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戦国・3説併記織田・徳川方 対 浅井・朝倉方

姉川の戦いの布陣図

  • 元亀元年6月28日
  • 滋賀県 長浜市野村町・三田町

図1 インタラクティブ3D布陣図

表示中の説: 日本戦史の通説

既定説の要旨 — 通説(参謀本部編『日本戦史 姉川役』1901年) による

参謀本部編『日本戦史 姉川役』(1901)の本文に拠る読み方。同書は、元亀元年六月二十八日の黎明に浅井軍が野村に、朝倉軍が三田村に入り、午前五時から午後二時まで両軍が姉川を挟んで戦ったとし、朝倉勢と徳川勢、浅井勢と織田勢がそれぞれ全面的に戦った末に、徳川勢の側面攻撃と稲葉・氏家・安藤の攻撃で北軍が崩れたという経過を描いている。同書は部隊表で北軍を浅井およそ八千人・朝倉およそ一万人とし、南軍を織田の本軍およそ二万三千人・横山城監視隊およそ五千人・徳川勢およそ六千人としている。江戸時代の軍記『四戦紀聞』も同じ系統の話(家康が朝倉に向かい稲葉通朝だけを借りたこと、織田勢の十三段の備えなど)を記している。本データではこの読み方を既定の表示にしている。

典拠: [1]日本戦史 姉川役 / [3]四戦紀聞 1巻 姉川(江州姉川戦記)

目次
  1. インタラクティブ3D布陣図
  2. 地形と布陣を読む解説
  3. 静止布陣図と説の比較
  4. 章立て
  5. 採用説の切替
  6. 部隊と兵力
  7. 時系列
  8. 凡例と注記 — この図の読み方
  9. 出典一覧
  10. この合戦をもっと読む — 関連書籍

姉川の戦いの布陣図 — 地形・時系列と奇襲とみる新説を比較

この合戦を一言で

姉川の戦いは、元亀元年六月二十八日に、近江の姉川の中流で織田・徳川方と浅井・朝倉方が戦った出来事として記されます。戦場は現在の滋賀県長浜市野村町・三田町の一帯とされます。『日本戦史』の補伝が引く『武家事紀』は、同じ合戦を浅井方と信長方では野村合戦、朝倉方では三田村合戦、徳川方では姉川合戦と呼んだと伝えます。このページでは、参謀本部編『日本戦史 姉川役』の通説、『信長公記』の記述に拠る読み方、太田浩司の見方の三つを切り替えて比べられます。太田は、この合戦が一般に両軍の全面衝突と言われると紹介したうえで、別の見方を示しています。

まず姉川のインタラクティブ布陣図で全体を見てから、以下の解説と出典一覧を往復してください。

地形を読む — 姉川と横山丘陵

図の立体地形は現代の標高データで描いています。元亀元年当時の河道・堤・田畑・集落・街道を復元したものではなく、地形は舞台として示すにとどめ、勝敗の説明には使いません。

姉川の北側に野村・三田の集落があり、南側には横山丘陵が延びています。滋賀県文化財保護協会の記事は、丘陵の最も北の部分を地元で臥龍山、その先端を龍ヶ鼻と呼ぶと紹介し、そこに全長92mの長浜茶臼山古墳があるとしています。『日本戦史』は、横山城を小谷城の東南、姉川の左岸に近い臥龍山の頂にある城と記します。出典:滋賀県文化財保護協会

図の緯度経度はすべて制作上の補間で、史料が座標を示しているわけではありません。地名の位置には、国土地理院の地名検索が地名・注記に返す代表点をそのまま使っています。代表点は区域や注記の代表の位置であり、陣所や遺構の中心ではありません。出典:国土地理院 地名検索

姉川の戦いの布陣図 — 三つの読み方

『日本戦史』は、二十八日の黎明に浅井軍が野村に、朝倉軍が三田村に入り、南軍はすでに姉川の左岸にあったと記します。織田軍は龍ケ鼻から西北に進んで姉川に沿って斜めに布陣し、徳川軍は北に進んで岡山に至ったとします。同書の部隊表は、浅井をおよそ八千人、朝倉をおよそ一万人、織田の本軍をおよそ二万三千人、横山城監視隊をおよそ五千人、徳川方をおよそ六千人としています。同じ本の石高からの算出は浅井をおよそ九千七百余人、朝倉をおよそ二万余人とし、部隊表とは一致しません。同書は隊の順序と大まかな方位を記すだけで、図の配置は本文に沿って並べた推定範囲です。出典:日本戦史 姉川役

『信長公記』は、朝倉の後巻を八千ばかり、浅井を五千ばかり、あわせて一万三千と記します。浅井・朝倉勢は二十八日の未明に野村の郷と三田村の郷へ移って二手に備え、西の三田村口には家康が、東の野村の郷には信長の御馬廻が、さらに東には美濃三人衆が向かったとします。同書は織田方・徳川方の兵数や個々の隊の位置を記さず、この読み方ではそれらを兵力不詳・位置不詳と表示します。出典:信長公記

太田浩司は、浅井が姉川北岸の野村に、朝倉景健が三田村の集落内(三田村氏館跡)に本陣を置いたと述べ、信長の本陣を姉川南岸の「陣杭の柳」、家康の本陣をそこから約800メートル北西の岡山(のちの勝山)としています。長浜市も、三田村氏館跡に朝倉軍の本陣が置かれたと考えています。太田の記事は本陣以外の隊の位置と兵数を示していません。出典:太田浩司「姉川古戦場」

時系列 — 日付と時刻は史料ごとに異なる

『日本戦史』は、信長が六月十九日に岐阜を発ち、二十一日に虎御前山に営し、二十三日に本営を龍ケ鼻へ移し、二十四日に横山城を攻囲したと記します。長政は二十五日に大寄山に陣し、朝倉の兵は二十六日に着き、家康は二十七日に来会して上阪に陣したとします。ただし『四戦紀聞』は家康の着陣を二十三日とし、同書の補伝は二十六日に着いたとする話も収めます。出典:四戦紀聞

当日について『日本戦史』は、戦いが午前五時に始まり午後二時に終わったと記し、『信長公記』は卯の刻に一戦に及んだとします。画面の時計は、どの読み方でも午前五時を起点に同じ刻みで進みます。『日本戦史』の読み方では、同書が記す午前三時・黎明(午前四時頃)・午前五時・午後二時の出来事をその時刻に置いていますが、夜半の出来事と、同書が時刻を記さない途中の出来事の時刻は、前後関係を並べるための制作上の値です。『信長公記』が当日の時刻として記すのは卯の刻だけで、太田の記事は時刻を示していません。この二つの読み方で時計が示す時刻は、卯の刻の出来事(刻の中ほどに置いた)を除いて時刻の主張ではありません。いずれも史料間で一致した確定時刻ではありません。

『日本戦史』の描く経過では、まず朝倉の兵が徳川軍の酒井忠次・小笠原長忠の隊と戦い、押し戻された徳川軍を石川数正の隊が救ったとされます。野村では磯野員昌が阪井政尚の隊を衝き、池田信輝の隊も破られ、森可成の隊がかろうじて支えたとされます。家康が榊原康政らに朝倉軍の右側を衝かせて朝倉軍が大いに敗れ、氏家・安藤の二隊が敵の左翼を撃ち、稲葉通朝が浅井軍の右翼を衝いて浅井軍も大いに敗れたと同書は記します。磯野員昌は氏家・安藤の隊を突き破って南へ帰ったとされます。

