参謀本部編『日本戦史 姉川役』(1901)の本文に拠る読み方。同書は、元亀元年六月二十八日の黎明に浅井軍が野村に、朝倉軍が三田村に入り、午前五時から午後二時まで両軍が姉川を挟んで戦ったとし、朝倉勢と徳川勢、浅井勢と織田勢がそれぞれ全面的に戦った末に、徳川勢の側面攻撃と稲葉・氏家・安藤の攻撃で北軍が崩れたという経過を描いている。同書は部隊表で北軍を浅井およそ八千人・朝倉およそ一万人とし、南軍を織田の本軍およそ二万三千人・横山城監視隊およそ五千人・徳川勢およそ六千人としている。江戸時代の軍記『四戦紀聞』も同じ系統の話(家康が朝倉に向かい稲葉通朝だけを借りたこと、織田勢の十三段の備えなど)を記している。本データではこの読み方を既定の表示にしている。
姉川の戦いの布陣図 — 地形・時系列と奇襲とみる新説を比較
この合戦を一言で
姉川の戦いは、元亀元年六月二十八日に、近江の姉川の中流で織田・徳川方と浅井・朝倉方が戦った出来事として記されます。戦場は現在の滋賀県長浜市野村町・三田町の一帯とされます。『日本戦史』の補伝が引く『武家事紀』は、同じ合戦を浅井方と信長方では野村合戦、朝倉方では三田村合戦、徳川方では姉川合戦と呼んだと伝えます。このページでは、参謀本部編『日本戦史 姉川役』の通説、『信長公記』の記述に拠る読み方、太田浩司の見方の三つを切り替えて比べられます。太田は、この合戦が一般に両軍の全面衝突と言われると紹介したうえで、別の見方を示しています。
まず姉川のインタラクティブ布陣図で全体を見てから、以下の解説と出典一覧を往復してください。
地形を読む — 姉川と横山丘陵
図の立体地形は現代の標高データで描いています。元亀元年当時の河道・堤・田畑・集落・街道を復元したものではなく、地形は舞台として示すにとどめ、勝敗の説明には使いません。
姉川の北側に野村・三田の集落があり、南側には横山丘陵が延びています。滋賀県文化財保護協会の記事は、丘陵の最も北の部分を地元で臥龍山、その先端を龍ヶ鼻と呼ぶと紹介し、そこに全長92mの長浜茶臼山古墳があるとしています。『日本戦史』は、横山城を小谷城の東南、姉川の左岸に近い臥龍山の頂にある城と記します。出典:滋賀県文化財保護協会
図の緯度経度はすべて制作上の補間で、史料が座標を示しているわけではありません。地名の位置には、国土地理院の地名検索が地名・注記に返す代表点をそのまま使っています。代表点は区域や注記の代表の位置であり、陣所や遺構の中心ではありません。出典:国土地理院 地名検索
姉川の戦いの布陣図 — 三つの読み方
『日本戦史』は、二十八日の黎明に浅井軍が野村に、朝倉軍が三田村に入り、南軍はすでに姉川の左岸にあったと記します。織田軍は龍ケ鼻から西北に進んで姉川に沿って斜めに布陣し、徳川軍は北に進んで岡山に至ったとします。同書の部隊表は、浅井をおよそ八千人、朝倉をおよそ一万人、織田の本軍をおよそ二万三千人、横山城監視隊をおよそ五千人、徳川方をおよそ六千人としています。同じ本の石高からの算出は浅井をおよそ九千七百余人、朝倉をおよそ二万余人とし、部隊表とは一致しません。同書は隊の順序と大まかな方位を記すだけで、図の配置は本文に沿って並べた推定範囲です。出典:日本戦史 姉川役
『信長公記』は、朝倉の後巻を八千ばかり、浅井を五千ばかり、あわせて一万三千と記します。浅井・朝倉勢は二十八日の未明に野村の郷と三田村の郷へ移って二手に備え、西の三田村口には家康が、東の野村の郷には信長の御馬廻が、さらに東には美濃三人衆が向かったとします。同書は織田方・徳川方の兵数や個々の隊の位置を記さず、この読み方ではそれらを兵力不詳・位置不詳と表示します。出典:信長公記
太田浩司は、浅井が姉川北岸の野村に、朝倉景健が三田村の集落内(三田村氏館跡)に本陣を置いたと述べ、信長の本陣を姉川南岸の「陣杭の柳」、家康の本陣をそこから約800メートル北西の岡山(のちの勝山)としています。長浜市も、三田村氏館跡に朝倉軍の本陣が置かれたと考えています。太田の記事は本陣以外の隊の位置と兵数を示していません。出典:太田浩司「姉川古戦場」
