拠: [4]大内氏実録 巻第18-28

    この章の出来事の説明(5 件)
    弘中隆兼父子、弥山の竜の馬場に籠る(陰徳太平記・二宮覚書)
    県立広島大学の講座案内(秋山伸隆)は弘中が駒が林を目指したと紹介している。到着点は弥山と駒ヶ林を含む推定範囲に置いた。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    吉川元春、竜の馬場の弘中を攻める(陰徳太平記)
    陰徳太平記は元春が五百騎ほどで攻め上ったとし、翌二日の朝からは弘中方の気力も緩んだと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    弘中隆兼父子、自害する(二宮覚書)
    二宮覚書は家中の者が退いた跡で父子が被官一人を供に自害したと記す。日付は本データの読んだ範囲では確定していない。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    山に隠れた陶方の者を探し出し、三千余りを島の外へ渡す(二宮覚書)
    陰徳太平記も二日に吉川勢が山中を捜索した場面を記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。
    晴賢の首を廿日市の洞雲寺に葬る(大内氏実録)
    洞雲寺は本データの地形範囲の外にある。厳島誌は元就が翌二日に兵を桜尾に収めたと記す。日付の中の前後関係だけを示す出来事(order_only)で、t_min は並び順のための値である。

凡例と注記 — この図の読み方

読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

本文中の典拠番号 [n] は、下の「出典一覧」の同じ番号の文献を指します。 3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、切替をしない限り既定説の配置を表示します。

陣営
  • 毛利方毛利方(毛利元就と一族・国衆・警固衆)
  • 陶方陶方(陶晴賢の率いる大内勢)
  • 能島村上氏能島村上氏(去就に諸説)
日付・場所・地形データ・利用条件・データ出典(この図の注記)
日付について

弘治元年10月1日(グレゴリオ暦 1555-10-26)

和暦は史料綜覧の弘治元年十月一日条による(同書は同月二十三日に弘治と改元したと記すため、合戦の時点の年号は天文二十四年にあたる)。西暦は制作上の換算で、同書の記載ではない。同書が十月の朔日を癸亥と示すことに対し、ユリウス暦1555年10月16日の日の干支が癸亥であること(九月朔日の癸巳もユリウス暦9月16日と一致すること)を確かめ、グレゴリオ暦(先発)へは10日を加えて1555年10月26日とした。

場所

広島県 廿日市市宮島町(厳島)と対岸の地御前・大野一帯(安芸国)

地形

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

現代地形を使用しています(当時の海岸線・干潟・浦・植生・道は異なる場合があります)

海域は標高タイルの無効値を海面0mで補った表示であり、水深・海岸線の実測ではありません。

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

利用条件

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

タイルセットの詳細

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。2026-09-11の国土地理院回答により、本プロジェクトが照会した統合DEMの複製保存・動画掲載・Web表示について測量法の手続きは不要と確認した。回答の適用範囲と産総研側の利用条件は docs/external_evidence/gsi_reply_20260911.md を参照する。

データ

経過・日付: 東京帝国大学文学部史料編纂所編『史料綜覧 巻10』(1938) / 覚書: 『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集』所収「二宮俊實覺書」(1932) / 軍記: 『陰徳太平記』(犬山仙之助版 1911) / 考証: 近藤清石『大内氏実録』(1885)・重田定一『厳島誌』(1910) / 研究の紹介: 長谷川泰志「厳島合戦と軍記物語」(2018)・県立広島大学公開講座案内(2019) / 座標: 国土地理院 地名検索API・標高API、文化遺産オンライン

兵力・布陣・経過には諸説があります。本作は、陰徳太平記などの軍記と宮島観光協会の紹介に拠る通説の合戦像と、秋山伸隆らの再検討(長谷川泰志論文と県立広島大学の講座案内による紹介)を切り替えて表示します。部隊ごとの兵数を史料が示さない隊は兵力不詳、位置を特定できない場所(博奕尾・竜の馬場など)は推定範囲で示し、時刻は史料に無いため表示していません。船は描かず、海上の警固衆は隊列の記号で示しています。

