陰徳太平記は、元就が厳島に城を築いて陶晴賢の大軍を島へ誘い込み、九月晦日の暴風雨の夜に渡海して、博奕尾から塔の岡の陶の本陣を襲ったと記している。同書は陶方を二万七千人、毛利方を三千五百余騎とし、能島・来島の村上氏が毛利方に加わったとする。宮島観光協会も、陶軍二万・毛利軍三千五百、囮の城、暴風雨の中の奇襲という像で紹介している。本データはこの読み方を既定の表示にし、兵数は陰徳太平記が隊ごとに記す三隊(吉川元春・宮尾城・弘中隆兼)だけを示している。
厳島の戦いの布陣図と地形 — 宮尾城・博奕尾と新説を読む
この合戦を一言で
厳島の戦いは、弘治元年十月一日(1555年)に、毛利元就が隆元・小早川隆景・吉川元春らを率いて安芸の厳島で陶晴賢を襲い、晴賢が敗れて自殺したと『史料綜覧』巻10が記す出来事です。同書は同じ年の十月二十三日に弘治と改元したとも記しており、合戦の日は改元前の天文二十四年にあたるとされます。出典:史料綜覧 巻10 図では、同書の記す厳島と地御前を現在の地名に当て、広島県廿日市市宮島町(厳島)と対岸の地御前・大野一帯を表示しています(地名の対応は本ページの整理です)。出典:国土地理院 地名検索
このページでは、軍記と観光案内が伝える「囮の城と嵐の夜の奇襲」という通説の合戦像と、秋山伸隆らによる近年の再検討を切り替えて比べられます。まず厳島の戦いのインタラクティブ布陣図で島と対岸の位置関係をつかんでから、以下の解説を読んでください。
地形を読む — 宮島と対岸の現代地形
立体図の地形は現代の標高データを使った表示です。弘治元年当時の海岸線・干潟・埋立地や浦の形とは異なる可能性があり、海や島の地形は舞台として示すにとどめています。画面で海が狭く見えることや、山が高く見えることから勝敗を説明することはしていません。
対岸の本陣の目安になるのは、陰徳太平記が元就の本陣とする地御前の火立岩という小山です。廿日市市は、国道2号と西広島バイパスが交差する辺り(阿品)にかつて火立岩という岩山があったと紹介しています。出典:阿品の概要
島側では、重田定一の厳島誌が、宮尾城は小浦の南方の要害鼻にあったと記します。宮尾城跡の座標は地名検索では得られませんでした。そこで国土地理院の標高データで厳島港の南の海岸に並ぶ標高およそ25〜41mの小丘三つを確かめ、その範囲を推定位置として示しています。出典:厳島誌
布陣 — 厳島の戦いの布陣図に置いた位置
陶方について、史料綜覧は九月二十一日に陶晴賢が安芸の黒瀧から厳島へ渡り「宮崎」に陣したと記します。宮崎の現在地は特定していません。大内氏実録は晴賢が塔岡に陣したとし、陰徳太平記は多宝塔のあたりに控えたのちに塔の岡へ本陣を移したと記しています。図では、文化遺産オンラインが示す厳島神社五重塔の所在地を塔の岡の目安にしました。これは建物の所在地であって、陣所の中心点ではありません。出典:大内氏実録
陰徳太平記は、三浦越中守と大和伊豆守の二千余人が大元で船を下りて塔の岡に上り、弘中三河守(隆兼)が博奕尾に陣を据えたと記します。吉川家文書別集に収める二宮覚書も「むくち尾」に弘中の陣があったと書いています。博奕尾の現在地は特定できていません。図では、包ヶ浦と塔の岡を結ぶ線の中点を中心とする推定範囲で示しています。出典:陰徳太平記
毛利方は、元就の隊を地御前の火立岩の推定範囲に、宮尾城の城兵を島北岸の推定範囲に置きました。史料綜覧は、元就がこの年の春に厳島の宮尾に城を築き、己斐豊後守らに守らせたと記します。海上については、陰徳太平記が毛利方の浦兵部丞宗勝(乃美宗勝)らの兵船を百二十余艘、陶方の兵船を千余艘と記しますが、位置を示す史料はありません。警固船は地御前の沖と大元の沖に置いた制作上の補間です。
どの隊も史料は緯度経度を示しておらず、図の座標はすべて制作上の補間です。移動の矢印も出発点と到着点を直線で結んだ表示です。渡海の航路や山道の道筋は示していません。
通説の読み方で数値を出すのは、陰徳太平記が隊ごとに記す三つ、吉川元春の隊(新庄勢一千余騎)、宮尾城(究竟の兵三百余人)、弘中隆兼の隊(五百騎)だけで、ほかの隊は兵力不詳です。再検討の読み方では、秋山伸隆の見解が両軍全体の規模を述べるものであることから、全隊を兵力不詳としています。
時系列 — 九月晦日の渡海から十月一日の朝へ