通説と新説 — 全面衝突か、本陣への奇襲か

『日本戦史』は、この役の勝敗は全く徳川軍の制するところであったと書き、補伝には『甲陽軍鑑』の同趣旨の記述も収めています。家康が朝倉に向かった経緯にも、『柏崎物語』の話、当日暁に信長が申し送ったとする一説、『四戦紀聞』の稲葉通朝ひとりを請うた話が並びます。

太田は、姉川合戦を浅井長政が横山城包囲網の最北端にいた信長の本陣へ奇襲をしかけた戦いと考えています。その手がかりとして、遠藤直経が信長の首を狙って陣地深くに入り討たれたという逸話と、陣杭の柳より200メートル余り南にある遠藤塚を挙げ、信長の本陣は後退したとみています。遠藤の話は『日本戦史』と『信長公記』にも見えます。徳川勢については、本隊が姉川を渡って「千人斬りの岡」「血原」付近で朝倉軍と交戦し、早々に退いた朝倉軍を小谷城下近くまで追撃したと推定し、家康軍の活躍は江戸時代に過大に語られるようになったとみています。

どちらかを正解と決めるのではなく、どの史料・研究がどの位置と順序を描いているかを切り替えて確かめてください。

その後 — 横山城と古戦場に残るもの

『日本戦史』は、南軍が大寄山と虎御前山の附近まで追ったのち兵を収め、戦後に横山城の守将の請いを許して城を開かせ、木下秀吉を置いたと記します。『信長公記』は、小谷まで五十町を追い討ちして横山へ人数を返し、横山城は降参して木下藤吉郎が入れ置かれたとしますが、その日付は記していません。死者について『日本戦史』は北軍千七百余人、南軍八百余人と伝えられるとし、『信長公記』は宗徒の者千百余を討ち捕ったと記します。

太田は、浅井・朝倉氏の滅亡まで四年かかったことから、この合戦は致命的な敗退ではなかったと考えています。長浜市は野村町付近と三田町付近で両軍が対峙したとされると紹介しており、三田村氏館跡や遠藤塚が古戦場の手がかりとして残ります。出典:長浜市 三田村氏館跡

もっと知る

太田浩司『浅井長政と姉川合戦 増補版』(サンライズ出版)は関連書籍にまとめています。出典:浅井長政と姉川合戦 増補版このページが参照したのは同じ著者の解説記事で、書籍の本文とは照合していません。『日本戦史』の本編と補伝、『信長公記』は性格の異なる史料です。下の出典一覧で原本を別々に確かめてください。

静止布陣図と説の比較

3Dを表示できない環境向け。3Dが動く環境では畳んで表示します。

図2 静止布陣図(平面)と説の比較を開く/閉じる
姉川の戦いの各隊の布陣位置を、地形図の範囲と同じ緯度経度の枠に投影した概略図。地形の起伏は描かれていない。
図2 姉川の戦い 布陣位置の概略(既定説)。地形の起伏は描いていない

元亀元年6月28日、滋賀県長浜市野村町・三田町の姉川一帯(近江国浅井郡・坂田郡)。参謀本部編『日本戦史 姉川役』(1901)の本文に拠る読み方。同書は、元亀元年六月二十八日の黎明に浅井軍が野村に、朝倉軍が三田村に入り、午前五時から午後二時まで両軍が姉川を挟んで戦ったとし、朝倉勢と徳川勢、浅井勢と織田勢がそれぞれ全面的に戦った末に、徳川勢の側面攻撃と稲葉・氏家・安藤の攻撃で北軍が崩れたという経過を描いている。同書は部隊表で北軍を浅井およそ八千人・朝倉およそ一万人とし、南軍を織田の本軍およそ二万三千人・横山城監視隊およそ五千人・徳川勢およそ六千人としている。江戸時代の軍記『四戦紀聞』も同じ系統の話(家康が朝倉に向かい稲葉通朝だけを借りたこと、織田勢の十三段の備えなど)を記している。本データではこの読み方を既定の表示にしている。

説の比較

説要旨よりどころ
通説(参謀本部編『日本戦史 姉川役』1901年)既定表示
1901年提示
参謀本部編『日本戦史 姉川役』(1901)の本文に拠る読み方。同書は、元亀元年六月二十八日の黎明に浅井軍が野村に、朝倉軍が三田村に入り、午前五時から午後二時まで両軍が姉川を挟んで戦ったとし、朝倉勢と徳川勢、浅井勢と織田勢がそれぞれ全面的に戦った末に、徳川勢の側面攻撃と稲葉・氏家・安藤の攻撃で北軍が崩れたという経過を描いている。同書は部隊表で北軍を浅井およそ八千人・朝倉およそ一万人とし、南軍を織田の本軍およそ二万三千人・横山城監視隊およそ五千人・徳川勢およそ六千人としている。江戸時代の軍記『四戦紀聞』も同じ系統の話(家康が朝倉に向かい稲葉通朝だけを借りたこと、織田勢の十三段の備えなど)を記している。本データではこの読み方を既定の表示にしている。日本戦史 姉川役/四戦紀聞 1巻 姉川(江州姉川戦記)
『信長公記』の記述に拠る読み方
1881年提示
太田牛一『信長公記』巻三の記述に拠る読み方。同書は、朝倉の後巻を八千ばかり、浅井を五千ばかり、あわせて一万三千とし、二十八日の未明に野村・三田村の郷へ移って二手に備えた浅井・朝倉勢に対して、西の三田村口に家康が、東の野村の郷に信長の御馬廻が、さらに東に美濃三人衆が向かい、卯の刻に一戦に及んで追い崩したと記している。家康は信長とともに龍ケ鼻に陣取ったとされる。同書は織田・徳川方の兵数と個々の隊の位置を記していないため、この読み方ではそれらを兵力不詳・位置不詳として扱う。信長公記 巻之上(我自刊我本)
太田浩司の見方(信長本陣への奇襲と徳川勢の追撃を重くみる理解)
2023年提示
太田浩司は、姉川合戦は一般に両軍の全面衝突と言われると紹介したうえで、浅井長政が横山城包囲網の最北端にいた信長の本陣(陣杭の柳)に奇襲をしかけた戦いと考え、遠藤塚の位置から信長の本陣は後退したとみている。徳川勢については、家康本陣を岡山に置いたまま本隊が姉川を渡り、早々に退いた朝倉勢を小谷城下近くまで追撃した戦いと推定し、徳川勢の活躍は江戸時代に過大に語られるようになったとみている。太田は兵数を示していないため、この見方では兵力不詳として扱う。歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

書籍リンク

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章立て

炬火と夜半の出陣

『日本戦史 姉川役』は、二十七日の夜に大寄山(今の大依山)の炬火を見た信長が明朝の戦いを予期して野戦の部署を定め、浅井・朝倉勢は夜半に大寄山を出て野村と三田村へ向かったと記している。『信長公記』は二十八日の未明に三十町ばかり進んで野村・三田村の郷へ移ったと記し、太田浩司も浅井・朝倉軍が大依山から前進したとする。この章は二十八日の夜半から午前三時までを映している。

注位置は地名の代表点などからの推定表示です

未明の布陣

同書は、午前三時に信長が伝令を走らせ、織田軍は龍ケ鼻から西北に進んで姉川に沿って斜めに布陣し、徳川軍は北に進んで岡山に至ったと記している。黎明(午前四時頃)には浅井軍が野村に、朝倉軍が三田村に入ったとされる。『信長公記』は西の三田村口に家康、東の野村の郷に信長の御馬廻、さらに東に美濃三人衆が向かったと記している。