出典一覧

出典一覧(全 13 件)を開く本文の典拠番号 [n] はこの一覧の番号です
  1. 東京帝国大学文学部史料編纂所 編 『史料綜覧 巻10』

    内閣印刷局朝陽会/1938年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション pid 1150985(IIIF manifest のタイトル「史料綜覧.巻10」、出版年 昭11至13、請求記号 14.9-9、公開区分 PDM、全419コマ)。弘治元年三月〜十月の条 404〜413頁(コマ207〜211)。

    大日本史料の骨子として編まれた編年の綱文集で、各条に典拠史料名を挙げる。本文はNDL全文テキストAPIのOCRで取得し、2026-09-24にClaude(AI照合、DECISIONS D-015)が月の見出し(朔日の干支と大小)・各条・典拠名をIIIF画像で確かめた。

  2. 東京帝国大学文学部史料編纂所 編 『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集』

    東京帝国大学/1932年 / 古文書/ 一次史料 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション pid 1915661(IIIF manifest のタイトル「大日本古文書.家わけ九 別集」、出版年 昭和7、請求記号 GB22-5、公開区分 PDM、全437コマ)。二宮家舊藏文書 五六一「二宮俊實覺書」のうち厳島合戦の段 398〜400頁(コマ255〜256)。

    吉川元春の家臣二宮俊実(佐渡守)の覚書の翻刻。合戦に加わった側の回想だが、長谷川泰志によれば関ヶ原の後(慶長8年〈1603〉以前)に吉川広家の命で書かれた元就の一代記で、合戦から約半世紀後の記述である。2026-09-24にClaude(AI照合、D-015)がIIIF画像で本文と編者の傍注を読んだ。

  3. 香川正矩 編・尭真 補遺 『陰徳太平記 合本2(巻19-38)』

    犬山仙之助/1911年 / 編纂史料/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション pid 772377(IIIF manifest のタイトル「陰徳太平記.合本2(巻19-38)」、出版年 明44.5、請求記号 特20-703、公開区分 PDM、全211コマ)。目次(コマ5)、巻第二十五〜第二十八(コマ67〜94)。

    毛利氏関係の軍記。長谷川泰志によれば香川宣阿がまとめ元禄8年(1695)の自序を持つ。合戦から約140年後の編纂物で、合戦像を語る軍記として扱う(theory tsusetsu の根拠)。明治44年の活字本は印刷がかすれた箇所が多く、全文テキストも崩れているため、引用は崩れていない行だけに限り、2026-09-24にClaude(AI照合、D-015)がIIIF画像で確かめた。

  4. 近藤清石 編 『大内氏実録 巻第18-28』

    中元荘作ほか/1885年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション pid 780387(IIIF manifest のタイトル「大内氏実録.巻第18-28」、出版年 明18.3-10、請求記号 1-106、公開区分 PDM、全76コマ)。巻第二十八 陶晴賢の伝 58頁(コマ60)。

    明治期の大内氏家臣団の考証的な伝記集で、記事ごとに房顕記(棚守房顕の手記)・言延覚書・吉田物語などの典拠を注記する。本データは房顕記に拠る記述の所在として用いる。2026-09-24にClaude(AI照合、D-015)がIIIF画像で確かめた。

  5. 重田定一 著 『厳島誌』

    金港堂/1910年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション pid 766061(IIIF manifest のタイトル「厳島誌」、出版年 明43、請求記号 328-299、公開区分 PDM、全154コマ)。総説 7〜8頁(コマ40〜41)。ほかに claim c_pos_miyao_coord の note で「要害鼻」の項(コマ105)に触れる。

    明治43年の厳島の地誌・史論。合戦の経過と、晴賢自刃の地についての諸書の食い違いをまとめている。本文は全文テキストで取得し、2026-09-24にClaude(AI照合、D-015)がIIIF画像で読んだ(全文テキストの崩れが大きい行は引用せず要約した)。

  6. 長谷川泰志 『厳島合戦と軍記物語―毛利氏関係軍記を中心に―』

    広島経済大学経済学会/2018年 / 論文/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    『広島経済大学研究論集』41巻2号、2018年9月、17〜27頁(PDF 1〜11頁)。

    全11頁の本文を2026-09-24にClaude(AI照合、D-015)が読んだ(PDFのテキスト層)。本文・図表は転載せず、要約して claim に書いた。秋山伸隆の再検討は本論文の引用・紹介の範囲で扱う。