時系列 — 日付と時刻は史料ごとに異なる
『日本戦史』は、信長が六月十九日に岐阜を発ち、二十一日に虎御前山に営し、二十三日に本営を龍ケ鼻へ移し、二十四日に横山城を攻囲したと記します。長政は二十五日に大寄山に陣し、朝倉の兵は二十六日に着き、家康は二十七日に来会して上阪に陣したとします。ただし『四戦紀聞』は家康の着陣を二十三日とし、同書の補伝は二十六日に着いたとする話も収めます。出典:四戦紀聞
当日について『日本戦史』は、戦いが午前五時に始まり午後二時に終わったと記し、『信長公記』は卯の刻に一戦に及んだとします。画面の時計は、どの読み方でも午前五時を起点に同じ刻みで進みます。『日本戦史』の読み方では、同書が記す午前三時・黎明(午前四時頃)・午前五時・午後二時の出来事をその時刻に置いていますが、夜半の出来事と、同書が時刻を記さない途中の出来事の時刻は、前後関係を並べるための制作上の値です。『信長公記』が当日の時刻として記すのは卯の刻だけで、太田の記事は時刻を示していません。この二つの読み方で時計が示す時刻は、卯の刻の出来事(刻の中ほどに置いた)を除いて時刻の主張ではありません。いずれも史料間で一致した確定時刻ではありません。
『日本戦史』の描く経過では、まず朝倉の兵が徳川軍の酒井忠次・小笠原長忠の隊と戦い、押し戻された徳川軍を石川数正の隊が救ったとされます。野村では磯野員昌が阪井政尚の隊を衝き、池田信輝の隊も破られ、森可成の隊がかろうじて支えたとされます。家康が榊原康政らに朝倉軍の右側を衝かせて朝倉軍が大いに敗れ、氏家・安藤の二隊が敵の左翼を撃ち、稲葉通朝が浅井軍の右翼を衝いて浅井軍も大いに敗れたと同書は記します。磯野員昌は氏家・安藤の隊を突き破って南へ帰ったとされます。
通説と新説 — 全面衝突か、本陣への奇襲か
『日本戦史』は、この役の勝敗は全く徳川軍の制するところであったと書き、補伝には『甲陽軍鑑』の同趣旨の記述も収めています。家康が朝倉に向かった経緯にも、『柏崎物語』の話、当日暁に信長が申し送ったとする一説、『四戦紀聞』の稲葉通朝ひとりを請うた話が並びます。
太田は、姉川合戦を浅井長政が横山城包囲網の最北端にいた信長の本陣へ奇襲をしかけた戦いと考えています。その手がかりとして、遠藤直経が信長の首を狙って陣地深くに入り討たれたという逸話と、陣杭の柳より200メートル余り南にある遠藤塚を挙げ、信長の本陣は後退したとみています。遠藤の話は『日本戦史』と『信長公記』にも見えます。徳川勢については、本隊が姉川を渡って「千人斬りの岡」「血原」付近で朝倉軍と交戦し、早々に退いた朝倉軍を小谷城下近くまで追撃したと推定し、家康軍の活躍は江戸時代に過大に語られるようになったとみています。
どちらかを正解と決めるのではなく、どの史料・研究がどの位置と順序を描いているかを切り替えて確かめてください。
その後 — 横山城と古戦場に残るもの
『日本戦史』は、南軍が大寄山と虎御前山の附近まで追ったのち兵を収め、戦後に横山城の守将の請いを許して城を開かせ、木下秀吉を置いたと記します。『信長公記』は、小谷まで五十町を追い討ちして横山へ人数を返し、横山城は降参して木下藤吉郎が入れ置かれたとしますが、その日付は記していません。死者について『日本戦史』は北軍千七百余人、南軍八百余人と伝えられるとし、『信長公記』は宗徒の者千百余を討ち捕ったと記します。
太田は、浅井・朝倉氏の滅亡まで四年かかったことから、この合戦は致命的な敗退ではなかったと考えています。長浜市は野村町付近と三田町付近で両軍が対峙したとされると紹介しており、三田村氏館跡や遠藤塚が古戦場の手がかりとして残ります。出典:長浜市 三田村氏館跡
もっと知る
太田浩司『浅井長政と姉川合戦 増補版』(サンライズ出版)は関連書籍にまとめています。出典:浅井長政と姉川合戦 増補版このページが参照したのは同じ著者の解説記事で、書籍の本文とは照合していません。『日本戦史』の本編と補伝、『信長公記』は性格の異なる史料です。下の出典一覧で原本を別々に確かめてください。