注隊の並びは史料の記述からの推定表示です

三田村口の戦い

同書は、午前五時に戦いが始まり、まず朝倉の兵が徳川の兵に向かって、酒井忠次・小笠原長忠の隊が姉川で戦ったと記している。朝倉勢の勢いに徳川勢はやや退き、石川数正の隊が救って押し返したが、朝倉勢がふたたび左岸へ押し戻したとされる。太田浩司は、徳川勢の本隊が姉川を渡って北岸で朝倉勢と交戦したとみている。

注交戦の位置は史料の記述からの推定表示です

野村口の戦い

同書は、磯野員昌が野村から出て織田軍を衝き、阪井政尚の隊は支えきれずに阪井久蔵らが討死し、池田信輝の隊も破られたと記している。長政の総攻撃で第三・第四隊も破れたが、森可成の隊がかろうじて支えたとされる。太田浩司は、この戦いを浅井長政による信長本陣への奇襲とみている。

注隊の位置は史料の記述からの推定表示です

側面からの一撃と崩れ

同書は、家康が榊原康政らに側面攻撃を命じて朝倉勢を破り、氏家・安藤の二隊が浅井勢の左翼を、稲葉通朝が右翼を撃ち、信長も前面から撃ったので、三面から攻められた浅井勢が崩れたと記している。遠藤直経は南軍に紛れて信長を探したが、竹中重矩に討たれたとされる。『信長公記』は入り乱れて戦った末に敵を追い崩したと記している。

注隊の動きは史料の記述からの推定表示です

追撃——小谷の麓へ

同書は、北軍の兵は小谷へ向かって走り、南軍は大寄山と虎御前山の附近まで追ったが、信長は深入りを案じて兵を収め、龍ケ鼻に戻ったと記している。戦いは午後二時に終わり、死者は北軍千七百余人・南軍八百余人と伝えられるとされる。『信長公記』は小谷まで五十町を追い討ちして横山へ人数を返したと記し、続けて横山城の降参を記している(降参の日は記さない)。

注追撃の経路は史料の記述からの推定表示です

三つの読み方

『日本戦史 姉川役』は両軍が全面的に戦い、この役の勝敗は全く徳川軍の制するところであったと記している。『信長公記』は浅井・朝倉勢をあわせて一万三千とし、卯の刻に一戦に及んで追い崩したと記している。太田浩司は、浅井による信長本陣への奇襲と、早々に退いた朝倉勢を徳川勢が追撃した戦いとみる見方を示している。

注表示中の説を切り替えて比べてください

採用説の切替

切替できるのは表示だけです。どの説も確定した事実ではなく、当サイトは通説と異説を併記します。

通説(参謀本部編『日本戦史 姉川役』1901年)既定表示

要旨(冒頭の「既定説の要旨」と同文)

参謀本部編『日本戦史 姉川役』(1901)の本文に拠る読み方。同書は、元亀元年六月二十八日の黎明に浅井軍が野村に、朝倉軍が三田村に入り、午前五時から午後二時まで両軍が姉川を挟んで戦ったとし、朝倉勢と徳川勢、浅井勢と織田勢がそれぞれ全面的に戦った末に、徳川勢の側面攻撃と稲葉・氏家・安藤の攻撃で北軍が崩れたという経過を描いている。同書は部隊表で北軍を浅井およそ八千人・朝倉およそ一万人とし、南軍を織田の本軍およそ二万三千人・横山城監視隊およそ五千人・徳川勢およそ六千人としている。江戸時代の軍記『四戦紀聞』も同じ系統の話(家康が朝倉に向かい稲葉通朝だけを借りたこと、織田勢の十三段の備えなど)を記している。本データではこの読み方を既定の表示にしている。

よりどころ
[1]日本戦史 姉川役 / [3]四戦紀聞 1巻 姉川(江州姉川戦記)
提示
1901年
注記(この説の扱い)

明治34年の編纂物が軍記・家譜などを用いて組み立てた経過であり、同書自身も死者の数を「ト云フ」と伝聞で記し、補伝で多くの異説を並べている。確定した史実としてではなく「同書の描く姉川合戦」として紹介する。部隊の座標は同書の本文から補間したもので、附図の記号の位置を写したものではない。

『信長公記』の記述に拠る読み方

太田牛一『信長公記』巻三の記述に拠る読み方。同書は、朝倉の後巻を八千ばかり、浅井を五千ばかり、あわせて一万三千とし、二十八日の未明に野村・三田村の郷へ移って二手に備えた浅井・朝倉勢に対して、西の三田村口に家康が、東の野村の郷に信長の御馬廻が、さらに東に美濃三人衆が向かい、卯の刻に一戦に及んで追い崩したと記している。家康は信長とともに龍ケ鼻に陣取ったとされる。同書は織田・徳川方の兵数と個々の隊の位置を記していないため、この読み方ではそれらを兵力不詳・位置不詳として扱う。

よりどころ
[2]信長公記 巻之上(我自刊我本)
提示
1881年
注記(この説の扱い)

同時代の太田牛一の記録を明治14年に翻刻した版に拠る。本データが同書の記述を並べ直した読み方であり、特定の研究者の学説ではない。写本による異同と現代の校訂本は照合していない。

太田浩司の見方(信長本陣への奇襲と徳川勢の追撃を重くみる理解)

太田浩司は、姉川合戦は一般に両軍の全面衝突と言われると紹介したうえで、浅井長政が横山城包囲網の最北端にいた信長の本陣(陣杭の柳)に奇襲をしかけた戦いと考え、遠藤塚の位置から信長の本陣は後退したとみている。徳川勢については、家康本陣を岡山に置いたまま本隊が姉川を渡り、早々に退いた朝倉勢を小谷城下近くまで追撃した戦いと推定し、徳川勢の活躍は江戸時代に過大に語られるようになったとみている。太田は兵数を示していないため、この見方では兵力不詳として扱う。

よりどころ
[4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場
提示
2023年
注記(この説の扱い)

現存の研究者の見解として、敬意ある中立的な言い方で紹介する。本データが読んだのは太田の解説記事(2023年)であり、同じ著者の『浅井長政と姉川合戦 増補版』の本文は入手していない。記事が示さない隊の位置や兵数を補って太田の説として描くことはしない。

部隊と兵力

兵力は史料・研究によって幅があります。各行は表示中の説(日本戦史の通説)の値で、 他の説の値は行内に畳んでいます(切替は採用説の切替から)。凡例:史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

時系列

時刻の記載がない出来事は時刻欄を空け、史料の記す前後関係の順に並べています。章を開くと出来事と説明が読めます。

  1. 第一章炬火と夜半の出陣出来事 23 件夜半〜未明
    1. 〔六月十九日〕信長、兵およそ三万を率いて岐阜を発つ

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    2. 〔六月十九日〕信長出馬、長比・刈安の城の者が退く

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    3. 〔六月二十一日〕信長、虎御前山に営し小谷城下を焼かせる

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    4. 〔六月二十一日〕雲雀山の町を焼き、信長は虎御前山に一夜陣する

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    5. 〔六月二十二日〕信長、軍を弥高村に収める

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    6. 〔六月二十二日〕兵を引き、弥高の下に野陣する

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    7. 〔六月二十三日〕信長、本営を龍ケ鼻に移す

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 1 件も同じ)

    8. 〔六月二十四日〕全軍で横山城を攻囲する
    9. 〔六月二十四日〕横山城を四方から取り詰める

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)(以下 2 件も同じ)

    10. 〔六月二十四日の記事〕信長と家康、龍ケ鼻に陣取る
    11. 〔日付の記載なし〕朝倉の後巻八千ばかりがおおより山に陣取り、浅井五千ばかりが加わる
    12. 〔姉川合戦の四日前〕横山城を包囲する(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場(以下 1 件も同じ)