史料綜覧は、五月十三日に陶晴賢の兵が厳島城を攻め、七月七日には厳島宮尾城を攻めたと記します(本稿は両者を同じ宮尾城とみます)。九月二十一日の陶の渡海ののち、同書は二十三日に元就が地御前に出陣し、ついで熊谷信直に厳島城を救援させたと記しています。
二十八日については史料で描き方が異なります。二宮覚書は熊谷信直・天野隆重らが島へ渡って夜に戻り、二十九日の内談で三十日の渡海を決めたと書きます。陰徳太平記は、二十八日の夜に小早川隆景が熊谷父子とともに宮尾城へ入ったと記しています。図では両方の記述を並べて置いています。出典:吉川家文書別集
二宮覚書は、三十日の夕方の六つ頃に乗船し、黒雲が出て雷と風波に見舞われたものの無事に渡海したと記します。陰徳太平記も九月晦日の夜は暗く雨風が激しかったと描き、厳島誌は島の東北の包浦に上って博奕尾を越え、明け方に陶の陣を襲ったと記しています。先勢がむくち尾(博奕尾)へ上ると、朝の六つ(陰徳太平記は卯の刻)の攻撃を待たずに掛け声がそのまま鬨の声になったと、二宮覚書と陰徳太平記はともに書いています。
大内氏実録は元就父子が未明に塔岡を衝き、晴賢は戦うまでもなく西の山を指して走ったと記します。二宮覚書は塔の岡にも神前にも一人もいなかったと書き、陰徳太平記は塔の岡から大御堂の間に備えた陶方と激しく戦ったと描きます。史料の多くは時刻を示していません。図の時間軸は、日付と出来事の順序を追う目安として読んでください。
通説と新説 — 囮の城・村上氏・兵力差
通説の像は、陰徳太平記に多くを負っています。同書は、元就が厳島に城を築けば陶は謀にかかって島へ渡ると考えたこと、重臣の桂元澄に内通を装わせたことを記し、陶方を二万七千人、地御前の毛利方を三千五百余騎とします。宮島観光協会は厳島合戦を日本三奇襲戦の一つとし、陶軍二万に対して毛利軍三千五百が暴風雨の中を包ヶ浦に上陸したと紹介しています。出典:宮島観光協会
長谷川泰志は、この合戦像を大義名分・兵力差・囮城・調略・村上海賊・嵐の夜・陶軍の油断という七つの要素の物語として整理しています。そのうち五つは毛利家中の覚書の段階で出そろい、囮城は元和8年(1622)の桂岌円覚書から始まり、大義名分の枠組みは元文4年(1739)の新裁軍記で確定したと論じています。陰徳太平記は元禄8年(1695)の自序を持つと紹介されています。兵数も一様ではなく、桂岌円覚書は陶を三、四千ほど、味方を三千ほどとし、毛利秀元記は敵を六万余騎、味方を二万余騎とすると長谷川は指摘しています。出典:長谷川泰志 2018
長谷川の紹介によれば、秋山伸隆は、毛利方の戦力は五千人をはるかに上回り、陶方は一万にも達していなかったとみるべきだとしています。また、房顕覚書によれば宮尾の城は合戦以前からあったこと、能島村上氏は合戦の前後に陶方に属しており毛利方として来援した事実はないことを指摘しています。県立広島大学の講座案内も、謀略と奇襲で勝ったという理解に対して、新たな史料の紹介で合戦のイメージが大きく変わりつつあると述べています。出典:県立広島大学 公開講座案内
図では、再検討の読み方に切り替えると能島村上氏の警固衆が毛利方の海上から外れ、位置不詳の扱いになります。秋山の原論文は本データでは入手しておらず、長谷川論文と講座案内の紹介の範囲で扱っています。どちらの読み方にも結論を与えず、根拠の違いを見比べる材料として示しています。
その後 — 晴賢の最期をめぐる諸説
大内氏実録は、晴賢がかろうじて青海苔浦に至ったものの渡る船が一艘もなく、下大江で自殺したと記します。自殺の地について厳島誌は、塔岡とする厳島合戦覚書など、青海苔浦とする吉田物語・陰徳太平記などを挙げたうえで、大内氏実録の大江浦に拠るべきだと述べています。宮島観光協会は大江浦とし、藝州厳島図絵では高安ヶ原とされると添えています。
弘中隆兼について、二宮覚書は弥山の竜の馬場に籠り、父子が自害したと記します。竜の馬場の現在地は特定しておらず、弥山と駒ヶ林を含む推定範囲で示しています。大内氏実録は、晴賢の首を廿日市の洞雲寺に葬らせたと記しています。
もっと知る
厳島合戦を特集した『歴史研究』第737号(2025年12月)は、秋山伸隆「厳島合戦の最新研究」のほか、大内氏から見た厳島合戦、能島・来島・因島の村上氏それぞれの立場を扱う論考を載せています。書誌は関連書籍にまとめています。出典:歴史研究737号
ページ末尾の出典一覧から、史料綜覧・二宮覚書・陰徳太平記などの該当資料を開けます。布陣図と原文を見比べてみてください。