  7. 県立広島大学 『令和元年度(2019年度)県立広島大学公開講座案内』

    県立広島大学/2019年 / ウェブ/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    18頁(PDF 20頁)広島地域連携センター開講講座 No.15「厳島合戦再考 -これが合戦の実像だ-」(講師 秋山伸隆、全6回の概要)。

    講座の案内に載った講義概要で、論文や講義そのものではない。2026-09-24にClaude(AI照合、D-015)がPDFの該当頁を読んだ。

  8. 一般社団法人宮島観光協会 『厳島合戦(歴史)』

    2026年 / ウェブ/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「厳島合戦」ページ本文(2026-09-24 取得)。

    宮島の観光協会による紹介で、通説の合戦像(奇襲・囮の城・兵力差)を示す例として用いる。画像・地図は転載していない。

  9. 廿日市市 『阿品の概要(阿品市民センター)』

    2021年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    ページID 0072254、掲載日 2021年9月14日更新。火立岩の段落。

    廿日市市の公式サイト(阿品市民センター)。2026-09-24 に取得した本文を要約した。

  10. 文化庁 『文化遺産オンライン(厳島神社五重塔・摂社大元神社本殿・多宝塔・末社豊国神社本殿)』

    2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    heritages/detail/157715(五重塔)・202109(大元神社本殿)・187326(多宝塔)・146878(千畳閣)の「所在地の地図」の緯度経度(2026-09-24 取得)。

    国土地理院の地名検索で得られない塔の岡・大元・多宝塔の座標化にだけ用いた。建物の所在地であり、合戦の陣所の位置を示すものではない。

  11. 国土地理院 『国土地理院 地名検索API(地理院地図の地名・注記データ)』

    2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2026-09-24 の問い合わせ語と返り値: 「厳島神社」→ 北緯34.2957765316667/東経132.319870533333、「包ヶ浦」→ 北緯34.29391933/東経132.3406865(字の代表点)と 北緯34.2962864420551/東経132.341790212207(注記)、「弥山」→ 北緯34.2796127696103/東経132.319667、「駒ヶ林」→ 北緯34.2814737696031/東経132.314333、「大聖院」→ 北緯34.2921026841667/東経132.316628055556、「地御前」→ 北緯34.332172/東経132.301331(広島県廿日市市地御前)、「阿品」→ 北緯34.32869/東経132.317505(広島県廿日市市阿品)、「宮島口」→ 北緯34.312626/東経132.304245、「大野」→ 注記「大野瀬戸」北緯34.2847258347263/東経132.284680884249、「青海苔浦」→ 北緯34.248673307549/東経132.307611345378、「須屋浦」→ 北緯34.2565069520122/東経132.26590511136、「大鳥居」→ 北緯34.2973503047222/東経132.3164227725、「厳島」→ 注記「厳島港」北緯34.3057109261111/東経132.322424969722。「宮尾城」「要害山」「塔の岡」「五重塔」「大元神社」「博奕尾」「大江浦」「火立岩」は宮島・対岸の該当を返さなかった。

    座標化にだけ用いた。返り値は住所や注記の代表点であって、陣所や遺構の中心点ではない。返り値は寄せ処理をせずにそのまま使っている。

  12. 国土地理院 『国土地理院 標高API・標高タイル(DEM5A)』

    2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2026-09-24 に getelevation.php(outtype=JSON)で地点の標高(1mレーザ・5mレーザ)を、標高タイル dem5a_png(z15)で宮島北岸の起伏を読んだ。海上では標高値が返らない。

    宮尾城跡の推定範囲の中心、警固船を置く海上の地点、地名ラベルの標高を決めるためにだけ用いた。現代の測量値であり、当時の地形を表さない。

  13. 戎光祥出版 『歴史研究737号 【特集】厳島合戦――毛利氏の躍進を決定づけた戦い(商品ページ)』

    戎光祥出版/2025年 / ウェブ/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    目次と紹介文(ISBN 978-4-86403-606-1、販売開始日 2025/12/26。2026-09-24 取得)。

    版元の商品ページ。所収論考の本文は入手していないため、内容に基づく claim は置かず、刊行と目次・紹介文だけを claim にした。

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    歴史研究 第737号

    戎光祥出版/戎光祥出版/2025-12/ISBN 9784864036061

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