    13. 〔合戦直前〕家康、龍ヶ鼻に陣所を置く(太田)
    14. 〔六月二十五日〕浅井長政、大寄山に陣する

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 1 件も同じ)

    15. 〔六月二十六日〕朝倉景健の兵一万余、大寄山に着く
    16. 〔六月二十七日の暁〕浅井・朝倉勢、陣払いして退くかに見える

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    17. 〔六月二十七日〕家康、兵五千余を率いて来会し上阪に陣する

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 4 件も同じ)

    18. 〔六月二十七日〕長政、景健らと野村・三田村への移陣を議する
    19. 〔二十七日夜〕信長、大寄山の炬火を見て野戦の部署を定める
    20. 〔二十七日夜〕諸隊、横山城の包囲を解いて龍ケ鼻附近に集まる
    21. 夜半浅井は野村へ、朝倉は三田村へ進む
    22. 浅井・朝倉軍、大依山から野村・三田村へ前進(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    23. 未明浅井・朝倉勢、三十町ばかり進んで野村と三田村の郷に移る

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    この章の出来事の説明(23 件)
    〔六月十九日〕信長、兵およそ三万を率いて岐阜を発つ
    『日本戦史 姉川役』は、信長が十九日に兵およそ三万人を率いて岐阜を発ち、長比砦に次したと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月十九日〕信長出馬、長比・刈安の城の者が退く
    『信長公記』は、十九日に信長が出馬し、堀・樋口が信長方についたと聞いて長比・刈安の城の者が退散し、長比に一両日逗留したと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十一日〕信長、虎御前山に営し小谷城下を焼かせる
    同書は、森可成・阪井政尚らを雲雀山に陣させて城下の民家を焼かせ、信長自らは虎御前山に営したと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十一日〕雲雀山の町を焼き、信長は虎御前山に一夜陣する
    同書は、森三左衛門らが雲雀山に上がって町を焼き払い、信長は虎御前山に上がって一夜陣を置いたと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十二日〕信長、軍を弥高村に収める
    同書は、佐久間信盛の進言を容れて軍を弥高村に収め、梁田・中條・佐々の三将が後衛として追ってきた城兵を退けたと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十二日〕兵を引き、弥高の下に野陣する
    同書は、殿に鉄炮五百挺などを加えて兵を引き、その日は弥高の下に野陣を張ったと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十三日〕信長、本営を龍ケ鼻に移す
    同書は、二十三日に信長が本営を横山城の北の龍ケ鼻に移したと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十四日〕全軍で横山城を攻囲する
    同書は、諸将を横山城の四方に配して全軍で攻囲し、小谷城の兵を平野に誘い出そうとしたと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十四日〕横山城を四方から取り詰める
    同書は、高坂・三田村・野村肥後が籠る横山城を、二十四日に四方から取り詰めたと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十四日の記事〕信長と家康、龍ケ鼻に陣取る
    同書は、信長が龍ケ鼻(たつかはな)に陣取り、家康も出陣して同じ龍ケ鼻に陣取ったと記す。家康の着陣の日は記していない。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔日付の記載なし〕朝倉の後巻八千ばかりがおおより山に陣取り、浅井五千ばかりが加わる
    同書は、朝倉孫三郎が後巻として八千ばかりで出て小谷の東のおおより山に陣取り、浅井備前の人数五千ばかりが加わってあわせて一万三千になったと記す。日付は記していない。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔姉川合戦の四日前〕横山城を包囲する(太田)
    太田浩司は、姉川合戦の四日前に信長が横山城を包囲したと紹介する。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔合戦直前〕家康、龍ヶ鼻に陣所を置く(太田)
    太田浩司は、横山城の包囲陣に加わった家康の陣所を龍ヶ鼻とする。日付は示していない。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十五日〕浅井長政、大寄山に陣する
    同書は、長政が兵を率いて大寄山(今の大依山)に陣し、横山城を声援したと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十六日〕朝倉景健の兵一万余、大寄山に着く
    同書は、朝倉景健が率いた兵一万余人が二十六日に着き、大寄山に陣したと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十七日の暁〕浅井・朝倉勢、陣払いして退くかに見える
    同書は、二十七日の暁に浅井・朝倉勢が陣払いして退くかと思われたと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十七日〕家康、兵五千余を率いて来会し上阪に陣する
    同書は、家康が兵五千余を率いて二十七日に来会し、上阪に陣したと記す(二十六日は春照に宿したと割注)。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔六月二十七日〕長政、景健らと野村・三田村への移陣を議する
    同書は、長政が今夜まず陣を野村・三田村に移して払暁に急襲すべきだと述べ、浅井半助の反対と遠藤直経の賛成を経て議が決したと記す。同書はこの箇所の払暁の日を「廿九日」と刷っている。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔二十七日夜〕信長、大寄山の炬火を見て野戦の部署を定める
    同書は、二十七日の夜に信長が大寄山の炬火を観察し、明朝に敵が来て戦うとみて急いで野戦の部署を定め、攻城の諸将に配ったと記す。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    〔二十七日夜〕諸隊、横山城の包囲を解いて龍ケ鼻附近に集まる
    同書は、監視の兵を除く諸隊が包囲の持ち場を去って龍ケ鼻附近に集まり、稲葉通朝は上阪に赴き、家康が通朝の兵を後方に置いたと記す。本データの3Dはこの集合の後の配置から始まる。合戦前の出来事で、t_min は日付の前後を表すための値であり、時刻の主張ではない(どの章にも割り当てていない)。
    浅井は野村へ、朝倉は三田村へ進む
    『日本戦史 姉川役』は、夜半に兵糧を配って浅井軍は野村へ、朝倉軍は三田村へ向かったと記す。夜半の時刻は記されておらず、t_min を午前0時に置いたのは制作上の補間である。移動の終わりを黎明(午前四時頃、同書の記述)に合わせた。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    浅井・朝倉軍、大依山から野村・三田村へ前進(太田)
    太田浩司は、浅井・朝倉軍がそれまで籠っていた大依山から前進し、浅井は野村に、朝倉景健は三田村(三田村氏館跡)に本陣を置いたとする。時刻は示していない。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。到達点は国土地理院の地名検索APIが「長浜市野村町」と注記「北近江城館跡群三田村氏館跡」に返す点である。
    浅井・朝倉勢、三十町ばかり進んで野村と三田村の郷に移る
    『信長公記』は、二十八日の未明に浅井・朝倉勢が三十町ばかり進んで姉川を前にして野村の郷と三田村の郷に移り、二手に備えたと記す。どちらの軍がどちらの郷に入ったかを同書は記さず、本データは長浜市の説明(c_nagahama_taiji)に合わせて浅井を野村、朝倉を三田村に置いた。未明の時刻は記されておらず、t_min は制作上の補間である。
  2. 第二章未明の布陣出来事 4 件午前三時〜黎明(午前四時頃)
    1. 午前三時信長の伝令、織田軍は西北へ、徳川軍は北の岡山へ進む

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    2. 西の三田村口に家康、東の野村の郷に信長の馬廻、さらに東に美濃三人衆

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    3. 黎明(午前四時頃)黎明、北軍が姉川に達し、南軍が弓銃で戦いを挑む

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    4. 信長は陣杭の柳、家康は岡山に本陣(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    この章の出来事の説明(4 件)
    信長の伝令、織田軍は西北へ、徳川軍は北の岡山へ進む
    『日本戦史 姉川役』は、午前三時に信長が伝令を走らせ、織田軍は龍ケ鼻から西北に進んで姉川に沿って斜めに布陣し、徳川軍は北に進んで岡山に至ったと記す。織田軍の六隊と本隊は第一隊を姉川の側に、本隊を後ろに置き、斜めの列に並べた。岡山は国土地理院の注記「勝山」の点に置いた(太田浩司は岡山が後に勝山と呼ばれたとする)。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    西の三田村口に家康、東の野村の郷に信長の馬廻、さらに東に美濃三人衆
    『信長公記』は、西の三田村口には一番合戦として家康が向かい、東の野村の郷の備えには信長の御馬廻が、さらに東には美濃三人衆が向かったと記す。向かった時刻は記されておらず、t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    黎明、北軍が姉川に達し、南軍が弓銃で戦いを挑む
    同書は、黎明(午前四時頃)に北軍が姉川附近に達して浅井軍は野村に、朝倉軍は三田村に入り、すでに姉川の左岸にあった南軍が直ちに弓と銃で戦いを挑んだと記す。
    信長は陣杭の柳、家康は岡山に本陣(太田)
    太田浩司は、信長の本陣を姉川南岸の陣杭の柳(東上坂町)、家康の本陣をその北西約800メートルの岡山とする。家康が龍ヶ鼻から岡山へ移った時刻は示されておらず、t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。岡山は国土地理院の注記「勝山」の点に置いた。
  3. 第三章三田村口の戦い出来事 7 件午前五時〜卯刻(午前5〜7時頃)
    1. 午前五時戦いが始まる

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 2 件も同じ)

    2. 朝倉勢が徳川勢に向かい、酒井・小笠原の隊が姉川で戦う
    3. 朝倉勢の勢いに徳川勢がやや退き、石川隊が救う
    4. 卯刻(午前5〜7時頃)卯の刻、信長方が一戦に及び、敵も姉川へ懸かる

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    5. 徳川勢の本隊が姉川を渡り、北岸で朝倉勢と交戦(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    6. 徳川勢が返して右岸に迫る

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 1 件も同じ)

    7. 朝倉勢がふたたび徳川勢を左岸に押し戻す
    この章の出来事の説明(7 件)
    戦いが始まる
    『日本戦史 姉川役』は、この日の戦いは午前五時に始まり午後二時に終わったと記す。
    朝倉勢が徳川勢に向かい、酒井・小笠原の隊が姉川で戦う
    同書は、まず朝倉の兵が徳川の兵に向かい、徳川軍の第一隊(酒井忠次)と第二隊(小笠原長忠)がこれに当たって姉川で大いに戦ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    朝倉勢の勢いに徳川勢がやや退き、石川隊が救う
    同書は、朝倉軍の勢いが鋭く徳川軍はやや退き、第三隊(石川数正)が救って奮戦したと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    卯の刻、信長方が一戦に及び、敵も姉川へ懸かる
    『信長公記』は、二十八日の卯の刻に一戦に及び、敵も姉川へ懸かってきて押しつ返しつ入り乱れて戦ったと記す。卯の刻は午前5〜7時頃の刻で、t_min は刻の中ほど(午前6時)に置いた制作上の補間である。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    徳川勢の本隊が姉川を渡り、北岸で朝倉勢と交戦(太田)
    太田浩司は、浅井軍が織田軍に突進した頃、徳川軍は家康本陣を岡山に置いたまま本隊が姉川を渡り、北岸の千人斬りの岡や血原付近で朝倉軍と交戦していたとする。3Dでは徳川勢の本隊を家康の駒1つで表し、本陣の位置は地名「岡山(勝山)」で示す。交戦の位置は三田と野村の間の北岸に置いた推定範囲(制作上の補間)。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    徳川勢が返して右岸に迫る
    同書は、第一・第二隊も返して戦い、右岸に迫ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    朝倉勢がふたたび徳川勢を左岸に押し戻す
    同書は、朝倉軍が力闘してふたたび徳川軍を左岸に押し戻したと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
  4. 第四章野村口の戦い出来事 6 件
    1. 磯野員昌、野村から出て織田軍を衝く

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 1 件も同じ)

    2. 阪井隊が支えきれず、阪井久蔵らが討死して後ろの隊に合流
    3. 浅井長政、信長本陣を奇襲する(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    4. 磯野隊、池田隊を破る

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    5. 信長の本陣、200メートル余り南へ後退(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    6. 長政の総攻撃、第三・第四隊が破れ、森隊がかろうじて支える

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    この章の出来事の説明(6 件)
    磯野員昌、野村から出て織田軍を衝く
    同書は、磯野員昌が朝倉軍が先に戦いを始めたのを見て、第一隊を駆って織田軍を衝いたと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    阪井隊が支えきれず、阪井久蔵らが討死して後ろの隊に合流
    同書は、第一隊(阪井政尚)が姉川で防いだが支えきれず、阪井久蔵と部兵百余人が討死し、隊は退いて後ろの隊に合流したと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    浅井長政、信長本陣を奇襲する(太田)
    太田浩司は、浅井長政が横山城包囲網の最後尾(最北端)にいた信長の本陣に奇襲をしかけたと考える。時刻は示していない。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。到達点は陣杭の柳の推定範囲の北縁に置いた(制作上の補間)。
    磯野隊、池田隊を破る
    同書は、員昌の隊が勢いに乗って第二隊(池田信輝)を破ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    信長の本陣、200メートル余り南へ後退(太田)
    太田浩司は、遠藤塚が陣杭の柳より200メートル余り南にあることから、信長の本陣は浅井の奇襲によって後退したとする。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。後退の到達点は東上坂町の代表点から南へ約220メートルの点に置いた(制作上の補間)。
    長政の総攻撃、第三・第四隊が破れ、森隊がかろうじて支える
    同書は、長政が諸隊に総攻撃を命じて第三・第四隊を撃破し、信長の麾下に迫ろうとしたが、第五隊(森可成)がかろうじて支えたと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
  5. 第五章側面からの一撃と崩れ出来事 16 件
    1. 家康が部下を励まし、朝倉勢が家康の麾下に迫る

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 1 件も同じ)

    2. 榊原康政らが姉川を渡り、朝倉勢の右側を衝く
    3. 遠藤直経、信長の首を狙って討死(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    4. 朝倉勢が大いに破れ、前波新八郎・魚住景固・真柄直隆らが討死

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    5. 朝倉勢が早々に退き、徳川勢が追う(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    6. 氏家・安藤の二隊が来て浅井勢の左翼を撃つ

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 1 件も同じ)

    7. 三田村方面の朝倉勢が野村へ退き、浅井勢が動揺する
    8. 信長方、浅井・朝倉勢を追い崩す

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    9. 稲葉通朝が浅井勢の右翼を衝き、信長も前面から撃つ

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    10. 真柄十郎左衛門の首、青木所左衛門が討ち取る

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)(以下 2 件も同じ)

    11. 遠藤喜右衛門の首、竹中久作が討ち取る
    12. 宗徒の者千百余を討ち捕る
    13. 三面から攻められた浅井勢が崩れ、浅井雅楽助らが討死

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    14. 浅井・朝倉勢は退くが、致命的な敗退ではなかった(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    15. 遠藤直経、南軍に紛れて信長を探し、竹中重矩に討たれる

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 1 件も同じ)

    16. 磯野員昌、隊をまとめて南へ突き抜ける
    この章の出来事の説明(16 件)
    家康が部下を励まし、朝倉勢が家康の麾下に迫る
    同書は、家康が織田軍の苦戦を見て部下を励まし、本多忠勝・松平家忠らが力戦したが、朝倉軍は屈せず家康の麾下に迫ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    榊原康政らが姉川を渡り、朝倉勢の右側を衝く
    同書は、家康が榊原康政らに側面攻撃を命じ、康政らが水田と姉川を渡って対岸に上り、朝倉軍の右側を衝いたと記す。同書は経路を詳らかでないとする。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    遠藤直経、信長の首を狙って討死(太田)
    太田浩司は、遠藤直経が信長の首を狙って織田軍の陣地深くに入り、竹中久作に見破られて討死したという逸話と遠藤塚を、奇襲とみる手がかりとして挙げる。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    朝倉勢が大いに破れ、前波新八郎・魚住景固・真柄直隆らが討死
    同書は、家康の号令で諸隊が応じて激しく戦い朝倉軍を大いに破り、前波新八郎・魚住景固らが討死し、真柄直隆もその子直基とともに戦死したと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    朝倉勢が早々に退き、徳川勢が追う(太田)
    太田浩司は、この方面の合戦は朝倉軍が早々に退却し、それを追撃する戦いであったと推定する。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。退く先は太田が真柄の討死の場所とする虎御前山・田川付近の方角に置いた。
    氏家・安藤の二隊が来て浅井勢の左翼を撃つ
    同書は、織田軍の第一から第四隊が破れ第五隊がかろうじて支えていたとき、横山城監視兵の内の氏家・安藤の二隊が来て敵の左翼を撃ったと記す。二隊が監視の持ち場を離れた時刻は記されておらず、本データは移動の始まりをこの出来事に置いた。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    三田村方面の朝倉勢が野村へ退き、浅井勢が動揺する
    同書は、三田村方面の朝倉軍が大いに敗れて一部は野村に退き、浅井軍がそれを見て動揺したと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    信長方、浅井・朝倉勢を追い崩す
    『信長公記』は、入り乱れて戦った末に敵を追い崩したと記す。追い崩した時刻は記されておらず、t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。退く先は同書の「大谷迄五十町追討」(c_k_odani_pursuit)に合わせて小谷の方角に置いた。
    稲葉通朝が浅井勢の右翼を衝き、信長も前面から撃つ
    同書は、徳川軍の背後にいた稲葉通朝が浅井軍の右翼を衝き、信長も諸隊を指揮して前面から撃ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    真柄十郎左衛門の首、青木所左衛門が討ち取る
    『信長公記』は、討ち取った首の注文の筆頭に真柄十郎左衛門を挙げ、その首は青木所左衛門が討ち取ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    遠藤喜右衛門の首、竹中久作が討ち取る
    同書は、遠藤喜右衛門の首は竹中久作が討ち取ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    宗徒の者千百余を討ち捕る
    同書は、名のある首のほかに宗徒の者千百余を討ち捕ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    三面から攻められた浅井勢が崩れ、浅井雅楽助らが討死
    同書は、三面から攻撃を受け背後を断たれるおそれもあった浅井軍が大いに敗れ、浅井雅楽助ら数百人が討死したと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。移動の到達点は、史料の記述に合わせて代表点の周りに置いた制作上の補間である。
    浅井・朝倉勢は退くが、致命的な敗退ではなかった(太田)
    太田浩司は、姉川合戦の結果は浅井・朝倉軍の致命的な敗退ではなかったと考える。浅井勢が退いた経路と時刻は示されておらず、到達点は小谷の方角に置いた制作上の補間である。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    遠藤直経、南軍に紛れて信長を探し、竹中重矩に討たれる
    同書は、遠藤直経が南軍の兵に扮して信長を探したが、竹中重矩(重治の弟)が見破って討ち取ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    磯野員昌、隊をまとめて南へ突き抜ける
    同書は、磯野員昌が居城佐和山の守りを気にかけ、隊をまとめて氏家・安藤の二隊を突き破り、南へ帰ったと記す。佐和山は表示範囲の外(南)にあるため、到達点は表示範囲の南寄りに置いた方角の表示である。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
  6. 第六章追撃——小谷の麓へ出来事 8 件午後二時
    1. 北軍の兵、小谷へ向かって走る

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    2. 徳川勢、朝倉勢を小谷城下近くまで追う(太田)

      太田説/ 研究者の解釈/ 典拠: [4]歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

    3. 南軍、大寄山と虎御前山の附近まで追う

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    4. 小谷まで五十町を追い討ちし、麓に火を放つ

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    5. 信長、深入りを案じて兵を収める

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    6. 小谷は攻め上れないとして、横山へ人数を返す

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    7. 信長、首級を検めて龍ケ鼻に戻る

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役(以下 1 件も同じ)

    8. 午後二時戦いが終わる(死者は北軍千七百余・南軍八百余と伝える)
    この章の出来事の説明(8 件)
    北軍の兵、小谷へ向かって走る
    同書は、ほかの北軍の兵は皆小谷へ向かって走り、追撃されて討たれた者も多かったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。到達点は小谷城跡の南の麓の方角に置いた(制作上の補間)。
    徳川勢、朝倉勢を小谷城下近くまで追う(太田)
    太田浩司は、真柄十郎左衛門が向坂吉政に討たれた場所を虎御前山や田川付近と考え、徳川軍は朝倉軍を小谷城下近くまで追撃したと考える。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。到達点は田川の注記の南西に置いた(制作上の補間)。
    南軍、大寄山と虎御前山の附近まで追う
    同書は、南軍の兵がそれぞれ敵を追撃し、大寄山と虎御前山の附近に至ったと記す。どの隊がどこまで追ったかは記されておらず、t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。徳川勢は虎御前山の方角、織田勢は大依山の方角に置いた(制作上の補間)。
    小谷まで五十町を追い討ちし、麓に火を放つ
    『信長公記』は、小谷まで五十町を追い討ちして麓に火を放ったと記す。追った隊の名は記されていない。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    信長、深入りを案じて兵を収める
    同書は、信長が重地に陥ることを案じて命令を伝え、兵を収めたと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    小谷は攻め上れないとして、横山へ人数を返す
    同書は、小谷は高山の難所で一気には攻め上れないとして、横山へ人数を返したと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。信長の駒を横山の方角へ動かしたのは制作上の補間である。
    信長、首級を検めて龍ケ鼻に戻る
    同書は、信長が捕虜の安養寺経世に首級の名を問うて検め、家康以下の諸将の功を賞して龍ケ鼻に戻ったと記す。t_min は同じ章の中での前後関係を表すための値であり、時刻の主張ではない。
    戦いが終わる(死者は北軍千七百余・南軍八百余と伝える)
    『日本戦史 姉川役』は、この日の戦いは午後二時に終わり、死者は北軍千七百余人、南軍八百余人と伝えられると記す。
  7. 第七章三つの読み方出来事 2 件
    1. 〔戦後・日付の記載なし〕横山城が開城し、秀吉と竹中重治が置かれる

      日本戦史の通説/ 史料の記載/ 典拠: [1]日本戦史 姉川役

    2. 〔戦後・日付の記載なし〕横山城が降参し、木下藤吉郎が定番として入る

      信長公記/ 史料の記載/ 典拠: [2]信長公記 巻之上(我自刊我本)

    この章の出来事の説明(2 件)
    〔戦後・日付の記載なし〕横山城が開城し、秀吉と竹中重治が置かれる
    『日本戦史 姉川役』は戦後の章で、柴田勝家・森可成・木下秀吉に横山城を囲ませ、開城して小谷に帰りたいという守将大野木らの請いを許し、秀吉と竹中重治を置いて兵三百を付けたと記す。開城の日は記されていない。どの章にも割り当てておらず、t_min は前後関係を表すための値である。
    〔戦後・日付の記載なし〕横山城が降参し、木下藤吉郎が定番として入る
    『信長公記』は、横山へ人数を返した記事に続けて、横山城は降参して城を出て、木下藤吉郎が定番として入れ置かれたと記し、その後に七月朔日の佐和山の記事を置く。降参の日は記されていない。どの章にも割り当てておらず、t_min は前後関係を表すための値である。

凡例と注記 — この図の読み方

読み方

諸説あります。布陣の位置・兵力・時刻はいずれも史料によって食い違い、研究によって解釈が分かれます。 当ページの図と表は、どれか一つの説を正解として示すものではありません。 「史料の記載」「研究者の解釈」「制作上の補間(推定)」を区別して表示しています。

史料の記載研究者の解釈制作上の補間(推定)

本文中の典拠番号 [n] は、下の「出典一覧」の同じ番号の文献を指します。 3D布陣図は一度に一つの配置しか描けないため、切替をしない限り既定説の配置を表示します。

陣営
  • 織田・徳川方南軍(織田・徳川方)
  • 浅井・朝倉方北軍(浅井・朝倉方)
日付・場所・地形データ・利用条件・データ出典(この図の注記)
日付について

元亀元年6月28日(グレゴリオ暦 1570-08-09)

参謀本部編『日本戦史 姉川役』は本戦の日付「六月廿八日」に割注で「陽暦八月九日」と添えており(コマ13、2026-09-24 に Claude(AI照合、D-015)が原本画像で確認)、グレゴリオ暦1570-08-09はこれと一致する。ユリウス暦1570-07-30は、1570年当時の両暦の差(10日)から求めた制作上の換算であり、同書の記載ではない。『信長公記』巻三も「六月廿八日卯刻」の一戦を記す。

場所

滋賀県 長浜市野村町・三田町の姉川一帯(近江国浅井郡・坂田郡)

地形

地形: 産総研地質調査総合センター シームレス標高タイル 統合DEM(原典: 国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/DEM10B)

現代地形を使用しています(当時の河道・堤・田畑・集落・街道は異なる場合があります)

当時の水系(河道・池・堀)は未検証のため、勝敗の原因として水系を説明することはしていません。

利用条件

利用条件: 国土地理院コンテンツ利用規約(地理院タイル) 規約本文

出典表示: https://tiles.gsj.jp/tiles/elev/tiles.html https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

タイルセットの詳細

統合DEM(mixed) のデータソースは仕様ページ記載の優先度順に 兵庫県_全域数値地形図ポータル(DEM)、国土地理院 西之島付近の噴火活動関連情報、国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル DEM5A/5B/5C、同 DEM10B、ASTER GDEM 003、GEBCO Grid である。兵庫県域・西之島以外の日本陸域 zoom10〜15 は国土地理院 基盤地図情報数値標高モデル(DEM5A/5B/5C、低ズームは DEM10B)が実体になる(兵庫県内を対象にする場合は出典表記が変わるので source_datasets の優先度順に確認すること)。仕様ページで CC BY 4.0 と明記されているのは静岡県 VIRTUAL SHIZUOKA 由来のタイルセット(sourceID=shizuoka)のみである。地理院タイルは出典明示のうえ https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html へのリンクを付けて利用する。2026-09-11の国土地理院回答により、本プロジェクトが照会した統合DEMの複製保存・動画掲載・Web表示について測量法の手続きは不要と確認した。回答の適用範囲と産総研側の利用条件は docs/external_evidence/gsi_reply_20260911.md を参照する。

データ

布陣・兵力・時系列: 参謀本部編『日本戦史 姉川役』(1901) / 太田牛一『信長公記』巻三(我自刊我本 1881)/ 太田浩司「近江と徳川家康① 姉川古戦場」(ここ滋賀 2023) / 軍記: 根岸直利編『四戦紀聞』(1846刊、滋賀県立図書館蔵) / 史跡解説: 長浜市・滋賀県文化財保護協会 / 遺跡の位置: 全国文化財総覧(奈良文化財研究所)/ 座標: 国土地理院 地名検索API

布陣・兵力・時系列には諸説があります。本作は、参謀本部編『日本戦史 姉川役』に拠る読み方(通説)、『信長公記』の記述に拠る読み方、太田浩司の見方の三つを切り替えて表示し、史料が位置や兵数を示さない部隊は位置不詳・兵力不詳として扱っています。座標はすべて地名の代表点などからの推定表示です。地形データの出典表記は knowledge/battles/anegawa/terrain/terrain.json の credit_ja に揃えています。

出典一覧

出典一覧(全 10 件)を開く本文の典拠番号 [n] はこの一覧の番号です
  1. 参謀本部 編 『日本戦史 姉川役』

    元真社/1901年 / 編纂史料/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 771067)は IIIF manifest が「日本戦史.姉川役」/著者 参謀本部 編/出版者 元真社/出版年 明34(1901)/書誌ID 000000430552/請求記号 77-30/DOI 10.11501/771067/全153コマ/利用制限 PDM と示す。本編(コマ4〜19)は第一篇(起因及戦役前ノ形勢)・第二篇(作戦。第一章 両軍ノ計画及措置、第二章 本戦)・第三篇(戦後ノ動静及結果)から成り、コマ20が本編の奥付(明治三十四年五月七日発行)。コマ21〜125が補伝(百二十二条)、コマ127〜147が附図・附表(附図第一号 四家領地図・第二号 姉川戦図、附表第一号 両軍将士姓名表)。

    明治34年に旧陸軍参謀本部(第四部)が編纂した戦史。本文は国立国会図書館 次世代デジタルライブラリーの全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/771067)で取得したOCRテキストにより機械的に確認し、Claude(AI照合、DECISIONS D-015)が引用・数値・人名・時刻をIIIF画像(本文・補伝・附図の凡例はコマ4・7〜15・69〜72・83・86・100〜101・139、冊の構成はコマ20・21・125〜128・136〜141・147)と照合した(記録は knowledge/battles/anegawa/source_review_2026-09-24.md)。引用文(quote_ja)は全文テキストのままなので、OCRが読めなかった字(〓)と誤読・割注の混入を含む。補伝は軍記・家譜などの諸書を引いて異説を並べる部分であり、本データは補伝の記述を「補伝が引く○○の記述」として扱う。

  2. 太田牛一 著 『信長公記 巻之上(我自刊我本)』

    甫喜山景雄/1881年 / 古文書/ 一次史料 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    国立国会図書館デジタルコレクション公開分(pid 781192)は IIIF manifest が「信長公記.巻之上」/著者 太田牛一 著/出版者 甫喜山景雄/出版年 明14(1881)/シリーズ 我自刊我本/書誌ID 000000435795/請求記号 128-97/DOI 10.11501/781192/全51コマ/利用制限 PDM と示す。manifest の目次(structures)は巻之三(元亀元年)をコマ29から、巻之四をコマ34からとする。姉川の記事(六月十九日〜横山城の降参)はコマ31の右頁から左頁にある。

    太田牛一による信長の一代記を明治14年に翻刻したもの。本文は全文テキストAPI(https://lab.ndl.go.jp/dl/api/book/fulltext/781192)で取得したOCRテキストにより機械的に確認した。この版のOCRは崩れが大きく、「候」を「い」、「御」を「〓」「作」「産」「色」、「に」を「よ」と読むなどの誤読が多い。コマ31左頁の第1行(三田村口・野村の郷・美濃三人衆の記事)は全文テキストが読めておらず、別の行の重複と無関係な文字列に置き換わっている。Claude(AI照合、D-015)が原本画像(コマ29・31、美濃三人衆の用例はコマ23・25)で本文を読み、原本の字を各 claim の note_ja に書いた。現代の校訂本・写本とは照合していない。

  3. 根岸直利 編・木村高敦 校正 『四戦紀聞 1巻 姉川(江州姉川戦記)』

    山城屋佐兵衛(江戸)/1846年 / 編纂史料/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    滋賀県立図書館 近江デジタル歴史街道 コンテンツID 0502289(書誌番号 0310748)。IIIF manifest(https://da.shiga-pref-library.jp/0502289/manifest)全21画像のうち p.6〜20 が江州姉川戦記。本データが読んだのは p.6〜11。同館の解説は、宝永2年(1705)の自序をもち弘化3年(1846)に4冊本で出版されたとする。

    江戸時代の軍記。姉川・三方原・長篠・長久手の合戦を仮名交じり文で記す。全文テキストが無いため quote_ja は置かず、Claude(AI照合、D-015)が画像(p.6〜11)を読んで記述を要約した。画像は同館の利用案内(無断での複製・改変・配布・転載の禁止)に従い転載していない。本データでは通説の由来の一つとして扱い、史実の確定には用いない。

  4. 太田浩司(淡海歴史文化研究所 所長) 『歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場』

    ここ滋賀/2023年 / ウェブ/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2023年8月30日公開。見出し「合戦直前の家康の陣所」「合戦当日の布陣」「姉川合戦の真相」「徳川軍の戦いの実像」「真柄十郎左衛門【まがら じゅうろうざえもん】の活躍」「姉川古戦場に行ってみよう!」の各節。

    研究者の署名入り解説記事。2026-09-14 に Codex が記載箇所を確認し、Claude(AI照合、D-015)がページを取得し直して本文を読み、各節の記述が変わっていないことを確かめた。本文・図版は転載していない。太田の見解は研究者の解釈(interpretation)として扱う。

  5. 太田浩司 『浅井長政と姉川合戦 : その繁栄と滅亡への軌跡 増補版(淡海文庫 46)』

    サンライズ出版/2023年 / 書籍/ 学術二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    NDLサーチの書誌(2023年9月刊、増補版、淡海文庫 46)。

    書名・著者・出版者・刊行年・版をNDLサーチの書誌で確認した。本文は入手していないため、内容の要約は claim に書いていない。

  6. 長浜市 『三田村氏館跡(国史跡「北近江城館跡群」)』

    2026年 / 自治体資料/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    「1.歴史的概要」の節(第1〜5段落)。

    長浜市の文化財ページ(文字コード Shift_JIS)。2026-09-14 に Codex が確認し、Claude(AI照合、D-015)が取得し直して同じ文面であることを確かめた。year は閲覧年。画像は転載していない。

  7. 松室孝樹 『新近江名所圖会 第341回 長浜平野を拓いた人物が眠る墓-長浜茶臼山古墳』

    公益財団法人滋賀県文化財保護協会/2021年 / ウェブ/ 一般向け二次文献 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    2021年3月24日掲載。冒頭の段落(横山丘陵・臥龍山・龍ヶ鼻)と長浜茶臼山古墳の規模・所在の段落。

    滋賀県文化財保護協会の広報記事(署名入り)。龍ヶ鼻の呼び名と長浜茶臼山古墳の位置関係を確かめるためにだけ用いた。写真は転載していない。

  8. 奈良文化財研究所 全国文化財総覧 『長浜茶臼山古墳/茶臼山古墳(全国文化財総覧 文化財データ)』

    2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    所在地 滋賀県長浜市東上坂町、種別 古墳(前方後円墳)、県指定史跡(「茶臼山古墳」)、立地 尾根先端・標高142m、墳長92m。位置 北緯35.40774908954882/東経136.32801039799153。

    龍ヶ鼻の地名ラベルと、龍ヶ鼻に置いた陣所の推定範囲の中心に用いた。位置は古墳の記録位置であり、陣所の実測点ではない。

  9. 長浜市教育委員会 『詳細遺跡分布調査報告書(長浜市埋蔵文化財調査資料52)所収遺跡「横山古墳群/横山城跡及び関連砦」(全国文化財総覧 遺跡抄録)』

    長浜市教育委員会/2003年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    遺跡所在地 滋賀県長浜市東上坂町ほか/坂田郡山東町、遺跡番号114、北緯(世界測地系)35°23′32″・東経136°19′21″(10進 北緯35.392222/東経136.3225)、種別 古墳(古墳時代)・城館(室町、山城)。調査面積 100,000㎡。

    報告書の本文は入手していない。抄録の代表点は古墳群・城跡・関連砦をまとめた遺跡の代表点で、地形メッシュでは丘陵の西麓(標高約112m)に落ちる。城跡の主郭の位置ではないため、横山城の守兵の位置は半径の大きい推定範囲で表した。

  10. 国土地理院 『国土地理院 地名検索API(地理院地図の地名・注記・住所データ)』

    2026年 / データベース/ 事典・要覧 / 原典ページを見る ↗

    注記(所在・確認方法)

    問い合わせ語と返り値(2026-09-24〜25): 「長浜市野村町」→ 北緯35.419254/東経136.323395、「長浜市三田町」→ 北緯35.420189/東経136.312714、「三田村氏館跡」→ 注記「北近江城館跡群三田村氏館跡」北緯35.4176740447222/東経136.300203976111、「長浜市東上坂町」→ 北緯35.407642/東経136.325302、「長浜市西上坂町」→ 北緯35.403439/東経136.310425、「勝山」→ 注記「勝山」(長浜市)北緯35.4109297651793/東経136.317017、「長浜市大依町」→ 北緯35.435265/東経136.311417、「虎御前山」→ 北緯35.4451267650444/東経136.263108、「雲雀山」→ 注記「雲雀山」(長浜市)北緯35.4445707650466/東経136.277497、「小谷城跡」→ 注記「小谷城跡」北緯35.4590950555556/東経136.277456833333、「小谷山」→ 北緯35.465737764963/東経136.273525、「田川」→ 注記「田川町」(長浜市)北緯35.4460665153203/東経136.283674635099、「長浜市国友町」→ 北緯35.411655/東経136.282043、「長浜市千草町」→ 北緯35.410671/東経136.310394、「姉川」→ 注記「姉川」(長浜市)北緯35.4114599372222/東経136.301674587778 ほか、「野村橋」→ 北緯35.4154896111111/東経136.319931555556、「草野川」→ 注記「草野川」北緯35.4192279722222/東経136.291692583333・「草野川橋」北緯35.4280947222222/東経136.309759027778。「陣杭の柳」「龍ヶ鼻」「横山城跡」「大依山」「血原」「千人斬りの岡」「遠藤塚」は長浜市内に該当が返らなかった。

    座標化と河道の概略線の手がかりにだけ用いた。返り値は区域・注記の代表点であって、陣所や遺構の中心点ではない。利用条件は地理院地図の利用規約に従い、出典を表記する。

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  • 『浅井長政と姉川合戦 増補版』書影

    浅井長政と姉川合戦 増補版 その繁栄と滅亡への軌跡

    太田浩司/サンライズ出版/2023-10/ISBN 9784883257973

    本ページで参照する太田浩司の姉川合戦論と同じ著者による増補版。出版社提供の内容紹介と目次で姉川合戦を扱うことを確認した。本文は未読であり、紹介記事を本書の本文確認に代えない。

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